英語は学ぶ必要が無い仮説
与党が大学受験者全員にTOEFLを課すという提言をするなど、世の中とかく「英語」「英語」と叫ばれています。
いわゆるグローバル化というものなのでしょう。
「日本の産業が苦境なのは英語が話せないからだ」という空気のもと、近いうちに「英語を話せぬ者は人でなし」と言い出されかねない雰囲気まで感じます。
しかし、こんなにも日本人は「英語」に熱を上げているにもかかわらず、肝心の実力はまだまだのようで、まるで片想いに敗れ続けてボロボロになっている人のような正直見てらんない状況です(そういう、私も英語苦手なのですが!)。
■日本人は英語が苦手
なぜ、日本人は英語が上手くならないのでしょう。
これは以前の記事でも書いた通り、そもそもwritingやspeakingなどの意見主張能力が乏しいためと私は考えています。(日本人は英語が苦手と言うけれど - 雪見、月見、花見。)
言語習得の基盤となるこの意見主張能力を育て、状況を乗り越えていくには、「空気を読む」ことを優先する教育や文化や社会や人々の意識を全部大改造しなければいけませんので、並大抵のことではありません。
そんなことをしているうちに、英語力の面ではドンドン日本は取り残されてしまうでしょう。
こう言うと、
「苦手だからこそ、もっともっと英語教育を充実しないと!」
そう言う方もいらっしゃるかもしれません。
でも、待って下さい。
もしかしたら英語なんて学ぶ必要が無いかもしれませんよ?
■英語の相場が天井の可能性は?
株の世界のことわざ(?)に、「ワイドショーや女性週刊誌が株特集を組んだら売り時」というものがあります。これは「誰も彼もが、株だ、株だと言い、株に価値があると感じた瞬間が、相場の天井だ」ということを示しています。
そして、今まさに、世の中は猫も杓子も政府も大衆も「英語」「英語」と言っているご時世です。
ことわざの通り、ここが「相場の天井」である可能性もあるのではないでしょうか?
ここで買ったら「高値でつかむだけ」のリスクがありえるのではないでしょうか?
だから、「英語を学ぶこと」の将来性について、念のため考えてみても良いのかもしれません。
そんなバカな、「英語を学ぶ価値」が下がるはずがない、と思われる方。
原発は絶対にメルトダウンしないと言われていました。
タイタニックは絶対に沈まないと言われていました。
無敵艦隊は絶対に敗れないと言われていました。
そう、私たち人類は「絶対大丈夫」と信じて、歴史上数々の失敗をしでかしています。
「絶対ダメ」と思う必要も無いですけれど、「もしかしたらダメになるかも」ぐらいはちょっと考えてもいいのではないでしょうか。
諸行無常・・・日本人にはせっかく馴染みのある思想ですし?
■「英語を学ぶ価値」の暴落をもたらす可能性があるもの
ここまで読まれた方はきっと、
そんなに言うなら、何か具体的に「英語を学ぶ価値」が下がる理屈でもあるの?
と言われることでしょう。
あくまで仮説ですが、私の中では一応あります。
「これからの時代は中国です!だから英語ではなく中国語なんです!」
・・・という、国勢バランスの変動という仮説も面白いのですが、私が勝手に最も有力視しているのは「テクノロジー仮説」です。
How It Feels [through Glass] - YouTube
皆様、google glassの動画ご覧になりましたでしょうか。
私も機械モノには詳しく無いのですが、どうやら眼鏡が各種情報を処理し、通信し、録音・録画し、便利情報を表示してくれちゃう代物のようです。ウェアラブルコンピュータと言うそうですが、普段かけている眼鏡がスマートフォンのようになると言ったらいいでしょうか。
とにかく、動画を見た時の私のインパクトは凄く、テクノロジーはココまで来ちゃったかと唖然とさせられました。
普段の生活や行動の最中に、全く自然に情報処理やネットワーク通信が入ってくるそんな未来が今目の前に見えてきたのです(これなら手ベタも心配要らないし・・・)。
そして、実は、この機械「翻訳機能」も付いているんですよ。
詳しい仕様は分からないのですが、音声や文字を認識して、その場で翻訳した結果を文字や音声で返してくれるようです。
・・・ほーら、薄々聞こえませんか、祇園精舎の鐘の声。
■あなたは英語力で機械に勝てる?
今でこそ、確かに機械の翻訳機能は十分ではないかもしれません。
ですが、皆様も御存知の通り、google glassのようなテクノロジーは着実に、そして指数関数的に進歩してきています。
その翻訳機能が近い将来に、十分すぎるほど発達する可能性は全然低く無いのではないでしょうか?
例えば、google glassの動画を見ていると、言語圏が異なる者同士のコミュニケーションにおいても、お互いがglassをかけて話すことで、相手のセリフを同時通訳し、映画の字幕のように表示してくれる――そんなまるで「ほんやくこんにゃく」な状況だって全く夢では無さそうです。
もちろん、文学的な表現や、詩的な表現、洒落や造語などにはなかなか対応できないかもしれません。
でも、グローバル化で最もコミュニケーションが求められているビジネスや学問などの、「堅い言葉」を使う場面ではどうでしょう?
聞いたところによると、既に論文のような比較的定型的な文章の作成はもう機械的に作れちゃったりするそうですよ。
そんな中、あなたは機械の翻訳に勝てると思いますか?
日本語で勝負するんじゃないんですよ。
第二言語の英語で勝負するんですよ?
もし今のところはとりあえず勝てていても、相手はどんどん成長するんですよ?
将棋プロ棋士を負かしたコンピューターソフトのように、ある年勝っても数年後には相手がもうとんでもない強さになっててもおかしくないんですよ?
正直言って、私にはずっと勝ち続ける自信はありません。
しかも、そんな私たちの英語力が機械に負ける未来は、10年後、いえ下手をすると、5年後、3年後だってありえます。
もう、そこまで来ていてもおかしくないのです。
その時に、ほんとに「英語を学ぶ価値」が残っているでしょうか、何とか習得したそれなりレベルの英語力に価値が残っているでしょうか?
この「英語を学ぶ価値」がいつまでも続かないかもしれないという「もしかして」は「英語熱」が最高潮の今こそ冷静になって考えないといけないことなのだと思うのです。
■日本人の採るべき戦略
このテクノロジーにより「英語を学ぶ価値」(というより「第二言語を学ぶ価値」)が激減する説を仮に信じるとすると、日本人が採るべき戦略は何でしょうか。
・英語政策の縮小
とりあえず「全員TOEFL必須」に代表されるような英語力に注力する教育政策は全て止めるべきです(それなりの英語の授業自体は残す方がいいでしょう)。確かにテクノロジーが未熟な段階では、その教育で培ったそれなりの英語力も役に立つかもしれませんが、それもテクノロジーに抜かれるまでの短期間です。
特にこれから入学するような児童や、生まれたての赤ちゃんなんかに、集中して英語を教える必要は非常に低いでしょう。なにせ彼らが社会に出るまでに10年、20年かかるのですから、その頃のテクノロジーの発達度合いは・・・考えただけで恐ろしいですよね。
・実力の向上
冒頭で「日本の産業が苦境なのは英語が話せないからだ」という空気があるということを書きましたけれど、日本の産業が苦境なのが本当に言語の壁なのであれば、その壁が今後自然に取っ払われるのですから、やるべきことはその「本当の実力」という牙を磨くことに尽きるのです。
商品力でもサービス力でも技術力でも科学力でも何でもいいですが、他の非英語圏の国々も英語に目を奪われている今こそ、英語以外の能力を伏して伸ばす好機なのです。
・テクノロジー仮説を加速させる
そして、さらなる究極戦略が、「英語の壁」に悩む日本人だからこそ、いっそのこと「テクノロジー仮説」そのものを加速させる方向に進めてしまえという戦略です。
つまり、google glassなどのウェアラブルコンピュータに搭載する翻訳アプリの開発・推進を国を挙げて進めてしまうわけですね。
それによって、先ほども見たような日本人の「本当の実力」が一気にグローバル市場に雪崩れ込むことができるというわけです(本当に実力があるかどうかはまた別の問題ですが・・)。
さらに、このような翻訳アプリは「日本語-英語」間だけでなく、例えば「中国語-英語」や「フランス語-アラビア語」など、何にでも応用可能ですから、世界中にニーズのある、とんでもない市場価値を持っています。そのノウハウを日本が握ることができるのですから、ビジネス的にも産業的にもウハウハ間違い無しなのです。
このような翻訳テクノロジーを進める費用は、教育改革で英語集中戦略に費やす予定だった予算を回せば、けっこう賄えるのではないでしょうか(予算規模をよく知りませんが)。
これらのような戦略を採った上で、「テクノロジー仮説」が実現すれば、日本人が非常に有利になるのはもう明らかですよね!
■バブルは弾けるまでバブルと気付けない
・・・いかがだったでしょうか。
もちろん、上の話は私の勝手な仮説(妄想)ですので、全然そうはならないかもしれません。
やっぱり、テクノロジーは言語の壁を破れず、いつまでも「英語を学ぶ価値」は高いままかもしれません。
しかし、どうでしょう、危ないと思いませんか。
全員が全員に英語を押し付けるような教育。
もし、そんなことして、英語が必要なくなったら、もう目も当てられない大変な損害ですよね?
有名な話ですが、数多くの有性生物が面倒くさい交配をしてまで多様性を保とうとするのは、環境の激変での一網打尽を防ぐためです。
暑い気候が続いていても、暑さに強い個体だけでなく、寒さに強い個体だって用意しておくのが多様性です。そうしていないと、暑い気候が終わり急に寒い気候が来た時に全滅してしまうからです。
そう、生物は本能的に、みんなが一様であることのリスクを察知しているのです。
それをどうでしょう。人はそのリスクを忘れがちなんじゃないでしょうか。
目の前の利益を追うことを「合理的」と言って、大切な視点を落としてしまっているのではないでしょうか。
「今これが役に立つスキル」と言って、みんながみんなそれに追従することの恐ろしさを忘れてしまっているのではないでしょうか。
高まるばかりの「英語熱」。
今や政府も巻き込んで、アベノミクスの株相場をも思わせる様相です。
ですが、日本人は身をもって知っているはずなんですよ。
バブルは弾けるまでバブルと気付けないということに。
そして、私たちは魂で知っているはずなんですよ。
盛者必衰の理を。
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P.S.
というわけで、妄想大爆発の記事です(/ω\)
えー、文中では散々「英語を学ぶことの価値」を貶めましたが、それはあくまでビジネスや学問など、実用を重んじる姿勢での話です。
やはり生の言語での現地の人とのコミュニケーションは、人と人との触れ合いや相互理解という面では必須だと思いますし、言語を生のまま扱うことにより実現できる文学的・感情的な表現の豊かさも失うべきではない大切なものと思います。
ただ、「英語が日本の興隆のために必要!」という姿勢、つまりあくまでただの「道具」かのような視点で「英語」を推進している姿勢は正直どうなのかなと最近強く感じるんです。
そのただ点数で評価されるような「英語力」とやらには、私には感情も魂も人柄も感じとれません。そして、そんなただの「道具」扱いならばこそ、未来の機械軍団に取って代わられるんじゃないかなと思うのですよ。
それにしても、政府の「TOEFL必須」提言にはまだまだ言い足りないほど文句があるので、またいつか書くかもしれません(笑)