雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

授業時間を伸ばすという大博打

昨日言いかけていた、授業を長くするのは社会にとっても利益にならないのでは、というお話。

 

今の教育制度は、今の大人たち(文部科学省の人とか)が「こんな内容が子どもたちの将来に必要なはず」と考えて、それを子どもたちに教えるという形です。

今回の改革では、おそらく「グローバル社会がなんとかかんとか」とか言って、英語の授業あたりが増えるのじゃないかなと予想します。

 

ただ、よくよく考えてみて下さい。

義務教育だけでも小学校6年+中学校3年です。9年です。

みなさん、9年後の社会って想像できますか?

2022年。予想できます?

 

私には無理です(笑)

 

 

例えば今から英語を9年かけて子どもたちに叩き込んだら、9年後には「やっぱ中国語教えておけばよかった!」になる可能性も十分起こりうることだと思います。

もちろん、英語に限らず、数国理社でも、それらよりもっと必要な分野が出てきても全然おかしくありません。

 

さらに、今の社会のニーズにこだわって内容を考えたところで、それが効果を発揮するのは9年後。

いえ、高校や大学を卒業してから社会に出ると思えば3+4の7年を加えて――16年後の未来とさえ言えます。

16年後と言えば、2029年です。

ちょっともう全く予想ができませんよね・・・。

 

 

昔のように社会の変遷が十年単位の時代ならよかったかもしれません。

ですが、みなさんもご存知の通り、今の時代の社会は年単位で状況が変わります。今日評価されていたものが明日は評価されなくなっている、そういうことがザラにある時代です。

そんな回転の早い社会の中で、10年以上の先に必要となる知識を予想して子どもたちに叩きこもうと画策するのは、大変なギャンブルと言わざるを得ません。

もちろん、運がよければ当たるかもしれませんが、宝くじの1等前後賞に当たる程度の確率でしかないでしょう。

 

明日の株価や、大地震の発生なども予測できない大人たちが10年先の未来を当てようとする。こんな無謀な話は他にありません。

 

 

ですから、基本的に授業時間を伸ばすというのは、残念ながら社会的にも本人たちにとっても利益にならない、無駄な行為です。

 

政策を考えてる人たちに予知能力があるとか、一世一代の大博打に勝てる秘策があるのでしたら別ですけれど。

 

 

 

 

 

P.S.

と言うと、「授業はそんな具体的な知識のためじゃなくて、基礎を鍛えるためのもの」という意見もありそうですが、今の授業が基礎力を鍛えるものには正直見えないのですよね。

 

この話も、またするかもしれません?