読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

過剰な労働力供給には神様も手が出せない!? ~市場原理の誤算~

早いもので明日が総選挙ですね。

今年は、中国が共産党大会していたり、アメリカで大統領選やっていたり、日本の総選挙の後で韓国も大統領選が控えていたり、とても政治が動いた一年でした。

 

さて、そんな世界各国どこでも選挙にあたって議題になるテーマがあります。

それは「雇用問題」です。

 

――失業率を減らします、雇用を創出します

 

聞き慣れた(聞き飽きた?)こんな主張は日本だけのものでなく、案外各国で言われているのです。中国こそ一応共産主義ではありますけれど、日本・アメリカ・韓国は資本主義社会ですし、ここに出てないヨーロッパの先進国でも当然同様の問題が言われています。

 

そう、雇用は足りていません――すなわち労働力は余っているのです、世界的に

 

なぜ、こうなってしまうのでしょう?

 

というわけで、少し間をあけましたが「労働豊作貧乏」シリーズの続きになります。

前回、「働かざるもの食うべからず」という標語の危険性をお示ししました。

今回は、そのようなみんなが心に抱いている意識の観点ではなく、資本主義という制度そのものの問題という観点で、いつものようにボーッと考えていきたいと思います。

 

前回までの「労働豊作貧乏」シリーズ記事

過労死するほど仕事があって、自殺するほど仕事が無い - 雪見、月見、花見。

今、社会が労働豊作貧乏時代になっているワケ - 雪見、月見、花見。

(コラム)第三次世界大戦は既に始まってるのかも ~産業と戦争の関係と歴史~ - 雪見、月見、花見。

「働かざるもの食うべからず」の呪縛 ~ブラック会社?いいえ、ブラック社会です~ - 雪見、月見、花見。

 


*神様の動かす市場原理


市場原理――何となくご存知の方も多いと思います。

私たちが住む日本も基本的にはこの市場原理に基づいた資本主義経済で成り立っています。

この市場原理のルールは至ってシンプルです。

 

――自由意思・相互同意で物々交換をする

 

これだけです。

例えばAさんがパンを持っていたとします。

そのパンをAさんが100円で売りたいと思っていて、Bさんが100円で買いたいと思っていたとします。交渉の結果、お互い自分に納得の行く条件ということで、AさんからBさんに100円でパンを売るという売買契約が成立します。この場合、ちゃんと相互の同意が得られていますね。

でも実はAさんは200円で売りたいと思っていたとすると、Bさんが100円で買いたいといっても、Aさんにとっては条件が満たされません。ですから、この売買条件ではAさんの同意が得られないため「相互同意」とならず契約が成立しないのです。そして、売買が成立しないからといって、Bさんが無理やりAさんに100円で売れなだと強制もできません。それは「自由意思」の部分に抵触するからです。

 

市場原理に基いて行われる経済(資本主義経済)のメリットはいくつか知られています。

 

まず一つ目は個人の自由権と財産権が尊重されるということです。自由意思・相互同意のルールを定めただけで、すでに脅迫や窃盗などのいわゆる犯罪行為がルール違反であることが明確になります。市場原理のこの自由を愛する性格は現代社会では非常に人気があります。

 

もう一つは非常に効率が良いということです。各個人が自由に経済活動をできる結果、誰が調節しなくとも自然に市場全体もバランスの良い形になっていくという性質が言われています。有名な「神の見えざる手」と呼ばれる理論ですね。

例えば、市場全体でパンが不足していたとします。つまり、パンの需要が供給を上回っていたとします。すると、パンが欲しい人全員に行き渡らないので、売り手からすれば「君が買わないなら他の人に売るよ」と、足元を見て価格を上げることができます。売り手にとっては美味しい話ですね。

しかし、市場原理の神様はそれをほっときません。

価格が高い、すなわち利益が高いとなると、他の人もパンを作るようになり、売り手に参入し始めます。みんな自由ですから好き勝手にパン屋に参入できるのです。すると徐々に供給が増えてきて、売り手も足元が見られなくなってきて、だんだん価格が下がっていきます。結果、需要と供給が均衡になって、パンの値段も程よい価格に落ち着くのです。

パンが過剰に供給されていた時はその逆です。つまり、パンの供給が需要を上回っている状況ですね。すると、誰かのパンは絶対売れ残るので、買い手から「値下げしてくれないと他の店で買うよ」と足元を見られ、価格が下がり始めます。売り手にとっては辛い状況です。価格が安く、すなわち利益も低いとなると、パン屋業から撤退する人も出てきます。すると徐々に供給が減ってきて、買い手も足元が見られなくなってきて、だんだん価格が上がっていきます。結果、需要と供給が均衡になって、パンの値段も程よい価格に落ち着く、となります。

このように、いずれの場合でも、パンの需給の不備の部分が自然に調整されて、市場全体で適切なバランスになるはずなので、勝手に調整してくれるこの性格を「神の見えざる手」と表現されているのです。

 

また、各自が利益を目指すことで、改良や新発明なども生まれやすいというメリットもあります。

 

つまり、市場原理に従えば、個人が自分の利益を追及しているだけで、それが社会全体の効率化・進化にもつながるという一石二鳥の効果があるのです。

この力は凄まじく、資本主義VS共産主義であった先の冷戦が、実質上、資本主義の完勝であったこともそれを裏付けています。

 

市場原理は個人の権利を守り、社会全体にも良い。

そんな完璧で、合理的な仕組み――そのはずだったのでした。

 

 


*人間の動かす市場原理


そう、市場原理、理屈は完璧なんです。

しかし、考えてみて下さい。

先ほど述べたように、各資本主義国家で労働力が余っています。おかしいですよね?

だって、労働力が過剰なら、本来「神の見えざる手」によって労働力の供給が減っていくはずなのです。でも、減らないんです。減らないどころか増えていく一方だからこそ、さらに労働力の価格がどんどん暴落していくのです。

なぜ、こんなことになってしまうのでしょう、神様はどこに行ってしまったのでしょう?

 

労働力の過剰供給が止まらない理由――ここに市場原理最大の誤算があります。

市場を動かしているのは神様なんかではなく、人間というかよわい生物に過ぎないことを忘れていたのです。

 

――人間は死ぬもの、そして死にたくないもの

 

実は市場原理の誤算はこの一言につきるんです。たった、これだけです。

 

具体的に見ていきましょう。

 

先ほど、市場原理は「自由意思」が原則と言いました。

だから、脅迫に基づく契約は無効になるとも言いました。

例えば、銃を頭に突きつけられた状態で「このパン10000円で買うよね?」と言われて契約したとしても、それは市場原理では許されません。だって、そのパンに10000円の価値を見たからでなく、「死にたくないから」買っただけなのですから。脅迫されての同意は、強制であって「自由意思」ではないので無効なのです。

 

では、次の場合はいかがでしょうか。

あなたが砂漠で遭難していて、喉がカラカラで今にも死にそうだったとします。そこにオアシスが見えました。ようやく水が飲めると思ってあなたがオアシスに近づくと、どうもそのオアシスの所有者らしい人物が立っていてこう言います。

「この水は一口100万円だ」

とんでもない暴利です。しかし、飲まないと死んでしまうかもしれません。ただ、なぜだかわかりませんが、ちょうどあなたはカバンの中にたまたま大量のお金を持っています(笑)

それなら、渋々あなたはお金を払うことでしょう。生きるためには仕方がないですから・・・。

さて、このケースでの契約は成り立つでしょうか、成り立たないでしょうか?

オアシスの所有者は冷たいかもしれません。かといって、オアシスの水を彼の同意を得ること無く飲んでしまうのは、それはそれで窃盗となって市場原理のルール違反です。

一応、脅迫されているという証拠も無いといえば無いですから、「自由意思」で「相互同意」な気がしますけれど、なんだか釈然とはしないですよね。その釈然としない理由、おそらく「自分の命」が絡んでいるからではないでしょうか。足元を見られているようで、気持ちがよくないからではないでしょうか。

 

でも、足元を見るのが市場原理のルール違反かというとそういうものでもありません。先ほどの「神の見えざる手」の説明でも、売り手・買い手ともに相手の足元を見ながら価格を上下させています。

あと、私たちの実生活でもいっぱいありますよね。富士山頂だと水のペットボトルは500円だったり、いいとこのレストランのコーヒーが1000円ぐらいしたり。もう、足元見られ放題ですよね(笑)

だから、現実として相手の足元を見るのは違反ではないんです。

 

人間は死ぬものだから、そして死にたくないものだから、自分の命がからむと途端に「契約」の内容が歪み始めます。相場からどんなにかけ離れていても死ぬわけにはいかないから、どんな暴利でも同意せざるを得ないのです。

そう、「命」について足元を見れば、合法的に「脅迫」ができる、相手の「自由意思」を操作できる、これが市場原理の誤算でした。

それもこれも、ただただ、市場を動かしているのが神ならぬ人間だったからなのですが。

 

 


*人質にとられた私たち


市場原理のルールに基づけば、私たちには勝手に食べ物が降って来ません。

だって、食べ物を所有している人たちが同意してくれないと、食べ物をもらえないからです。そして一部の優しい人や酔狂な人を除けばタダで食べ物をくれることはありません。本人たちに何のメリットも無いですから、市場原理から行けばタダは基本的に無いはずなのです。

 

だから、食べ物をもらうために、私たちは必ず何かをしないといけません。生きるためには、必ず何かをしないといけません。相手が、食べ物と交換条件で納得できる何かをしなければいけません

それが私たちが欲してやまない「仕事」の正体です。

だから私たちは働くことが止められません。

だって、働くことを止めたら、食べられないから、死んでしまうから。

だから、それがどんなに暴利でも、どんなに過酷でも、私たちは働くことに「同意」せざるを得ないのです。

たとえ、誰も「働かざるもの食うべからず」と言わなかったとしても、ただ市場原理を守り続けているだけで、そうなっちゃうのです。

 

労働力過剰を止めるためには、労働の供給を止めないといけません。

でも、人間はかよわいので、食べなければ死ぬんです。働かなければ死ぬんです。だから、「条件が納得いかないから、働かない」という選択肢が本当は最初から欠けているのです。食べなくても死なないというのは神様じゃないと無理なんです。

どんなに納得いかなくても、いつかは「同意」しなければならなくなっているのです。

だから、どんなに労働力が過剰でも、私たちは労働力の供給を止められません。そして労働力供給に対して需要が足りず、「雇用問題」が発生するのです。「過労死するほど仕事があって、自殺するほど仕事が無い」なんてことにもなるのです。

 

 

これは合法です。悔しいですけれど、市場原理のルールの範囲内なのです。

 

でも、どうでしょう。私はみなさんにお尋ねしたいです。

 

 

これは銃を頭に突きつけられている「脅迫」と本当に違うのでしょうか?

 

自分の命を天秤に乗せられて、本当に「自由意思」と言えるのでしょうか?

 

結局、私たちみんなが人質になっているようなものではないでしょうか?

 

 

私は、すごく自由を愛する性格だと自負しています。

市場原理は「自由」を愛した人たちが築き上げた傑作ではあるとおもいます。

でも、だからこそ、思います。

こんなのは「自由」じゃないと。

「自由意思」に基づくはずの市場原理が、結局のところ、こういう形に落ち着くのであれば、やっぱりこれは欠陥品なのです

 

 

「自由」を愛する人たちの一部は、リバタリアニズムと言われ、市場原理主義を謳っています。

でも、市場原理は実は自由なようで不自由なものなんです。

本当に「自由」を愛するならば、市場原理だけではダメだと気づかないといけないはずです。

市場には神様なんていないことにそろそろ気づかないといけないんです。

市場の落とし穴に落ちてしまった人たちを助けられるのは、やっぱり私たち人間の「見える手」だけなんですよ

 

 

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

 

 

P.S.

あ、でも、市場原理そのものが不要なツールということではありません。どちらかと言うと、むしろ私は市場原理推奨派です。ただ、「市場原理それだけではダメ」ってことは、はっきり知っておくべきだと思うのです。

 

さて、そろそろ次ぐらいから労働力過剰に対する私たちの戦い方について考えていきたいと思いますー。