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雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

「自由」には「自己責任」が伴う?

社会

前回の「自由には責任が伴う」の内容について、id:creep07さんに記事をいただきました!(自由と責任 - 自由日記

ありがとうございます♪

 

で、creep07さんが仰る通り、

 

「自由に責任が伴う」というのは自由を手にする変わりに「何かをしなければならない」とか「何かをしてはならない」という義務的な意味ではなくて、自由を 行使することによって、その行為がいかなる結果を招こうとも、自分で受け入れなければならないという意味なのではないでしょうか。

 

というのが、やっぱり一般的な「自由には責任が伴う」の解釈だと思います。まことにごもっともだと思います。

 

じゃあ、それなのに前回私がなぜ「義務」の話にしたかといいますと、この問題についてcreep07さんが言われるような「自己責任」の範囲から逸脱して、なんだかんだで「義務」の話に持っていく人が多いからなんです。

 

 

例えば、某政党の憲法改正草案なんですけれど(コレ⇨【PDF注意】)、

 

第12条の

 

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ

 

が、改正案だと

 

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない

 

こうなるんですね。

 

ほら、すぐ「してはならない」って言うでしょう?

「義務」って言うでしょう?

 

立法にかかわって権利やら義務やらを日常的に考えてる方々でも、こんな感じですから、一般の方々でもこの「自由」と「義務的な意味での責任」をセットにしてしまう方が多くても全然不思議ではありません(って、改憲案考えた人たちはわざとやってるのかもしれないのですけれど)。

だからこそ、ここはちゃんと言っとこうと思って書いたのが前回の記事になります。

 

 

 ◆

 

 

さて。

だとしても、今度は、なんで私が「自由には責任が伴う」の「責任」を「自己責任」という一般的な解釈にしなかったか、と思われるかもしれません。

 

ええと・・・正直なところ、私の中でその解釈はあえて避けていたんです。

 

というのも、私も長らく「自由には自己責任が伴う」という「自己責任」解釈派であったのですが、実はこれも違うのではないかと最近感じているからです。

 

まだ私の中でも悩んでいる段階なので、考えがよくまとまっているところとは言えないのですが、せっかくですのでその辺りもお話したいと思います。

 

 

 

 

例えばですが、あなたが拳銃を頭に突きつけられている状態で、「俺にただで金を出すか出さないか、どっちか選べ(出さないならお前は死ぬよ)」と言われたとして、それは自由な選択と言えるでしょうか。

 

・・・まあ、言えませんよね、完全な脅迫ですから。

 

 

じゃあ、

 

あなたが家族を人質に取られている状態で、「俺にただで金を出すか出さないか、どっちか選べ(出さないなら家族は死ぬよ)」と言われたとして、

 

あなたがすっごく餓え死にしそうな状態で、「このパン一切れに全財産を出すか出さないか、どっちか選べ(出さないならパンはあげないよ)」と言われたとして、

 

あなたが日々ギリギリの生活をしている状態で、「この仕事(超過酷)をやるかどうか、どっちか選べ(やらないならお前はクビよ)」と言われたとして、

 

・・・

 

あなたが就活時期を前にした状態で、「夢のミュージシャンになるためにリスクの高いフリーターをするか、夢をあきらめ堅実にサラリーマンになるか、どっちにしよう」と自問自答したとして、

 

あなたが怒れる奥さんを前にした状態で、「仕事と私、どっちが大事なの、選んで!」と言われたとして、

 

あなたが株式相場を見つめながら、「今、買うか、買わないか、どちらにするべきか」と自問自答したとして、

 

・・・

 

あなたが大金持ちの悠々自適生活している状態で、お抱えシェフに「今晩は中華かフレンチかどちらにいたしましょうか」と聞かれたとして、

 

あなたが経営者をやっている時、使えない社員(でも生活はギリギリ)をクビにするかどうか悩んでいたとして、

 

十分なお金や物品を持っているあなたが道すがら、息も絶え絶えの人に「食事と水をくださらんか・・・」とお願いされたとして、

 

あなたが(一応)合法的にほぼ実権を掌握した自由民主国家の中で、「国民と国会からあなたへの全権委任(独裁者になること)を求める声があがっておりますが、お受けになりますか」と聞かれたとして、

 

あなたが殺し屋で、「大金と引き換えにある人物を殺すかどうか」を考えていたとして、

 

 

――さあ、どこからが、そしてどこまでが、自由な選択と言えるでしょうか

 

 

上に示した限りの中ぐらいでは、もしかすると、とりあえずは「この辺かなぁ」と指させるかもしれません。

 

でも、本当は私が示してない隙間にももっともっと無数の――いえ、無限の「選択」がこの世界には存在しうるんです。

そんな中で、どこからどこまでが「自由な選択」なのかを決めることは非常に難しいことです。

無理と言っても過言ではないでしょう。

 

 

それでもまず、自由主義の「相手の自由を損なう行為は厳禁」という大原則から従えば、両極あたりは直接人を殺す殺さないを焦点にして「生きるという自由」を侵害しているので、「自由な選択」として許されないとは言えるでしょう。

 

しかし、「飢餓状態でパン一切れに全財産出さざるをえないこと」や「物乞いに自分の食べ物をあげないこと」は「自由選択」の範疇になります。

なぜなら、「自分の所有しているパンを相手にあげるかどうか」は本来本人の自由だからです。

また、もしパンをあげなかったとしても、(近い内に相手は死んでしまうかもしれませんが)それが直接的に相手を殺すわけではありませんので、相手の自由を直接的には侵害する選択ではないからです。

どんなに生死に近い究極の選択であったとしても、「相手の自由を損なう行為は厳禁」という大原則にはギリギリひっかからないので、かたちの上では「自由選択」として許されてしまうのです。

 

そして、こうなると、「持てる者」が「持たざる者」を酷使することができるようになります。

 

「持てる者」は「別に君が嫌だっていうならいいけどね?(野垂れ死んでもしらないけど)」と「持たざる者」を不利な条件に追い詰めることができますし、「持たざる者」は「持てる者」のどんな過酷な条件にも「(本当は嫌だけど)生きていくためには仕方がない」とそれを呑むしかなくなるからです。

 

それで結局、先ほど挙げた「選択」リストの両極にどんどん分かれていくのです。(※これがいわゆる自由社会における「格差問題」になります)

 

 

ここで、本題の「自由には自己責任が伴う」という解釈ですが、これは究極的にはcreep07さんの言う通り、

 

「自由に責任が伴う」というのは自由を行使して、それが最低最悪な結果を招いたとしても「自分が自由にやった結果なのだから、誰も責任とってくれませんよ、自分でなんとかしてください」という意味

 

なので、この状況に陥ることを防ぐことはできません。

 

みんな自分でなんとかしないといけないのに、なんともできない状態に「合法的に」追い詰められるからです。

 

だから、「自由には自己責任が伴う」という解釈のもと、

 

僕は自由を愛するけれど、自由というのは残酷だとも思う。

 

と、creep07さんが思われてしまうのも無理は無い話です。

 

 

この節の関連記事

過剰な労働力供給には神様も手が出せない!? ~市場原理の誤算~ - 雪見、月見、花見。

この時は市場原理主義が題材ですね(自由原理主義と表裏一体です)。

 

 

  ◆

 

 

さて、先ほど、無限にある「選択」の中で、どこまでが自由か自由じゃないか区別は難しいと言いました。

 

でも、少なくとも分かることは先程のような飢餓状態などの極限状態における「選択」は自由度が低いということです。

 

とはいえ、自由は自己責任と言い続けているだけでは、最終的にはその極限状態における二者に分かれてしまいます。

 

どんなに各々が自分にとって最善の選択肢を考えていったとしても、どうしてもそうなってしまうのです。

 

がんばって回っていたコマがいつか摩擦に負け、回るのをやめて止まってしまうように。

グチャグチャにかき混ざっていた泥水も、重力に負けいつのまにか泥が沈殿してしまうように。

 

「自由選択」「自己責任」のルールでは、「持てる者」が平均的に有利なゲームになっているので、「持てる者」が上に登リ、「持たざる者」が下に沈むのです。

それは、まるで見えない磁石にひかれるように。

 

皮肉なことですが、ただ各々の「自由」を守っているだけでは、社会全体の「自由度」は低くなっていくのです。

 

 

私は前回言いました。

 

誰かの「自由」が侵されようとしている時に、それを見て見ぬふりをするのは、それこそ自由に対する「無責任」なのです。

 

「自由」をもらったならば、そして、自分をその「自由」の徒として自覚しているならば、自然にその「自由」を守る責任感が生じてくる。

「自由には責任が伴う」という言葉はこういう意味だと私は思います。

 

 

誰かだけ自由度が高い選択ができていて、他の人たちは自由度の低い選択しかできない社会なら、それは「自由」が守られていない社会だと、私は思います。

「自由」が好きだからこそ、そんな社会は嫌いです。

私だけでなく、それは「自由」を掴んだ先人たちもそう思うはずです。

だって、そんな自由度が低い社会こそが、先人たちが「闘った相手」だったはずなんですから。

その闘いの戦果をもらっておいて、その「闘った相手」を復活させるのは、私にはひどい無責任にしか思えません。

 

 

確かに、私たちに、みんなひとりひとりの個別の選択の結果に対する責任はありません。

でも、社会のみんながうまく自由度の高い選択をしていけているかどうかについては責任があるのだと思います。

 

 

   ◆

 

 

こういう風に考えれば「自由」に「自己責任」というものは要らないことが分かります。

「自由には自己責任なんて伴わない」と考えてしまっても大丈夫なんです。

 

憲法だって

 

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 

から、後半を取って、

 

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。

 

で十分だと思います。

 

そんなことしたら、自由を濫用する奴が出るじゃないかと言われるかもしれません。

ですが、大丈夫です、誰かの自由な行動の結果にその本人の責任が無いとしても、私たち他人だってもちろん彼の行動への責任は無いからです。

彼がどんなひどい結果を出したとしても、私たちはその行動の尻拭いをする必要はありません。

要するに、誰にも責任が無いんですから。

 

ですから、多くの場合は彼自身が自身の自由意思により、自分で行為の結果の後始末をするはずです。

 

また、もちろん、他人の自由を直接侵害する行為は、「自由」を守ってない行為なので許されません。

 

つまり、結局「自己責任」があってもなくても、実は「濫用を防ぐ」という意味での効果は一緒なんです。

 

 

ここらでそろそろ、面倒くさいな、こんなの「ただの言葉遊び」じゃないか、そう言う人も出るかもしれません。

 

そう、「ただの言葉遊び」なんです。

でも、「ただの言葉遊び」だから恐ろしいんですよ。

 

 

「ただの言葉遊び」でも「自由な行為は自己責任だ」と言葉で言ってしまえば、本来それが何の意味もなしてないものだとしても、何だか何でもそれで許されてしまう気がしてしまうからです。

 

例えば、

 

誰かが自由にやった結果、ひどい目に合っているのを見ても、「これは彼の自己責任。私のせいじゃない」と思い、

 

誰かが事業に失敗し一文無しになっていても、「これは彼の自己責任。私のせいじゃない」と思い、

 

誰かがブラック会社で過酷な労働に従事していても、「これは彼の自己責任。私のせいじゃない」と思い、

 

誰かが部活でひどい体罰をしていても、「これは彼の自己責任。私のせいじゃない」と思い、

 

国の政治が悪ければ、景気が悪ければ、「これは政府の責任。私のせいじゃない」と思います。

 

 

 

私たち人間の心は弱いです。

 

誓ったはずのダイエットがちょっとした飲み会をきっかけに止まってしまうように、

頑張るって決めたはずの勉強が他がちょっと忙しくなっただけで止まってしまうように、

 

正当化できる理由があれば、ついついそれに乗ってしまいます。

それがたとえどんな稚拙な言葉遊びだったとしても、ついつい油断すると「これは自分のせいではない、あいつのせいだ」と思うようになってしまいます。本当はそうすべきでないことまでも。

 

 

だから、誰かの「自由」が侵されていることにも、鈍感になってしまいます。

だってそれは、自分のせいではなく、その人のせいだからと。

自分がやったことではないのだから、必ず誰か他に犯人がいるのだと。

 

 

普段忘れてしまいがちですが、社会や国というのは、実体としてそういう存在があるわけではありません。

自分以外の何者かでもありません。

 

それは「みんな」なんです。

 

そして、それは、やっぱり「自分」も含んでいるのです。

そんな「自分」がいっぱい集まってできているのです。

 

そんな「自分」がみんな「これは自分のせいではない、あいつのせいだ」と思うなら、社会全体が「これは自分のせいではない、あいつのせいだ」と思うのと同じです。

 

そうやって、みんなが自由についての問題を、社会の問題を、他人ごとだと思ってしまえば、私たちが社会全体の「自由」を守るという責任を果たすことはできなくなります。

 

個人が「自己責任」と言い続けることで、結果、社会全体の「自己責任」が守られなくなるのです。

 

 

だから、私は思います。

 

「自由に自己責任が伴う」なんて言っては危険なんじゃないかって。

 

多分、自由の結果は誰の責任でもないんです。

 

でも、実はそれは裏を返せば、

 

みんなの責任ってことなんですけどね。

 

 

   ◆

 

 

何が自由なのか、どこからが自由なのか、という問いに正解はないですし、そもそも多分究極的な自由な社会というのは実現不可能なんだと思います。

 

でも、どっちの向きが自由の風向きかだけは、私たちは感じ取れるはずです。

そして、それは「自由は自己責任」や、まして「自由に義務が伴う」といった解釈における社会の終末を目指す方向では決してないはずです。

 

 

着かないかもしれない。

たどりつかないかもしれない。

でも、向かっていくことに意味を見る。

 

何かを好きってのは、多分そういうことなんですよ。

 

そして、好きだから、先輩から受け継いだものを大事にして、そして後輩に綺麗なまま受け渡したい。

そう思います。

 

 

私は「自由」が好きです。

だから、みんなにもそれを味わって欲しいですし、後世にも残したいんです。

みんなも「自由」が好きになってくれたら、うれしいです。

 

 

結局のところ、「自由」が残酷になるかどうかは、私たちの「自由」への愛情次第なんだと、私は思うのです。

 

だって、ほら、動物だって、人だって、みんなそうじゃないですか。

 

「自由」 だって、愛されたい。

 

多分そういうものなんですよ。

 

 

 

 

 

 

 

P.S.

責任の有無については、私たちは、発言権が無くて自由を行使できない、過去の先人たちや未来の子どもたちには責任がありますが、発言権や自由権のある私たち自身にはみんなお互いに責任が無い(あるいはみんなに平等にある)、そう思っていただけると分かりやすいかもです。

 

まあ、ちょっとまだ、悩んでいるテーマですので、色々と怪しいところがあるのですけれど、みなさんの考えるきっかけになればうれしいです。