雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

日本人は英語が苦手と言うけれど

日本人は英語が苦手ってよく言われます。

 

これは別に英語の言語圏じゃないから、というわけでなく、同じく非英語圏のはずのアジア諸国とくらべてもそうみたいです。

 

TOEFLスコアのアジア国別ランキング【2010年】 | 英語の勉強コラム

TOEFLスコア日本は27位・・・アジア約30カ国中

 

これだけ日本中で英語英語と叫ばれているのも納得のいく何とも悲しい状況ですね。

 

で、こんな日本人の英語の成績にはある特徴があるそうです。

 

それは、Readingとlisteningは点が取れるけれど、writingやspeakingが全然点が取れないことです。

 

「え、でも、writingとspeakingは自分も苦手だし、そういうもんじゃないの?」

 

と思ったあなたはきっと本当に日本人です(笑)

 

実は他の非英語圏の国の人たちは、readingやlisteningがそこそこで、逆にwritingやspeakingの方で点を取る傾向があるんだとか!

そう、こんなにwritingとspeakingが苦手なのは日本人だけなんですよ。

 

かく言う私も、英語は読むことと聞くことはある程度いける気もするのですけど、英語を書くこと、ましてや話すことなんて本当にダメなんです。典型的な日本人で、時々海外に行っても普通に苦労しています。。。

 

  ◆

 

さて、こういう日本人のwritingとspeakingが苦手さは有名になってきているので、「英会話を幼い頃からしっかりやらないと!」とか、「ネイティブ講師による授業を!」という英語教育改革の話がよく出ます。

 

なるほどーとか、そうだそうだーって、一見思いますよね。

 

でも、私は最近気づいたんです。

 

これは英語だけの問題じゃないんだって。

 

 

例えば、私たちが自由自在に扱えるはずの日本語における「国語」の授業やテスト。

現代文でも古文でもいいですけれど、「著者の言いたいことは何か」とか「この時の登場人物の気持ちはどれか」など、読解の話ばかりなんですよね。

私も一応受験戦争を生き延びてきた人間ですが、国語の入試問題の中で「あなたはどう思うか」と聞かれた経験はありません。

というか、「あなたはどう思うか」の問題は「国語」ではなく「小論文」という別の試験になってしまったりします。

 

 そう、何度振り返ってみても、国語では、ほんとに読んで読んで読んで読んでばっかりで、テストも「あなたは本当に読めているか」ばかり。

相手の意見をいかに汲み取れるか、いかに読み取れるかの能力ばかり問われ、「書く」能力なんて全然聞かれません。

せいぜい聞かれても「漢字が正確に書けるか」なんて「書くための前提知識」ばかりです。

「自分がどう考えているか」なんて全然問われません。

 

一応、作文の授業は小学校あたりまでは時々ありました。

例えばその頃、「書くこと」の代表選手のような読書感想文というものもありました。

でもこれも実際のところ、課題図書が決まっていたり、題材として漫画や映画が ダメだったりで、その教育の目的はあくまで「書くこと」ではなくて「読むこと」にあるんだと思います。

だって、「書くこと」を目的にしてるなら、題材なんて何でもいいはずですから。

結局、ただこれも児童や生徒に本を読ませようと思ってるだけなんだと思 います。

 

で、そうこうしているうち、中学校以上になると次第に読解問題一色になってきて、作文なんて時々あるおまけイベント扱いです。

 

 

そう、冷静に振り返って見れば、私たちは国語の時間で「読むこと」ばかり学んでいるんです。

それも驚くほどの偏りで。

 

 

でも、おかしいですよね。

 

英語におけるTOEFLの試験が、読み・書き・聞き・話すの4能力を問うてるのと同様に、日本語だって本当はその4能力全部をもって初めてちゃんとした言語能力と言えるのではないでしょうか。

 

国語だって気づいてないだけで、苦手苦手と言っている英語同様に、speakingやwritingの能力を訓練していないのではないでしょうか?

 

いえ、下手をするとlistening問題や自由英作文が出る英語の方が言語としてはよく訓練されていると言えるかもしれません。

国語の試験には聞き取り問題や作文問題、ましてやスピーチする問題なんて出ないのですから。

ただ、「読めているか」だけ問うだけなのですから。

 

  ◆

 

私がこの事実に気づいたのは、実はこんな風にブログを書くようになってからです。

 

私はもともとおしゃべりな方で、誰かと話をしていれば頭の中で言葉や考え自体は湯水のごとく溢れるタイプです。

だから、書くと言っても、それをちょちょいっと出すだけでいいのだと思っていました。

 

ですが、それが本当に難しくてしょうがなくて。

 

頭の中には豊富なイメージがあるのに、いざ書こうとすると、急に私の「考え」たちが渋滞を始めるんです。

私の「考え」たちは早く頭の外に出たいのに、その出口がつかえてるんです。

くしゃみが出そうで出ないあの時のような、そんなどうにも身の置き場のないあの感じです。

 

なんで、こんなにいっぱいあるはずの「考え」が出てこないのか、本当に悩みました。

 

でも、それもそのはず。

 

実は、私はその「考え」の出口のドアをほとんど開けたことがなかったからです。

私が今まで生きてきて、まじめに「書く練習」や「考えを出す訓練」をしたことがなかったからなんです。

 

ここで参考記事:【Blog】書き言葉と話し言葉 - Sakak's Gadget Blog

 

だから上の記事で、keisukeさんが言われるように、書き言葉というよりは話し言葉で、普段のおしゃべりの感覚で出すしかありませんでした。

keisukeさんの記事のコメント欄にも書いたように、例えて言うなら「スピーチ」しているように書いています。

もともとおしゃべりなので、その方がまだ「考え」を出しやすいからです。

 

で、keisukeさんはこの「おしゃべり感覚でブログが書けること」を「人間の頭にはポテンシャルがある」と前向きな表現をされています。

 

・・・ですが、実は私は悲観的に「書き言葉で書けない自分に絶望してしまっている」のが正直な感覚です。

 

これはもう捉え方の問題で、多分、おしゃべりができるなら、きっとスラスラ書けるだろうという私の勝手な期待や過信が良くなかったのでしょう。

だから、keisukeさんのおっしゃることも分かるのです。

でも「しゃべるように書いたら書きやすい」と気づいた時、私は同時に、自分が本当に「書けない」人間になっていることに驚いてしまったんです。

そしてまた同時に、英語も国語も他の何事に関しても、私たちは「読み取る」などの「入れる」ことばかりやってきて、「書きだす」などの「出す」ことをほったらかしにしているという事実にも気づいてしまったんです。

 

 ◆

 

日本人は「空気を読む」という能力を重視すると言われます。

 

・・・そう、これもまた「読む」ことで。

 

結局のところ、私たちは「読む能力」を類まれなレベルまで研ぎ澄ませた結果、同時に「空気を作る能力」――すなわち「書く能力」を必要としなくなってしまっているということではないでしょうか。

だって、「書く能力」なんてなくても、相手が素晴らしく高い「読む能力」でこっちの意図を何となく汲み取ってくれるのですから、それで上手くいってしまうのです。

 

この「読む能力」に頼った空間では、「書く能力」と「読む能力」をバランス良く持っている人や、ましてや「書く能力」に偏重しているような人は、「あいつは空気が読めない奴」と言われてしまうことでしょう。

 

ですが、私たちに彼らを責める権利があるのでしょうか?

これって、ただここが「読む空間」であっただけのことではないでしょうか。

 

「書く能力」と「読む能力」をバランス良く持っているのって、そんなに悪いことでしょうか?

だって、これって普通の言語能力を持っているだけですよね?

 

また、「書く能力」ばかりの人だってそんなに悪いことでしょうか?

だって、これって「読む能力」ばかりの人と別に違いはないですよね?

 

そうでしょう?

 

 

だから、

 

本当に悪いのは誰なんでしょうか?

 

本当に悪いのは何なのでしょうか?

 

私たちが英語が苦手であることを悲しむならば、その前にまず悲しむべきことがあるのではないでしょうか?

 

 

 

私は「空気を読む」能力も大事でないとは思いません。

文章を的確に「読む能力」もやっぱり必要だと思います。

 

でも、「空気を描く能力」や「言葉を書く能力」だって、同じぐらい大事なんだと思います。

 

そして、私にこれらの能力が無いことが悔しくて悲しくてたまらない、そう思う今日この頃なんです。

 

 

 

 

 

P.S.

そういう意味では、私たちは日本語ネイティブなのに、全然日本語が上手くないとも言えますね。英語どころの話じゃなく。

多分もうちょっと、自由に自分の考えを文章にしたり、スピーチやディベートをする機会や教育があってもいいのではと思います。

ちょうどブログやSNSなどで「自分を表現する」システムが発達した今こそ、「読むばっかりの日本人」から脱却するチャンスなのかもしれません。