THE WORLD IS MINE
以前、職場で雑談をしていた時のことです。
正確には何の話題だったか忘れたのですが、多分、何かの一般的な事件についての話題で、上司に「◯◯についてどう思う」みたいに振られたんだと思います。
もともとおしゃべりの私ですから、このブログでアレコレ書いている要領で、ウニャウニャと自分の意見を語ってしまったんでしょう。それも、ついつい少し熱くなってしまったかもしれません。
私の熱弁をひとしきりうなづいて聞いていた上司の方には、内容については幸い一応同意いただけたようでした。
でも、付け加えるように、こうも言われたんです。
「しかし、君はまるで世界を変えられるかのように話すなぁ」
と。
おそらく、気持ちとしては「内容は同意するけど、理想論すぎて、そんなの無理無理。まだまだ若いな」といったところだったのでしょう。
ですが、実のところ、私は本気で世界を変えられると思っているのです。
いえ、というより、私は世界を変えられると思ってないといけないのです。
なぜなら、この世界は私のものなのですから。
今日はそんなお話です。
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「one for all, all for one」
時々耳にするこの言葉。
日本語では「一人はみんなのために、みんなは一人のために」などと訳されます。
要するに、一人一人は全体に奉仕するように動いて、全体は誰か困っている人を助けるように動くというような意味のようです。
何となく良い語感の言葉なので、多くのところで標語や座右の銘として使われています。
ただ、好きな方には申し訳ないのですが、私はこの言葉が嫌いなんです。
嫌いな理由は二点ほどあります。
まず、一点目。
現実問題として、この標語が使われている多くのところで、「one for all」の部分ばかり重視されて、「all for one」の方がおざなりになっている点です。
「みんなのためにがんばろう」という前半の意図にばかり使われていて、案外「一人のために」の後半部分に関しては適当なんです。
そう、よくよく見てみますと、「one for all」のoneの人たちは、多くの場合「all for one」のoneになることがなくて、誰か他のoneばかりが「all for one」のoneになっています。
もちろん、それが困っているoneの方々ならいいのですが、案外その尽くされるoneが「one for all, all for one」を提唱してるthe oneその人だったりするから困りものです。
組織のトップの方がこの言葉を掲げている時はだいたい怪しいです。「one for all」の部分ばかり要求しておいて、ちゃっかり「all for one」のoneに自分がなっていることが往々にしてあるからです。
つまり、「みんなのために」とスローガンに挙げてみんなに奉仕させておいて、その上でそのみんなの労力の成果を自分に還元させる、そんな搾取のためにこの言葉が利用されているのです。
結局のところ、「all for one」で、どのoneを助けるかは、この言葉の意図からすればすごく大事なところのはずなのですが、多くの場合、実際にはその決定に全員が関われずに、一部の偉い方々の意図で決まってしまうという、構造上の欠陥が原因にあります。その一部の偉い方々が自分たちに有利なように「all」の努力を使ってしまうのはある意味当然ありえることなんです。
このように、言葉自体の意味にかかわらず、言葉の使われ方に醜悪なケースが目立つというところがこの言葉が嫌いな理由の一点目です。
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二点目は、「one for all」にこめられている、「みんなのために奉仕する」という意図は結果的には案外「みんなのためにならないことがある」という点です。少なくとも、今の日本のような「自由資本主義社会における仕事」で適応してしまうのは、けっこう難があるのです。
例えば、「one for all」の精神に沿って、仕事においても「自分たちが苦労すれば、その分、みんなの苦労が減る」と思っている方々は少なくないと思います。感覚的にも何となくそんな気がしますし、何より善いことに思えます。
ですが、仕事においての苦労は、報酬と交換される対価として供出しているものです。
あなたが報酬据え置きのまま、より多く苦労したとすれば、それは同じ苦労単位あたりの報酬を値下げしたことに他なりません。つまり、その苦労を安売りしたのと同じです。
確かにあなたが苦労した分、一時的には他の人の苦労が減るかもしれません。しかし、同じ報酬で成果が少ない人が排除されるのが資本主義社会です。その苦労が減った他の人は、苦労が減っただけでなく報酬が減ってしまったり、仕事そのものを失ってしまったりすることもありえるのです。
だから、あなたがより苦労した結果、他の人もその分苦労をしないといけなくなります。自分も同じ報酬でそれぐらいの苦労をする人だと主張しないといけなくなります。あなたについていかないといけなくなります。
結果として「自分たちが苦労することで、みんなの苦労が増える」という想定と逆の事態になりえるのです。
この言葉は、そんな誤解やまずい事態を生みやすい言葉です。だから、私はやっぱり「one for all」は嫌いなんです。
※この辺りの話は何度かしていますが、個人的にすごく大事なところだと思っていますので繰り返し。
◆
さて、そんな
「one for all, all for one」
この憎き言葉の代わりに私が提唱したいのは、
「one as all, all as one」
です。
和訳するとすれば「一人は全体のように、全体は一人のように」といったところでしょうか。
「one for all, all for one」と似たように聞こえるかもしれませんが、ちょっと違います。
例えば先ほどのような仕事における苦労の量を考える時、
自分が苦労をすれば、みんなも苦労をする方向に向かう。
自分が楽をすれば、みんなも楽をする方向に向かう。
のように考えます。
仮に自分が苦労をしようとする時は、単純にその苦労の恩恵を受ける人だけでなく、「同じ仕事をする他の人にも同じような苦労をさせてもよいか」を考えます。
逆に自分が楽をしようとする時は、他の人も楽をする方向に進めることになります。その時は今まで通り「恩恵を受ける側から見て対価に見合ったサービスになっているか」を考えます。
つまり、どちらにしても、この苦労が対価に見合っているかを考えるのです。
簡単に言えば、自分と相手がたとえ立場が入れ替わったとしても納得できる以上の苦労あるいは楽はするべきではないということです。
もしも相手の人が自分の側に立った時に申し訳なく思うぐらい苦労しすぎていたり、申し訳なく思うぐらい楽しすぎているのであれば、それはやりすぎなんです。
みんな誰にとっても、ちょうどいいと思えるバランスで自分が動くことが大事なんです。
そのように一人一人がみんなの「平均値」かのように動くのが「one as all」の精神です。
一方の「all as one」はどうでしょう。
これはみんなが一人の人間であるかのように動くということです。
例えば私たちが足を怪我してしたとして、その時は身体全体でその痛みを共有していますよね。
左足や他の部分が「右足がいくら痛くても俺たちには関係ない」なんて言いません。
怪我をした右足が痛くないように、自然に各部位が協力し、かばうように行動します。
そして、大事なのはだからといって怪我した右足が偉いというわけではないことです。
例えば怪我をした右足のためだからといって、左足が苦しむぐらい酷使することもないですよね。左足が苦しい時は、他の体の部分、もちろん怪我をしている右足だって、同じように苦しく感じるからです。
どの部分をとってもほどよく苦しくないように、身体全体は動くのです。
これと同じで、みんなの中で苦しんでいる人がいれば、それを自分の苦しみのように思って、それを和らげるように動くし、かといって誰かの苦しみを和らげるために誰かが代わりに苦しむことも良しとしない。
それが「all as one」の精神です。
「one for all, all for one」は「one for all」の部分ではallに奉仕することばかりが重視されすぎていて、「all for one」の部分ではoneに奉仕することばかりが重視されすぎていています。ついついそのあたりのところがおざなりになるのです。
その結果、最初のoneと最後のoneが別人の時に、最初のoneの人だけが苦しむという事態になります。
私はそれはよろしくないと思うのです。
だから、「one as all, all as one」なのです。
◆
フラクタルってご存知でしょうか。
自己相似性といって、どこの部分をとってみても、全体と似た形になっている図形のことです。
⇩こんなの
部分に全体が宿って、全体に部分が宿っているのです。
そして、このパターンは空想上のものではなく、自然界や生命にも多数出現していることが知られています。
雪の結晶や海岸線の形、樹の枝の分かれ方や、血管の分かれ方など。
どれも細かく拡大してみてみれば、不思議なことに全体と同じような形をしているのです。
そういわれてみればそうですよね。
で、私は人間社会だってフラクタルなんじゃないかと思っています。
私たち一人一人の行動が社会全体の動きの反映でもあり、社会全体の動きは私たち一人一人の行動の反映なのです。
だから、もし社会が悪いというのなら、それは私たち一人一人の行動が何か悪い方向に偏っているからです。逆に、私たち一人一人が何か悪い方向に偏った行動をすれば、社会全体もだんだんその方向に傾いていくのです。
この間、意見の重心のお話をしました。(「なぜ反響が無くても自分の意見を主張するべきなのか - 雪見、月見、花見。」)
この時は、自分の意見でみんなの意見の重心を動かすという話でしたが、本当はこれは意見だけの話ではなくて、行動だってそうなんです。
あなたがやるその行動や、あなたがとるその態度で、みんなの行動や態度の重心は確実に動いています。
普段それが全体に対してあまりに微かすぎるせいで、気づいていないだけなんです。
これは、例えるなら投票のようなものです。
あなたがみんなと同じ行動を取るのであれば、それはあなたがみんなの行動に賛成票を投じたのと同じです。
みんなと違う行動を取るのであれば、それはあなたがみんなの行動に反対票を投じたのと同じです。
その賛成票と反対票の割合によって、社会全体が動いていくのです。
そして、この投票には誰も無関係ではいられないんです。
もしこの社会がおかしいと感じているのに、あなたが「仕方ない」と言って、そんな現実に合わせて行動すれば、もっとその現実が強固なものになります。なぜなら、それはあなたがその社会に賛成票を入れたからです。
あなたが心の中でどんなにおかしいと思っていても、行動の変化に反映されなければ、それは賛成票に他ならないんです。
だからこそ、みんな一人一人がそれぞれの理想をしっかり考えることが大事なんです。
もちろん、現実は厳しいですし、思いに反して、どうしても理想の行動ができないことも多々あるでしょう。ですが、だからといって自分の理想を考えることをやめてしまえば、反対票を入れるチャンスさえ失います。だらだらとそんな厳しい現実に対する賛成票を入れ続けることになるんです。
たとえ現実に負けた時であっても、そんな現実に負けて賛成票を入れてしまっているという悔しさは忘れてはいけないんです。それを「仕方ない」だなんて諦めてはいけないんです。
その時こそ、あなただけでなく、みんなにとっての敗北なんです。
そう、私たちは理想を忘れてはいけないんです。
夢を叶えるのに必要なことは、まず夢をみることなのですから。
◆
恒星を回る惑星と、原子核を回る電子は何となく似ています。
結局、どんなに巨大なものもそんなそんな微小なものの集まりなんです。
それを構成している微小なものが変われば、きっと巨大なものだって変わるんです。
大きな大きなこの世界も私たちのような一人一人の人間で構成されています。
ちっぽけかもしれないけれど、でも私たち一人一人が変われば、きっと世界だって変わります。
想像してみて下さい。
あなたはハンドルを握っています。
この世界という大きな車を動かすハンドルです。
確かにすっごく重いハンドルですし、回しても全然効いている気がしないかもしれません。
でも、確実にあなたが切った方向に車は動いているのです。
だから、これはやっぱりあなたの運転する車です。
まぎれもなくあなたの車なんです。
あなたの行きたいところへ、どうぞハンドルを切って下さい。
でも、みんなもその車に乗っていることを忘れないでください。
あなたの行く方向へ、みんなも行くんです。
さて、行き先はどうしましょうか。
どうぞせっかくですから、素敵なところへ。
あなたが一番素敵だと思うところへ。
あなたも笑顔で、みんなも笑顔になれる、そんなところへ。
P.S.
うん、この話全体も結局は理想論なんですけどね。。。
でも、私はやっぱり本当にこう思っているんです。
自分が我慢をしすぎれば、みんなも我慢をしなきゃいけないしんどい社会になる。
自分が怠ければ、みんなも怠けて、色々と立ち行かない社会になる。
そのバランスを自分ならどうするのがいいと思うのか。
それを社会から常に問いかけられてると思っています。