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雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

なぜ反響が無くても自分の意見を主張するべきなのか

 こんな記事を読みました。

手をかけた記事が受けず、片手間に書いた記事が受ける問題

 

うんうん。アルアルですよねー。

このブログの場合は、割りとどれも記事は長いので(汗)、あまり力のかけように差は無いのですけれど、それでも多少、かけた時間なんかと反応が異なる場合はやっぱりあります。

 

もっと顕著な例として、私は以前某所で軽い動画をUPしたことがあるのですが、制作にかけた時間はここで一記事書くよりも短かったのに、反響がけっこうあって、アクセス数はここのブログを一年やったよりも多いという経験があります。。。

 

・・・まあ、それならそれで良いのですけれど、何となく釈然としない気分も確かにあって。

 

 

ちょうどついこの間、私はこの記事の中で、聞いてくれる人の数に関係なく意見を言っていこうというお話をしました。

 

でも、そうは言っても人には承認欲求というのがありまして、どうしても反響というのは気になってしまうものです。

 

私自身、やっぱり反響が気になる気持ちはありますし、そういう本能が私たちにあることはちゃんと認めないといけないと思っています。

(実はこのテーマも一度書いています⇨参考:「認められたい、選ばれたい私たち - 雪見、月見、花見。」)

 

気にしない方がいいと分かっていても、やっぱり気になっちゃう。

反響というのはそんな感じのものですよね。

 

 

こういう時に、ついつい「反響があるのが良い記事で、反響が無いのが悪い記事」と思ってしまうと思います(冒頭の紹介記事の方もそれに近い結論になっています)。

 

確かに、記事の良い悪いも反響に影響すると思います。

 

でも、それだけではないんです。

 

そして、その「記事の良し悪し」ではない要素の方こそ、案外私たちが忘れがちで、大事にするべきものなんじゃないかなぁと思います。

 

 

というわけで、今日は、「意見と反響の関係」についてボーッと考えてみました。

 

 

 ◆

 

 

まず、「記事の良し悪し」とは何でしょうか。

「内容の善し悪し」でしょうか?

いえ、すごく善いことを主張しようとしていても悪い記事というのはありますし、逆にどんなに主張の内容が悪どくても良い記事というのはありますよね(主張に賛成するかどうかは別ですよ)。

 

ええ、著者の主張がなんであれ、記事というのはあくまで「著者の意見や思いを主張しみんなに伝えるための道具」でしかありません。

一般的に、道具の良し悪しの判断材料と言ったら、基本は「その目的に貢献するかどうか」に尽きます。

だから、同じように、記事もその目的に沿った「著者の主張が人に伝わりやすい、分かりやすいかどうか」「記事の良し悪し」なんです。

冒頭の紹介記事の方も、ちょうどここで文を結んでいます。

 

 

では、「良い記事なのに反響が無い時」というのは何が起こっているのでしょうか。

つまり、「すごく主張が分かりやすい記事なのに反響が無い時」ですね。

 

これはもう単純な話で「みんながその主張のテーマに関心が無い時」です。

「興味が無い」と言ってもいいです。(笑)

主張のテーマにみんなが関心があるところであれば、反響が起きますし、あんまり関心が無いところであれば反響が無いのです。

 

「そんな身も蓋もないっ!」って言われそうですが、でもここを意識するかどうかが案外大事なんだと思うんです。

 

 

だってですよ。

みなさんが意見を主張する時って、何を考えていますか?

 

「みんな気づいてないかもしれないけど、◯◯はこんなに良いよ!」とか、

「みんな気にしてないけど、△△という考え方は大事だと思う」とか、

 

意識的にせよ、無意識的にせよ、私たちは主張する時「みんなの視点と自分の視点の差異」を基にしています。

「自分とみんなの関心が違う」ってことを前提にしています。

それもそうですよね、「みんなと自分は全く同じ意見」と思っていれば主張する必要もないですから。

 

だから、もともと私たちは自分とみんなの「距離」の存在を知った上で意見を主張しているはずです。それに長短があったとしても、今さら驚くことでもないのです。

 

同じような良い記事であれば、あなたの主張とみんなの関心との間の「距離」の長短が反響を決めるんです。

つまり、あなたの視点とみんなの視点の「距離」が反響を左右するのです。

 

※ちなみに、この前提は基本的には(みんなと一緒のはずの)「常識的な意見」の主張の時も当てはまります。このような常識的な主張はどちらかというと「非常識的な意見」が出てきたときに行われます。そんな「非常識的な意見」によって「距離」が生まれるからです。「非常識的な意見」の人が「みんな」の中に居るので、自分の主張とみんなの主張が一致していないのです。

例:「△△って言う人もいるけど、◯◯は常識でしょ。みんなもそう思うよね?」

 

 ◆

 

みんなの関心と合わないと反響が無い例としては、過去の科学的大発見が上げられます。

今ではみんなの「常識」となっているような科学的大発見でも、当初は全然反響が無かった例は少なくありません。

 

例えば、コペルニクスが地動説を主張した本は普通に売れ残っていたそうです。確かに世間では天動説が「常識」でしたし、人々もおそらくは星のことよりも日々の生活なりなんなりの方がよっぽと関心事だったしょう。だから、きっと変なことが書いてある本があるなと思うぐらいで手にとられもしないか、そもそもそんな本の存在にも気付きさえもしなかったかもしれません。

その本の中に現代にまで通じる革命的な大発見が書いてあったというのに。

 

 

最近の例では山中教授のiPS細胞もそうです。

ノーベル賞を取る何年も前からiPS細胞の研究は当然存在していて進んでいたわけですが、世の中で爆発的に広まったのはやはりノーベル賞を取ってからです(内容の素晴らしさから発表当初から業界内や一部でやはりかなりの反響はあったようですが)。

この反響の変化はみんなの関心が「iPS細胞」などの幹細胞研究に無く、「ノーベル賞」にあったということに他なりません。

 

また一方で、みんな関心がノーベル賞を介してiPS細胞に移ったことで、森口氏の虚偽発表騒動も、その内容の優劣にかかわらず、とってもとっても迅速に、そしてとってもとっても大きな反響を得たのです。

 

これらは「内容の優劣」ではなく「距離」が反響を左右したことを示す好例と思います。

 

 

 ◆

 

 

ここまでの話を図示するとこんな感じです。

 

 

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大事なのは、反響の有無は決して内容の良し悪しを反映したものでは無いということです。

 

これは星の明るさと一緒です。

一等星や二等星などの星の明るさの等級は「地球からどう見えるか」で決まっていて、実際の明るさを反映したものではないんですよね。当然、近い星の方が明るく見えやすいのです。

だから、二等星が一等星より本当は明るいこともありますし、下手をすると六等星の方が一等星より明るいことだってありえるのです。

 

 

私たちがやるべきことは、自分が最も明るくなれるポイントを探すことだと思います。

それが結果的に地球から近かったり遠かったりするかもしれませんが、最も輝けるポイントであるなら、そんなことはどうでもよいのです。

 

ですが、私たちはついついこの見かけの等級を気にしてしまいます。

 

見かけの等級に合わせるために地球の近くに寄って行ったりもしてしまいます。確かにそれで等級は上がるかもしれません、反響は増えるかもしれません。

でも、自分が自分らしく輝ける位置から無理をして移動したなら、その本当の輝きは曇ってしまうことでしょう。

 

それでいいのでしょうか?

 

自分が自分の星の明るさをちゃんと磨き続けていて、それを信じているなら、見かけの等級なんて関係ないのではないでしょうか?

 

 

 ◆

 

 

もう一つ大事なことは、そんな「距離が遠い意見」の潜在能力です。

ついつい「地球の引力」に負けて、捨ててしまいがちな「距離が遠い意見」。でも、これこそ私たちが忘れがちだけど、大事にしないといけないものなんです。

 

 

意見を主張するという行為は、「みんなをこっちに動かそう」という行為です。

みんなに自分の意見を知ってもらって、考えてもらって、共感や同意を得ようと企む行為です。

そしてこの「動かす」というのは文字通り「距離を動かす」ことで、決して「反響が多い」こととイコールではないんです。

 

「みんなの意見」に近い意見は、反響も多くなりやすいかもしれません。ですが、「自分の意見」と「みんなの意見」の重心が近すぎて、「みんなの意見」の位置はあまり変化しません。

一方、「みんなの意見」から遠い意見は、反響が少なくなりやすいかもしれません。ですが、それが一度「みんなの意見」の一員になることができれば、その重心の距離差から、「みんなの意見」の位置が大きく移動するのです。

 

「1」が1万票入っているところに「2」が1票入っても平均はほぼ「1」のまま大きくは変わりませんが、「10000」が1票入ると平均が一気に「2」ぐらいまで大きく変わるというようなイメージです。

 

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だから、「距離が遠い意見」を捨ててしまうことは、そんなみんなの意見を動かすという大きな可能性を捨ててしまうことと同じです。

 

もちろん、その中にも質の高いもの低いもの玉石混合であると思います。ですが、その中に「地動説」や「iPS細胞」などのみんなにとっても大きな発見である意見が含まれていないとは言い切れないのです。

「距離が遠い」だけ、「反響が少ない」だけで、それを捨ててしまうなんて、とてもとてももったいないことなのです。

 

そう、「距離が遠い意見」を主張するということは、一人の人間でありながら、みんなを世界を大きく動かすことができうる、とても大きな挑戦なのです。

 

これはほんとにすごいことだと思うんですよ。

 

 

  ◆

 

 

とはいえ、みんなの意見というのはとっても重いものですから、動かそうとしても簡単には動いてくれません。

自分一人の意見で動かそうというのであれば、みんなの意見というのは下手をするとその70億倍の質量を持っているので。(笑)

 

途方に暮れそうなところですが、ここで、有名な格言を紹介します。

 

私に支点を与えよ。されば地球をも動かさん。

――アルキメデス

 

そう、テコの原理を使えば、地球だって動かせます。

だから、きっと「みんなの意見」だって動かせるのです。

 

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「支点」が必要とはアルキメデスさんが既に言っていますが、もう一つテコの原理で小さな力で大きなものを動かすときに必要なものはなんでしょう。

 

そうですね、「ながーい棒」です。

 

私たちが一人のちっぽけで非力な人間でしかない以上、やるべきことはこの「ながーい棒」を築くことしかありません。

 

テコの原理において、この棒が何をしているかといえば、「力を伝える」こと、つまり「自分の意見」と「みんなの意見」を「つなげる」ことです。それだけです。

 

ですから、私たちにとってこの棒を作ることにあたるのが、「意見を主張すること」なのです。

 

「みんなの意見はそうかもしれないけど、私はこう思う。その理由は・・・」

 

ただ、この積み重ねを続けることが、自分の意見とみんなの意見をつなげるのです。

 

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こう考えれば、「手間をかけて、時間をかけた意見に反響が無い」と嘆いても仕方がないことがお分かりいただけるかと思います。

 

それはそうなんです。距離が離れているのですから、「てこ棒を作る」のに労力や時間がかかるのは仕方がないのです。

 

私たちがスイッチ1つで灯りを付けられるのも、それまでに頑張って電線やコードなどの電気の通り道をつなげていたからです。

スイッチを押すのはその作業の最後のステップでしかなくて、それまではひたすらにつながるように頑張るしか無いのです。

ただ、ひたすらに「主張」を続けて、「みんなの意見」と通じるまでがんばるしかないのです。

 

 

砂山に砂を一粒ずつ落としていく様子をイメージしてみて下さい。

最初は反応がないかもしれません。

でもいつか、積もり積もれば、ふとした瞬間に崩れて連鎖して雪崩を起こすことがあるはずです。

主張を繰り返すことは、その瞬間を信じて、そんな砂を一粒ずつ落とすことに他なりません。

 

 

確かに成功は保証できません。

みんなの意見との間の正確な距離もわからないですし、方角も分かりませんから、がんばってもつながらないこともあるでしょう。

でも、つながるかもしれないんです。

そして、距離が離れている分、その時の効果は絶大です。

 

それなら、やってみるのも面白そうでしょう?

 

※あ、「支点」について説明が抜けましたけれど、「支点」はiPS細胞の件における「ノーベル賞」のように、「みんなの関心」とつながる接点の部分です。これもまた、なかなか自力では用意できませんから、私たちは「テコ棒」を作ることに専念するしかないのです。

 

 

  ◆

 

 

というわけで、自分の意見に「反響が無い」というのは「まだつながってない」というサインでしかありません。

最初から「つながってないもの」を「つなげよう」としているのですから、それに一喜一憂しすぎても仕方がないのです。

 

「反響があること」が目的ではないですよね、「動かすこと」「つながる」ことが目的ですよね。

「反響」は目的が達成された時に一緒に付随する現象であって、真の目的ではないはずなんです。

 

あなたが、あなたの位置で、あなたらしく、最も輝くこと、あなたの光を地球に届けることが、目的であり手段であり、前提なのですから。

 

そのために、私たちができることは、自分の意見を主張し続けることで、せめて少しでも「テコ棒」が丈夫になるように、少しでも長くなるように、「良い記事」を書くことしかありません。そのために、時間と労力を注ぐしかありません。

 

 

最後に私の大好きなあるスピーチの一節をご紹介して終わります。

We choose to go to the moon. We choose to go to the moon in this decade and do the other things, not because they are easy, but because they are hard...

我々は月に行くことを決意しました。それは簡単だからやるのではありません。難しいからやるのです。

 

―ジョン.F.ケネディ 「アポロ計画開始にあたってのスピーチ」

 

 

一人でみんなの意見を動かすこと、難しいことかもしれません。

大変なことかもしれません。

でもいいじゃないですか。

 

難しいからやるんですよ。

 

 

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P.S.

英語で「馬鹿げた」という意味になる単語に「lunatic」というのがあります。直訳すれば「月のような」なんですけれど、上のスピーチを契機にそんな月にも人類は到達してしまいました。

平安時代に月を歌に詠んでいた時代、竹取物語が書かれた時代に、月は憧れの存在でしかなかったかもしれません。でも人類はそんな憧れの存在にも手が届いたのです。そんな能力があるのです。

みんなと違うことや難しいことを主張するのは、馬鹿げたことのように見えるかもしれません。でも、そういう「lunatic」な主張もそんなに馬鹿にしたものではないかもしれませんよ?