「働かざるもの食うべからず」の呪縛 ~ブラック会社?いいえ、ブラック社会です~
労働豊作貧乏のお話の続きです。
前回までのあらすじを振り返りますと、
・「過労死するほど仕事があって、自殺するほど仕事が無い」という日本の労働環境の惨状はつまり「労働力が余っている」ということ。
・労働力が余ってきたのは人類が長年かけて行なってきた生産性の向上が、ついに人々の消費力という大台を超えてしまったから。
・農業が飽和して、工業が飽和して、今はついにサービス業が飽和しつつある時代。
という感じでしたね。
前回までの「労働豊作貧乏」シリーズ記事
①過労死するほど仕事があって、自殺するほど仕事が無い - 雪見、月見、花見。
さて、この全体像を見ていますと、当然ある疑問が沸き上がってくると思います。
「社会に食事もモノもサービスもたっぷりあるのに、何でこんなにみんな苦労するの?だって、足りてるんでしょう?」
そうなんです。
よく「仕事だから仕方がない。こっちも食べていかなきゃいけないからね」というような発言を耳にすることがあると思います。しかし、これは冷静に考えると不思議なことです。飽食の時代とも言え、食品の廃棄率もすごく高いとされる日本において、みんな「飢え」を心配しながら働いているということなのですから。
いえ、心配だけではありませんね。悲しいことですが、数多くの飲食店が立ち並ぶ街角の片隅で餓死をする人が出るというような皮肉な事態も実際にはあるようなのです。
なぜなんでしょう。狩猟をしながらその日暮らしで食糧が獲れるかどうか心配しているような原始時代から遠くここまできたはずでした。とても豊かになったはずでした。そんな「飢え」の心配からは解放されたはずでした。
私たちは何を間違えたのでしょうか。
原因は実は分かっています。
その大きな一つは、社会の意識的な問題です。
そう、表題にも挙げました、有名な格言である「働かざるもの食うべからず」の呪縛です。
*社会に蔓延する「働かざるもの食うべからず」主張
もう用語としても大分定着しましたけれど、ニートという「働かず、学ばず、訓練もしていない」という人々。彼らの存在は社会問題の一つとされています。ただ、議論の主旨はほとんど「彼らをどうやって働かせるか」であって、社会にとってその存在は基本的にはネガティブにとらえられています。
また、最近もよく問題に挙がっているのが増加する生活保護です。そして、こちらの議論においても、ほとんどの話は「彼らをどうやって働かせるか」であって、ニートと同様にネガティブな印象としてとらえられていることが多いのが実情です。
これらの議論を見ていると、「タダ飯喰らい」、「誰のおかげて飯食ってると思ってるんだ」、「寄生虫」などなど信じられない暴言だって時に出ます。多くの人はそこまでの暴言には顔をしかめはするかもしれません。しかし、そんな良識のある人々でさえも、やはり思っているのではないでしょうか、「彼らは社会のお荷物」であると。だから、その暴言でさえも、大筋のところでは反対はされていないのです。
そう、まさにこの社会の前提条件は、「働かないことは社会に対する不孝」であり、「働くことこそが社会貢献」である、となっているのです。
社会の中の「働かざるもの食うべからず」という意識がすごく強いんです。
しかし、私は、そんな「働かざるもの食うべからず」という意識こそが今の「社会の癌」で、何とかしないといけない問題、と思っているのです。
今回はそんなお話。
*「働かざるもの食うべからず」の誕生
この「働かざるもの食うべからず」という概念ですが、人間社会黎明期では当たり前のものではなかった可能性があるんだそうです(あ、またタイムスリップですね;)。
例えば、現代でも奥地では未だに狩猟を営んで生計を立てている部族が少数ですが知られています。そして、このような部族では食糧も豊富でないはずなのに、「働かざるもの食うべからず」でないことがあるというのです(参考にしたもの)。
ある日、若い男たちが獲物を獲ってきて凱旋してきたとします。それを器用にさばいたあとは、村の人々に平等に分け合います。より多く獲ってきた人が多く取るなどということはありません。あくまで平等です。
これだけなら、まあ「若い衆は欲がなくて優しいねぇ、感心感心」と思ってしまうかもしれません。しかし、奇妙なのはここからです。とくに狩猟にいかず、獲物を分け与えてもらった人たちが「狩りにいってきた人たちに感謝する様子がない」のです。あたかも当然のことのように分け前を受け取るのです。
さすがに、これを見ると現代社会に住む私たちからすれば「いや、ちょっとは感謝してあげたらいいのに・・・」という気持ちが湧いてくると思います。
でもこれは仕方がないのです。この頃の社会は徹底的に「誰かのものは、みんなのもの」という共有財産の考え方で、今の私たちが当たり前だと思っている私有財産という概念はなかったのです。
さて、このような共有社会は「平等で格差がない」という点では良いのですが、「頑張った人が報われない」という弱点があります。どんな狩猟の才能を持った人も、危険をおかしたり、工夫をしたり、訓練したりと頑張っても、別に自分の得にはならないので、そこそこ村の人たちが食べられるだけ穫れるようになったらもうそれ以上は頑張りません。つまり、「平等である」半面、誰も頑張って生産性を上げようという意欲が湧かないので、社会が発展していかないということになるのです。
この社会体制を変えたのが、「農業の発明」でした(もうおなじみですね;)。農業の発明によって食糧を蓄えられるようになったのでしたが、これによって生じたものは何だったでしょうか。そう、「戦争」でした。人類は期せずして隣人が自分たちの村を襲いに来る可能性がある悲しい時代に入ってしまったのでした。
前の記事で見た通り、この頃の戦争は「農業力を競う戦争」です。つまり、集落が生き残るためには何とかして集落全体の農業生産力を高めないといけませんでした。ですが、先ほど見た通り、今までのような共有社会だと誰も頑張って生産力を上げることはありません。
そこで、発生するのが「働かざるもの食うべからず」です。
「社会のものは、勝手にみんなに分け与えられるものではない、社会に労働で貢献した者に与えられる報酬である。よく働く者はその分取って良いが、逆に働かない者に与える食糧は無い」としたのです。私有財産の登場です。
こうなると、急に労働というものが、個人個人にとっては死活問題になってきます。なにせ働かないと餓死の運命なのです、働くしかありません。そして、同時に「もしかしてよく働いたら贅沢できるっていうチャンス?」というお金儲けの欲望の誕生でもありました。
共産主義革命などのイレギュラーもありましたが、この考え方やシステムが現代の私たちの社会にまで続いていることは、ご存知の通りです。
さて、このように「働かざるもの食うべからず」は歴史上、生産力を競わざるをえなくなった人間社会が生み出した、「社会の生産力を上げるための考え方」だったのです。つまり、必要だったから仕方なく生まれた考え方であったに過ぎないということを押さえておく必要があります。
次に、この「社会の生産力を上げるための考え方」が、今の私たちのいる労働力過剰社会では何を引き起こすかを考えて行きましょう。
*過剰な労働力の引き起こすデフレスパイラル
生産性が高まって、社会の生産力が社会の消費力を凌駕してしまった現代社会。余った分の生産物は残念ながらムダになってしまいます。
冷静に考えれば、消費力に合わせた分だけ生産するように生産量を落とせばいいだけと、すぐに分かると思います。しかし、私たちの中の「働かざるもの食うべからず」の呪縛がそれを許しません。
社会にどれだけ食べ物やモノがあっても、働かないと個人に分け前が回ってこないというのですから、個人としては働かざるを得ないのです。
そう、「働かざるもの食うべからず」という「社会の生産力を上げるための考え方」がずーっと社会の中に残ったままなので、生産力が消費力をいくら超えようとも、ずっと社会は生産力を上げようと回り続けているのです。消費するアテの無い生産だけがどんどん増殖していっているのですから、これは空回りとさえ言えるでしょう。そして、こんな不合理な状態が続いて、これで社会が歪まないはずはありませんでした。
私たちの資本主義社会は、市場原理に従って、労働の価値の対価として報酬を受け取る仕組みです。そしてこの原理では、労働が過剰になればなるほど、労働の価値は下がっていきます。すると、労働者にとってはもらえる報酬が減ってしまうので、生活を維持しようと更に労働量を増やすか労働効率を上げようとします。結果、更に労働力が増えて、さらに労働力が過剰になってきます。
これが私たちが今悩まされているデフレスパイラルの原因と私は思っています。物価というのはつまり「モノを作るために使った労働力の価値」にほかなりませんから、労働力の価値の減少を私たちは物価の低下という形で目にすることができているというわけです。(今、選挙戦まっただ中で、デフレ対策についての政策提案も色々されていると思いますが、この労働力の過剰という視点から考えている方はいらっしゃるのでしょうか)
さて、このスパイラルの結果、個人に対する労働量増加の圧迫も際限なく進みます。この結果が、相次ぐ長時間労働やサービス残業、そして過労死です。
また、過当競争にわざわざ馳せ参じているのですから、企業も景気がいいわけがありません。消費力に対して労働力は十二分に存在しているので、企業としては新たな労働者を雇い入れる必要もあまりありません。この結果が、就職氷河期と、戦争のような就職活動戦線、そして就職難を苦にした自殺です。
そして、もうひとつとんでもないことが起きています。
労働量を増やそうと、各個人の労働時間が伸びれば伸びるほど、時間的問題・体力的問題から、消費力が落ちていきます。「お金は無くはないけど、遊ぶような時間がない」そんな人たちが増えてくるのです。
さらに一方で、労働の過当競争から労働市場から追い出された人たちは、金銭的問題から、消費力が落ちていきます。「時間はあるけど、遊ぶためのお金がない」そんな人たちも増えてくるのです。
この結果、さらに生産力と消費力のギャップが進み、このスパイラルをどんどん加速させてしまうのです。
なお、この現象が、消費者として一番最適な、時間とお金がそこそこある「中流階級」の消失や「格差社会」として知られていきます。
どれもこれも、労働力が過剰にもかかわらず、労働生産性を高めるためのスローガンを下げようとしなかったことから起きる悲劇なのです。
このスローガンは下がるどころか、社会が苦しい状況になる中で、「苦しいのはもっと頑張りが足りないからだ」なんて、更に労働力を増やそうとする声が上がるという冗談のようなことさえ起きていきます。
長年私たちの中にこびりついた「働かざるもの食うべからず」という考え方は、本当に根強いもののようです。
*「働かざるもの食うべからず」という殺人行為
さて、このように見てくると、社会にニートが増えたり、生活保護が増えたりするのは当然だと思いませんか?
生産力が消費力より、あまりにも多すぎるのですから、生産をせずに消費だけする人たちというものは自然に生まれてしかるべきなのです。農業が生まれたとき、食糧が余るようになって、農業をしない人たちが生まれたように。
だから、労働力が余ったなら、労働をしない人たちが生まれていいのです。
ニートや生活保護が増えてきた
過労死する人が増えてきた
就職活動が厳しくなった
みんながケータイばかり見て、テレビの視聴率が落ちてきた
物価が下がった
私たちはこれらを聞いて、もっと早く気づかないといけませんでした。
「あれ、もしかして労働力って余ってない?」って気づかないといけませんでした。
「働かざるもの食うべからず」ってスローガンが、完全に時代遅れになっていることに気づかないといけませんでした。
これはあくまで生産力が足りない時代までのものであることに気づかないといけませんでした。
時代が変わったことに気づかないといけませんでした。
なのに、猫も杓子も「働かざるもの食うべからず」、「働くことが社会貢献」と言い続けました。働かない者たちを罵り、侮辱し続けました。
その結果が、「過労死するほど仕事があって、自殺するほど仕事が無い」という惨状です。
誰も言わないので、私がはっきり言います。
もはや「働かざるもの食うべからず」という発言は、殺人です。
社会に食べ物も、モノも、サービスもあふれているのに、彼らがそれらを得られず、または得るために過剰に酷使されて、結果、絶望して死なないといけなかったのは、私たちが殺したからです。
「働かざるもの食うべからず」という意識から、そこから生まれた言葉から、空気から、行動から、彼らを追い詰めたんです。
だって、「仕事が無いのに仕事をしろ」だなんて、全くの無理難題なんです。
そう、今の社会で、労働力を更に増やすことは社会貢献なんかじゃありません。むしろ社会を破壊する行為です。
そもそも、もはやとても数が限られていてみんなが欲しがっている「労働の機会」という代物をもらっておいて、「働いている」そのことのみをもって、社会に貢献しているなどと言うのは、非常に傲慢な態度と言わざるを得ません。
今、世の中で、ブラック会社が問題になっていますが、それはその会社だけの問題じゃないんです。これだって社会全体の問題なんです。社会が労働力を過剰に供給し続けた結果、そこまで労働の価値が下がってきてしまったということ、ただそれだけのことなのです。
結局のところ、「働かざるもの食うべからず」という呪縛から、私たちが逃れない限り、この社会はブラック社会であり続けるのです。
<P.S.>
ちょっと過激に主張しましたけど、ほんとに大事なことだと思うので、ハッキリ言いました。こんなムダに人が死ぬ社会は私は嫌なんです。
さて、まだ労働問題のお話は次回も続きますー(長くてすみません!)。
今日は社会の意識の問題でしたが、実は資本主義という制度自体にも労働過剰を是正できないという欠陥があるのです。
次は「本来、市場原理に従えば供給過剰なものは自然に供給が減るはずなのに、労働力が減らないのは何で?」ということで、「資本主義と自由」というテーマについて考えてみる予定です。
肝心のこの労働豊作貧乏時代を解決する私案のお話については、さらにもうちょっと後になりそうです・・・。今のままでは社会に文句だけ言ってるみたいで、申し訳ないです。
気長によろしくお願いします(;・∀・)