雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

今、社会が労働豊作貧乏時代になっているワケ

 

前回の続きです。

過労死するほど仕事があって、自殺するほど仕事が無い - 雪見、月見、花見。

 

前回は「過労死するほど仕事があって、自殺するほど仕事が無い」という文に象徴されます私たちの労働環境の惨状は、結局は労働力が余り過ぎている「労働豊作貧乏」の現れという話でした。

 

では何でこんなことになっちゃったのでしょうか。

次に当然生じるこの疑問を一緒に紐解いていきましょう。

 

 

そのためにまずはちょっとタイムスリップです。

労働力というものがどのように変化をしてきたか、人類史を振り返ってみましょう。(ブログでこんな大風呂敷展開していいのかなぁ!?)

 

 

 


*原始時代 ~農業というお仕事の誕生~


・・・はい、というわけで、原始時代に着きました。みなさんついてきてくださってるかちょっと心配です。(汗)

 

さて、この頃の人類のお仕事は、お仕事と言いますか、ほぼ生きることそのものがお仕事でした

人々は狩猟や採集にいそしんで、食糧を得て生きていました。しかし、保存できるほど大量にとれることもないその日暮らし。その成果は不安定で、上手く獲物を取れなかった時は空腹に耐えなければなりませんでしたし、下手をすれば餓死もしてしまったことでしょう。

獲物を探して食べるという生活リズムは、ある意味では動物とほとんど同じで、悲しいかな人類らしいと言えるのは道具を使っているということぐらいです。

しかし、そんな厳しい生活の中でも、(しっかりと意識していたかは分かりませんが)知恵という最も大きな道具を持っていた人類は「もっといい方法は無いのかな」と密かにチャンスを探っていたに違いありません。

 

そんな人類が出会った画期的な生産システムが、農業です(一応、畜産もですけど)。

最初は偶然が重なってできたようですが、獲りに行くのではなく、自分で育てて回収するという現代に至るまで続くこの革命的仕組みに気づいたのです。当初は食糧生産性は狩猟ともあまり変わらず、しばらく狩猟との混在時代があったようですが、徐々に生産性が向上した農業が食糧生産のメインシステムとして稼働し始めます。食糧生産力の高さもさることながら、最も大きなメリットはその「安定性」でした。とりあえず近い将来にいきなり食糧で困ることはないはずという安心感は、人類の労働に変化をもたらします。ちょうど、食糧生産性の向上で人口も増えていて、ニーズが高まっていることも背景にありました。

そう、「専門職」の登場です。

今まではみんなが食糧生産に従事していました。しかし、食糧生産力の向上と安定性から、初めて物を作る人、商売をする人、そして統治する人などの食糧を生産しない職業が生まれます。

わかりやすく言えば、今まで「狩」あるいは「農」だけであったのが、「士農工商」が揃ったのです。

 

火が人類の誕生の象徴とすれば、農業こそが文明の誕生の象徴でした。

そして、ここから労働生産性という魅力にとりつかれた人類の旅の始まりでもありました。

 

 

――もっと多く、もっと良く、もっと楽に!

 

 

そうして、時代は進みます。

 

 

⇩図にしてみました。(内訳の細かいところはイメージです)

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原始時代のポイントは「農業の発明⇨非食糧生産専門職の誕生」です。

 

 

 


*近代 ~工業というお仕事の隆盛~


急速なスピードではありませんでしたが、人類努力の賜物で、農業は発明以来さらに生産性を向上していきます。そのおかげで、更に食糧以外の労働をする余力が生まれます。

工業に力を入れた部分は、今でも様々な工芸品や建築物として見ることができます。商業に力を入れた部分は、市場の遺跡あるいはシルクロード大航海時代といった貿易路にその跡を見ることができます。

士業に力を入れた部分は、大河ドラマでおなじみ平清盛さんがパイオニアでもある職業軍人(つまり武士ですね)の登場と権力奪取による、様々な戦乱に見て取れます(あまり良いことではないですが)。

 

このように様々な業種が発達してきていましたが、基本的には依然労働の中で農業の地位はトップでした。先ほどから繰り返している江戸時代の「士農工商」という農業を工業や商業の上に置く考え方や、領地の豊かさを米の取れ高である「石」で表していたことなどから分かるように、農業発明以来、江戸時代などの比較的最近まで長年にわたって、「産業と言えば農業」の時代が続いていたのです。

 

しかし、ついに農業の牙城が陥落する日が訪れます。ご存知の「産業革命」です。蒸気機関など人力ではない動力を利用するという発想は、農業発明以来の革命でした。その生産力の向上は凄まじく、長年かけてゆっくりと生産力を伸ばしていた農業を急激に追いやってしまいました。なにせ今までちまちま一個一個手作りで作っていたモノが、急に十個単位、百個単位でできるのですから、たまりません。工場に投資して利益を狙う資本家が生まれ、農村から工場労働者として出稼ぎに人々が都市に移動します。もちろん、農業から工業に人が移ることができたのは、農業が着実に発達してみんなの食糧をまかなえるようになっていたことも大きいのですが、そんなことよりみんな儲けたいので、あっさり時代はバブリーな工業に移るのでした。

(この工業化による都市市民の登場が、様々な民主化運動や革命につながっていって、士業をも滅ぼすのですけれど、それはまた別の話)

 

モノが 増えれば、当然それを売りさばきたいということで、商業も釣られて発展します。工業の発達による鉄道などの高効率運送手段の発明もそれを後押しします。

 

そして実は、工業は併せて起こった科学革命とともに、化学肥料の発明などで農業の生産性向上にも貢献しています。その証拠にこの頃から世界の人口は急激に伸びていっています。ただ、食糧はもうそれなりに足りていたので、一度モノ作りの快感を覚えてしまった人類の中では、農業はもうTOP産業に戻ることはなく、「衣・食・住」の残りは衣と住ということで、次々と様々な服飾や建物、その他生活に役立つ物品が生産されていきました。

 

 

私たちの社会は急速に賑やかにモノが溢れ、「豊か」になっていきました。

 

 

さて、時は、そろそろ私たちの現代に戻ってきます。

 

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近代のポイントは「産業革命⇨工業(と商業)の隆盛と農業の没落」です

 

 

 


*現代 ~工業というお仕事の栄光と衰退の兆し~


第二次世界大戦は工業の戦争でした。

さらなる高みを狙う国同士が、物を作るための資源やエネルギーを奪い合う、そんな戦争でした。ただ、大変大きく悲惨な戦争ではありましたけれど、実は産業構造には変化をさほど与えていません。

 

戦後日本の復興を支えたのはご存知の通り「made in Japan」に象徴されるモノづくり技術、つまり依然工業でした。より快適な生活を目指して、工業は更に発達をしていきます。

有名な三種の神器「テレビ・冷蔵庫・洗濯機」、高度成長期の新三種の神器「カラーテレビ、クーラー、車」などに象徴される、様々な工業製品が庶民の暮らしの中にも行き渡っていきます。

その勢いはついにバブルにまで昇華します。大量生産・大量消費――人類の求め続けていた夢の生活がまさにそこにあって、それは永遠に続くかのように思われました。

 

 

しかし、夢は夢だったのでした。

 

 

・・・何がいけなかったのでしょうか。

工業は発達してきたし、農業も陰で一緒に伸びていっています。それらの産業の発達や普及を支えた商業だって輸送手段の進化や通信技術の進歩で問題ないはずです。

今まで上手くいっていたように、生産性が向上していけば・・・どんどん良くなっていくはずだったのではないでしょうか?

 

いえ、実はマズイ兆しはあったのです。生産性向上というシステムの限界がもう近づいていた、そんなサインが出ていたのです。

実は、ヒントはすでに三種の神器の中にも紛れ込んでいます。この中に仲間はずれが混ざっています。

 

 

それは――テレビです。

 

 

テレビは、他の製品と違う意味を持っているのです

これにこそ、モノづくりに邁進してきた人類が陥ってしまったがあるのです。

 

 

 (現代の図は後ほど)

 

 

 


*今 ~サービス業というお仕事とその罠~


変な質問をします。テレビって工業製品でしょうか?

「え、工場で作ってるんだし、工業製品じゃないの?」と思われるかもしれません。

いえ、工業製品でないとはいえませんが、やっぱり違うんです。

 

例えば、冷蔵庫は食べ物を冷やしてくれて、言うなれば「衣食住」の「食」を高めてくれるものです。洗濯機も今まで大変だった洗濯作業を楽に時間も短くできて「衣」や「住(生活)」を助けます。車やクーラーも、生活の移動を助けたり、快適にしたり「住(生活)」を楽にしてくれる存在です。

 

テレビはどうでしょう。「住」を助ける存在?確かにテレビで得られる情報から、生活に役立つ情報もあるでしょう。

しかし、決定的な違いがあります。

 

冷蔵庫や洗濯機や車やクーラーは、生活を楽にしたり作業の時間短縮を実現して「余暇を作るモノたち」です。しかし、テレビは楽しむためにはそれを一定の時間見なくてはなりません。テレビは他の神器と違って「余暇を使うモノ」なんです。テレビは放送されているテレビ番組というコンテンツを「時間をかけて」楽しむ代物で、この点から言えば、テレビは工業製品ではなく、サービス業に近い存在なんです。

 

そう、農業や工業、商業の発展に伴って、ついに人類は「余暇」を手に入れていたのです。労働する必要が無い「余暇」、自由に使える「余暇」。その「余暇」を存分に楽しむため、楽しませるためにサービス業は急速に拡大していきます

 

:ここでいうサービス業は人々の趣味・娯楽・贅沢などを生業にする業種というニュアンスです。エンターテインメントも含みます。本来、商業と近い存在ですが、商業はあくまで流通・販売業という扱いにしました)

注2:なお、サービス業自体は実は新しい産業ではありません。昔から旅芸人や踊り子などはいましたし、伝統芸能なども今なお続いています。ただ、近代以前は人々の「余暇」や「余力」もそんなに多くはなく、従事する人が少ない業種であったので目立たない存在でした)

 

 

 

 

さて、問題は工業がモノ作りの延長だと思っていたらいつの間にかサービス業に手を出していたということです。実際、高度成長期以来、工業製品に見えてサービス業に近い存在が多数出現します。ラジカセもCDプレーヤーもビデオもDVDもそうです。

理由は単純です。実は工業の生産性が向上した結果、ついに工業の原動力の源である「衣・住」に対する人類の欲求が満たされてしまったのです。洗濯機も掃除機もクーラーも車も手に入っちゃったので、もう十分に快適になってしまったのです。必要なモノはだいたい普及して、もう飽和してしまったのです

でも、工業はモノを作らないと商売になりません。そうして、新しく作るモノを求めた結果、知らず知らずのうちに実は工業とは違う「サービス業」という世界に足を踏み入れてしまったのです。

 

 

 

⇩ここでようやく現代の図です。

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現代のポイントは「人々の余暇を消費するサービス業の発展」です。

 

 

 

 

さて、ここまで来て、

「農業が工業に取って代わられたように、工業がサービス業に取って代わられたのなら、じゃあ今度はサービス業を伸ばしていったらいいんじゃない?」

そう思われるかもしれません。

ええ、最初はみんなそう思ったんです。

しかし、これが罠だったんです

 

なぜかというと、サービス業って伸びないんです。

いえ、正確には生産性は伸びる、いえ伸びすぎたほどでした。ですが、いともあっさりと生産性ではない違う方面の限界が来てしまったのです。

 

 

それは、私たちの消費力の限界です。

 

 

 


*未来 ~消費の限界と労働力豊作貧乏時代~


今、すっごくお腹がすいていたとして、目の前に美味しそうなご飯があったら、食べますよね。でも、いーーっぱいご飯があったら、さすがに途中で満腹になります。やっぱり、これ以上食べられないよーっていう限界がありますよね。

実際、この限界に達したので農業は産業TOPの座を明け渡しています。

 

工業製品たるモノも冷蔵庫や洗濯機などなど、一般的に言われている生活家電を買ってしまえば、だいたい快適になってしまいます。純粋なモノという意味での需要にも限界があるのです。ですから、先ほど述べたように、次第に、存在価値がモノとして便利かどうかではなく、楽しめるモノかどうかになってきています。モノがサービス化していっています。

 

次はもう薄々お気づきの通りです。

 

本屋に行ってみて下さい。ものすごーくいっぱい本があります。どんな小さな本屋でもいいですが、全部読めと言われて読めるでしょうか?

・・・人生かかってもきっと全部は読めない(読まない)ですよね。

 

いえいえ、世の中本だけじゃないんですよ。

テレビも一日中たくさんのチャンネルでたくさんの番組をやっています。全部見れますか?見れませんよね・・・。

映画もいーっぱい公開されます。全部見れますか?見れるわけないです・・・。

旅行はどうでしょう。いっぱい行きたいところはありますが、全部行くのは難しいです。

 

極めつけはIT革命です。

大量のサイトやSNSやブログやYoutubeの動画、全部見れます?

見れるわけないんです!

 

 

サービス業は人の「余暇」を食う業界です。そしてその「余暇」って有限なんです。それもいともあっさりと限界がきます

 

例えば、洗濯機と掃除機は両方一緒に持つことができますし、特にケンカもしないでしょう。ここにクーラーや車が入っても、別に困ることはありません。いっそ洗濯機を10個持つことだって不可能ではありません(意味はないですが)。モノは重ねが効くのです

 

しかし、非モノであるサービスはそうはいきません重ねが効きません

 

例えば、テレビを見ながら漫画を読むのは大変ですよね?

 

・・・え、できます?

 

じゃあ、

音楽を聞きながら、映画を見ながら、漫画を読みながら、旅行に行きながら、マッサージを受けながら、温泉に浸かりつつ、ゆっくり眠るのはどうでしょう?

 

はい、なんかもう無茶苦茶ですね(笑)

 

無理なんですよね。やっぱり。

しかも、そもそもこんなに一緒に混ぜてしまっては余暇の余暇たるメリットも失われてしまいます。ゆったりと一つのことを楽しむからこそ余暇なのです。

 

 

これは「1日は24時間」とか「人間という生物の体力・能力」というような自然の摂理であって、ドラえもんひみつ道具でも無ければどうあがいても変えられないものです。

 

そう、人のサービス業の消費能力にはわかりやすいぐらい低い限界があるのです。

 

そして、その一方で現代のサービス業の生産性は笑ってしまうぐらい高いという恐ろしい罠があります。

だって、テレビの一放送で何百、何千万世帯に配信可能なんですよ?

いえ、テレビ局みたいなそんな大企業でなくてもOKです。今や、一個人が面白い動画を投稿したら、それをのべ何十万人が見たりすることもあるんですから。1つの動画が数分単位とはいえ、1人で何十万人分の余暇を消費させるんです。いくら生産性が高くなった工業でもあり得ないレベルです。

 

 

産業「えっ、生産力はまだあるのに・・・もう要らないの?」

 

 

有史以来、人類が追い求めてきた生産性向上の夢が、まさかの消費能力の限界で潰えてしまった――私たちはそんなとんでもない時代に生きています。

 

 

農業という食糧生産能力も余ってます。

工業というモノ作り能力も余ってます。

サービス業という余暇コンテンツも余っています。

そして、これらに次ぐ産業は見出されていません。

いえ、見出されることはないでしょう。

だって、もう人々に余った消費能力が無いのですから

 

 

 

 

さて、長くなりましたが、最初のお題に戻ります。

 

「労働豊作貧乏時代」に何故なってしまったのか。

 

それは、

人類が有史以来、生産性の向上を追い求めてきた結果、ついにその生産力が人類の消費能力を突破してしまったから

です。

 

 

農業も工業も商業もサービス業も、全部あふれて満腹になってしまったのでした。

 

 

空腹に追われながら狩猟に日々いそしんでいた原始時代の人類は、「消費しきれないほど何かがある」まさかそんな日が来るとは思ってなかったでしょうけれど。

 

 

 

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未来のポイントは、「人類生産性向上の結果ついに 生産性>消費性 という労働力豊作貧乏時代になること」です。

 

 

 

 

 

 

 

P.S.

というわけで、長くてすみません!

今回はここで終わりですけど、労働話はまだまだ続きます(笑)

まだ、いっぱいボーッと考えてみた内容がありますので♪

今回は歴史を振り返りましたが、次は「労働力豊作貧乏時代」という新時代の具体的な状況や問題点をもうちょっと細かく考えていきたいなと思います。