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雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

法学の方が『理系』で、工学の方が『文系』という話 ~本当の理系と本当の文系について~

教育 科学

理系と文系の本当の違い

理系の議論と文系の議論 - 脱社畜ブログ

を読みました。

 

いずれも理系と文系の違いについて考え方や議論の仕方などの差違から紐解こうとする記事ですね。

 

理系と文系の違いの議論は昔からポピュラーで皆さんもしばしば目にされると思います。

お互いの短所をあげつらいバカにしあうものもあれば、お互いの長所を尊重して融和を図るものなど様々な意見の主張や議論がなされてきました。

 

この理系・文系の議論は、私も以前から書こうと頭の中で温めていたテーマで、せっかくの機会ですので、今回書いてみたいと思います。

 

結論的なものを先に述べておきますと、

 

「法学の方が『理系』で、工学の方が『文系』なので、文理の分類方法が適切じゃないんじゃない?」

 

ということです。

はい、相変わらず無茶言いますね、私は(笑)

 

ま、そんな感じで、今日もボーッと考えていきましょう。

 

 

 

私たちを司る二種類の思考方法

理系・文系の分類を考えるにあたり、まず私たちの「思考法」を分析する必要があります。

 

私たちの「思考法」には大きく分けて2通りのやり方があることが知られています。

 

それは演繹帰納です。

 

何だか難しげな用語ですが、wikipediaにも載っている由緒正しき(?)単語です(wiki:「演繹」「帰納」)。

分かりやすく言い換えれば、演繹は積み上げ式帰納はぶら下がり式と言えます。

それぞれ見ていきましょう(私の拙い説明よりwikiなどを読んで頂いたほうがより正確かもですが・・・)。

 

 

まず、演繹という積み上げ式の思考方法は、基礎になる理論が先にあって、その理論を基に導き出される理論をどんどん積み上げていくというやり方です。

三段論法として有名な、「a⇨b」かつ「b⇨c」ならば、という前提から「a⇨c」という新たな理論が導き出されるというのが代表的な演繹の例になります。

前提が正しければ、適切な演繹で導き出された新しい理論も必ず正しい、というのが演繹の特徴になります。

こうして着実に理論を積み上げた先に、現実世界を全て説明できる理論体系を構築できるのではないか、というのが演繹理論の夢になります。

 

⇩演繹法のイメージ図

 

f:id:snowy_moon:20130310195632j:plain

 

 

一方、帰納というぶら下がり式の思考方法は、現実におきている事象を見て、その根本にある理論を導き出すというやり方です。

例えば、「毎日いつ見ても、日は上り、沈んでいく」という現実から、「太陽は毎日上り沈むことを繰り返す」という理論を唱えるのが帰納です。

ただ、カラスしか見たことが無い人が「鳥はみんな黒い!」という理論を唱えても、白鳥を見せられたらその理論があっけなく崩れ去るように、現実におきている事象というものを正確かつ全て把握するのは困難なので、理論は頻繁に再構築する必要があります。

しかし、こうして現実に即してどんどん理論を改変改良していけば、現実世界を全て説明できる理論体系を構築できるのではないか、というのが帰納理論の夢になります。

 

⇩帰納法のイメージ図

f:id:snowy_moon:20130310195647j:plain

 

あなたはどっちのタイプ?

この2つの思考法は、誰しも無意識のうちに両方とも使っているはずです。

ですから、決定的にどちらのタイプかと分けることはできませんが、何となく片方の思考法が強く出ている人もいるのも確かです。

演繹の思考法が強い人を演繹タイプ、帰納の思考法が強い人を帰納タイプとすると、以下のような特徴があるのではと、思います。

 

 

演繹タイプの口癖

「それが正しいとすれば、◯◯ってことになるよね」

「◯◯の法則を適応すれば――」

「◯◯と仮定すると――」

「さっき△△って言ったよね、矛盾してない?」

「そんな非合理的な話、理解できない」

「理論上はこれでうまくいくはず」

「もっといい方法があるんだからやり方を変えようよ」

「そんなことが起こるはずがない、何かの間違いだ」

「個人的な話を一般化するのはいかがなものか」

「感情に流されて論理的で無いやつは嫌いだね」

「そんなの言葉遊びだ」

「数学が好き」

 

 

帰納タイプの口癖

「また◯◯だったし、もしかしたら△△ってことなんじゃない?」

「歴史的に見れば――」

「記録によると――」

「かつての偉人◯◯が語るところによれば――」

「私の経験から言えば――」

「前はそれでうまくいった」

「いつもそうしている」

「そんなの見たことも聞いたことも無いし」

「実際にそうなんだからしょうがないじゃん」

「理屈はいい、証拠を出せ、証拠を」

「で、それが何の役に立つの?」

「屁理屈ばかりで現実を見ないやつは嫌いだね」

「歴史が好き」

 

 

さあ、あなたはどっちのタイプでしょうか?

どっちもでしょうか?

 

うーん、多分、私は演繹寄りですね。

 

 

いわゆる理系・文系の分類方法

さて、ここでようやく理系・文系の話に入ります。

 

一般的には、理系は数学や理科(物理・化学・生物等)で、文系は語学(国語・英語等)や社会(歴史・地理・公民など)とされていますね。

この分類に従えばid:dennou_kurageさんの修めた、工学は理科の延長線上で理系の学問、法学は社会の延長線上で文系の学問となるでしょう。

で、数学が得意な人が理系に進み、文学や歴史に詳しい人が文系に進む、というのが一般的な流れと思います。

 

しかし、この文系理系の分類を演繹と帰納の思考法の観点から考えると、違った面が見えてきます。

 

まず、数学ですが、これは「演繹オブ演繹」と言ってもいいほどの、演繹の王様、演繹思考の学問です。

だから、数学に強いあるいは数学が好きな人が「理系」に進むので、いわゆる「理系」は演繹タイプの人が進むと言えます。

 

一方、文学や歴史は、目の前にある文章や実際に起きた事象などを考える学問で、帰納思考の学問と言えます。

だから、文学や歴史に強いあるいはそれらが好きな人が「文系」に進むので、いわゆる「文系」は帰納タイプの人が進むと言えます。

 

まとめますと、「理系」は演繹タイプ、「文系」は帰納タイプが集まっているということになります。

皆さんがイメージする理系人間、文系人間もそういう感じだと思います。

 

 

理科って、本当に「理系」?

しかし、問題はここからです。

 

ちょっと考えてみて下さい。

 

理科は、数学の仲間でしょうか?

物理学でも化学でも生物学でもいいのですが、本当に数学の仲間でしょうか?

 

多くの人が数学と理科は仲間だと思っているのも知っています。

実際に受験などで理科の科目に問われる能力に数学的な素養が必要なのも知っています。

実際に物理学などを修めるのに数学が扱えることが重要なのも知っています。

 

でも、理科の本質は演繹ではないのです。

数学と違って演繹ではないのです。

 

理科――ちゃんと言えば自然科学は、本来は実験・実証に重きを置く学問です。

どんなに一見正しそうな理論でも、実験結果がその理論と違えば、その理論はオジャンです。

どんなに演繹的な技術が必要でも、それはあくまでツールとして使っているだけに過ぎません。

理科は本当は帰納タイプの学問で、だから実は数学とはちょっと離れた位置にいるのです。

 

しかし現実には、そんな帰納タイプの自然科学の世界に、演繹タイプの人たちが来てしまうので、おかしなことが起きます。

 

「◯◯という実験結果や観測結果が得られたので、△△の法則はおかしい」

という意見が出た時に、

「△△の法則が間違っているはずがない、実験や観測のミスか、でっち上げだろう」

という主張が上がるのです。

 

確かに、そういった主張が単純な実験や観測ミスのことも多いのですが、それでも「△△の法則が間違っているはずがない」というのは非常に非科学的な態度と言えます。

帰納タイプである自然科学における理論というのは、どれもあくまで現実の事象にぶら下がった暫定的な理論でしかありません。理論と異なる現象が示されたら、理論の方が道を譲らないといけないのです。

それを、演繹的な積み上げ形式で築きあげられた理論と同じに扱い、確立されたものと考えるのはもはや自然科学ではないのです。

 

実際、自然科学の歴史にはこのような対立事象は少なくありません。

 

強く信じられていた天動説のせいで、にわかに受け入れられなかった地動説。

強く信じられていたニュートン物理学の前に、にわかに受け入れられなかった相対性理論。

強く信じられていた因果論や決定論の前ににわかに受け入れられなかった量子論。

 

どれも、「暫定理論」を絶対と考えた人たちが、「新たな事実に基づく新理論」を批判するという構図です。

 

新理論を批判的に吟味するという姿勢はもちろん大事です。

しかし、「暫定理論」にしがみつくという姿勢は、科学においてはもっとも恥ずべき姿勢なのです。

 

 

以前、iPS細胞でノーベル賞を受賞された山中教授がこんなことをおっしゃっていました。

 

私たちは、こうなるはずという予想を基に色んな実験をするわけですが、学生などを指導をしていると、予想通りの実験結果が得られなくて落胆する人が案外多いのですよね。

私は逆に、予想通りにいかない実験結果が出た時の方が興奮します。それこそが未知の世界の入り口で科学の面白いところだからです。

(私の回想で再現した文章です)

 

 

 

法学って、本当に「文系」?

さて、一方の「文系」です。

 

「文系」の科目においては、例えば歴史と公民が仲間になっていますよね。

そして、これらは帰納タイプの人たちが多く進学します。

 

歴史はいいでしょう。実際に生じた事実を探求する帰納的な学問ですから。

 

ですが、公民の科目に属すると思われる、法学や政治学は演繹タイプなのではないでしょうか。

 

法学を帰納法で行うから、事件が起こる度にそれに対応した法律を各々作り、矛盾が出る度に例外などを作り、どんどんどんどん法律が複雑怪奇になっていき誰も理解できない代物になっているのではないでしょうか。

 

おかしいと思いませんか?

ルールを守らなければならないはずの私たちがそのルールを理解できないのです。

私たちのルールなのに、私たちに分かるように作られていないのです。

また、ルール同士に矛盾する点が各所に潜んでいたりするのです。

そして、最高裁判決で矛盾が指摘されても、一向にそれが実効されなかったりするのです。

 

そもそも違憲立法審査権って何ですか?

何故後から法律が憲法に合ってるかどうか確認する仕組みなのでしょう。

最初から憲法に基づいた法律を作ればいいだけじゃないでしょうか。

 

そう、核となる理屈あるいは理念がはっきりしていないから、基礎からしっかり積み上げていないから、その場しのぎで適当なものをぶら下げてばかりいるから、矛盾ばかりの醜悪な代物が出来上がるのです。

 

そんなだから、憲法で高らかに謳いあげている自由も平等も何も守れない法体系になるのです。

 

法体系が根本の原則に基いていないから、一体どこでどんな法律のトラップが仕掛けてあるか一般人には分からないようになっているのです。

 

 

私は思います。

法律の条文や判例は現実の事象ではなく、あくまで理論のはずです。

実験や観測で示されたデータなどではなく、単なる人工物のはずです。

それをデータのように扱い理論を語ることは、それこそ地に足のついていない非現実的な屁理屈でしかありません。

 

現実の事件に対応するのはもちろん大事です。

しかし、核たる理念を持たずにその場しのぎのルール作りで対応していくことは、法学においては最も恥ずべき姿勢と思います。

 

本当は法体系は憲法からみんなで作り上げていくべきものではないでしょうか。

着実にみんなで積み上げていって演繹的に進めていくものではないでしょうか。

法体系は自然の事象ではなく、あくまで人工物なのですから、そうしないとみんなのものにならないのです。

いきなり憲法から民法刑法その他諸々までいきなり揃ったグチャグチャな法体系を渡されて、それをただ現実として受け入れてしまったからこそ、法律が私たちのものにならないのです。

 

以前、講義で法学の教授がこんなことをおっしゃっていました。

 

国民は法律を守らないといけないと思っていませんか?

違うんです。国民は法律を守る必要はありません。

法律を守らないといけないのは実は法曹たちだけなんですよ。

あなたが法律を守る守らないは自由ですが、あなたが法に触れる行動をすれば、法律を忠実に守る法曹たちに法律に基いて裁かれる、それだけのことなんです。

法律には殺人を犯してはいけないと書いてあるのではなく、殺人を犯したらこうしますよ、と書いてあるだけなのです。

(私の回想で再現した文章です)

 

【注】この節の法学に関係する主張は私の個人的なイメージが強いものになっています。コメント欄の「法律学研究者さん」からの的確な反論も併せて御覧ください。

 

理系・文系の分類の害悪

工学は出来上がった物が実際に現実に機能しないと意味がありません。どんなに理論上うまくいくはずであっても、現実にダメなら、それは理論の方が間違っています。

だから、工学は帰納の学問で、あくまでその目標を達成するために、演繹に基いて得られた数学等を道具として扱っています。

 

また、法学は本来矛盾があってはならない代物です。どんなに現実に即したルールであっても、内部で矛盾があれば、それは適切なものとは言えません。

その矛盾を解決するのに、とりあえず現実に合わせることを優先する帰納的発想で小手先で解釈を変えたり、表現を曖昧にしたり、例外規則を作ったりするのではなく、根本の理念から演繹的に積み上げるべきではないでしょうか。

 

しかし、工学などの自然科学は「理系」という演繹的な学問、法学などの社会学は「文系」という帰納的な学問に、現実には位置づけられてしまっています。

結果、演繹タイプの人が帰納タイプの学問に、帰納タイプの人が演繹タイプの学問に進むことになります。

これは、それぞれの学問の発展を阻害しますし、またそれぞれのタイプの人にとってもあまり幸せなことではないでしょう。

 

 

だから、私が思うのは、この理系・文系という適切でない分類方法を見直すべきということです。

具体的には、この分類の普及に強い影響を与えていると思われる、教育段階における理系・文系の仕分けを止めるべきということです。

 

まず、理科のテストは、計算させて、計算させてと、既にある理論を前提とした演繹的な能力を問いすぎです。

それも確かに必要にはなりますが、最も理科という科目で必要な能力は「既にある理論に疑問を呈する能力」です。

 

また社会のテストは、現実に起こった事象の解釈を問い過ぎです。

それも確かに参考にはなりますが、最も社会という科目で必要な能力は「しっかりとした理念の基に社会を築き上げていく能力」だと思います。

 

 

もし、あくまで、「理系」を演繹タイプ、「文系」を帰納タイプとして分類するならば、

 

「数学・公民」が理系

 

「国語・英語・理科・歴史・地理」が文系

 

です。

 

多分、この方が、仲間が仲間になっています。

 

 

⇩最後にまとめの図

f:id:snowy_moon:20130310195742j:plain

 

 

  

P.S.

ちなみに、いわゆる「理系」の議論は「真実が一つ」というよりは「信じる公理系が一つ」ということになり、いわゆる「文系」の議論は「白黒はっきりさせにくい」というよりは「どの公理系を選ぶか」を議論しているということになります(※公理=証明不可能な前提・基礎となる理論  「wiki:公理」)。

だから、「理系」の言う「真実」は実は真実ではなく、「これを真実と信じているから真実」と言っているのとあまり変わりません。(だから私は私自身を含めよく「科学教徒」と表現します)

また、「文系」の議論は「どの公理系を選ぶか」を争っていて、結局のところ「好みの問題」なので、白黒がはっきりするはずもないのだろうと思います。

 

 

 


【急遽作成。はてブコメントへの返信コーナー】

id:kak2kingさん

コメントありがとうございます!

そうですねー、現実は色々変わってくるので当初の理念が古くなってくることも多いと思います。だから、なるべく普遍的な理念を選択することと、適切な時期にちゃんと憲法などを見直すのが大事なのだと思います。

あと演繹が大事といってもルールでがんじがらめは面白くないですよね!だから、私もなるべくルールは最小限がいいんじゃないかって思います。

 

id:ublftboさん

コメントありがとうございます!

説明が下手で申し訳ありません。演繹と帰納の観点で考えてみたのは、一般的な理系・文系のせいで、演繹が必要な学問に演繹が足りなくなっていたり、帰納が必要な学問に帰納が足りなくなっていたりするのではという問題提起です。あくまで今の理系・文系分類に対するアンチテーゼとして挙げた分類なので、演繹と帰納の観点だけが重要というわけではないと思います。それこそ多分好みですよね!

あと、「法学=社会学」の分類は、わりと小学校レベルの「社会」という科目からの延長線というぐらいの意味合いで、あまり厳密なものではありませんでした。すみません。ただ、一般に法学を文系に含めることが多いので大筋では大丈夫じゃないかと思っています。

 

id:y0043さん

楽しんでいただけて良かったです。ありがとうございます!

 

id:u06nhさん

コメントありがとうございます!

そうですねー、試験だと実は理系科目も文系科目も、ほとんど暗記問題なんですよね。理系学問も理屈というよりは公式通りというものがかなり多いですし・・。

国語の試験も文法などを聞く暗記問題の要素もちょこちょこありますね。

 

id:crimsonstarroadさん

コメントありがとうございます!

はい、仰る通りで、演繹と帰納は学問論理の両輪で、実はどの学問も両方を使って発展していくものですよね。そこは私も完全に同意です。その辺りの説明が足りなかったみたいで申し訳ありません!

ただ、一般的な理系・文系という分類が独り歩きしているせいで、演繹だけ重視している人や帰納だけ重視している人も多いのではないかなーというのが今回の話の趣旨になります。特に自然科学における帰納法や、社会政策や法律における演繹法は軽視されすぎているのではと思っています。

だから、よく、理系の人が文系の人を論理的でないと批判するのですが、演繹も帰納もどっちも論理なのでそれは的を射てない批判と思います。

もしも論理的でないとして批判したいなら、実はそれは芸術科の方に言う話なんですよね。

 

id:casmさん

コメントありがとうございます!

そうですねー、私のイメージする法学は確かに大陸法に近くなると思います。

と言いながら、実はcasmさんのコメントを見るまで実は大陸法と英米法の違いさえ知りませんでした・・・。こんな人が偉そうなことを書いてしまっていて、お恥ずかしい限りです(/ω\)スミマセン

 

 


【あとがき的に (3/11追記)】

帰ってきてびっくり、うわー、もう個別に返信不可能ですね・・・。

こんなヘタッピな文章に、たくさんのご意見ほんとありがとうございます。
すごく勉強になりましたし、考える種をいっぱいいただけて、大変うれしいです。しばらく、これらを考えるだけで楽しめそうです♪

 

全てに返信するのは難しいのですが、多く見られたご意見に対して、私から少しずつコメントさせていただきます。

 

理系・文系を演繹・帰納で分けるのは無理があるんじゃないの?

はい、全くその通りです。

私も、無理があると思っています。

一応「もし、あくまで、「理系」を演繹タイプ、「文系」を帰納タイプとして分類するならば、」という前置きで最後の独断と偏見の分類を載せたのですけれど、意図が分かりにくく、こんな感じに分類するべきって私が強く主張しているように見えてしまったかもしれず、反省しています。

私としては、そもそもたくさんある学問群を理系・文系あるいは演繹・帰納のような2分類で分けようというのが良くないのではと思っています。

この分類も害が無いならいいのですけれど、ブコメの中にもありましたが、現実に(高校までの)数学が好きか嫌いかだけで理系・文系の進路が決まっているような教育制度が走ってしまっているわけです。

大学での学問をこのような単純な理系・文系という分類でくくってはいけないというご意見があり、私もそう思っているのですが、現実にその分類に基いて人が高校から繰り上がってくるのですから仕方がありません。

高校数学が好きか嫌いかという単純な要素で各学問に来る人材を振り分けてしまうのは、当然各学問において学問が求める人材やあるいは各学生が好む学問に齟齬が出てしまうのではないでしょうか、高校数学が得意かどうか――すなわち演繹能力や帰納能力の観点から見たら、こんな不思議な理系・文系分類になってしまいますよと、問題提起をしたかったのが、私の意図になります。

もしそれでもどうしても理系・文系を分類するなら、このような演繹・帰納分類にした方が、現状の理系・文系分類における人材バランスを多少直せるかもしれない程度で、決してこのような2分類を推奨しているわけではありません。多少バランスの差はあるかもしれませんが、どの学問においても演繹も帰納両方とも必要な能力のはずです。また、学際的な取り組みも必要ですし、未だ見ぬ学問だってもっとあるはずですから、分類による弊害は非常に大きいと感じています。

 

 

演繹・帰納の認識が間違ってます

うーん、このあたりはちょっと私の中でのイメージ的な要素が強くて、厳密な論理学の用語の定義からするとおかしいよねと言われても仕方がないと思います。分かりやすいかなーと思って使ったのですが、このあたりは浅はかだったと反省しています。

特に、論理学の言葉を他の事象に使おうとすれば、当然無理がでちゃいますよね。。。

もうちょっと勉強して、いい表現が無いか、また考えてみたいと思います!

 

あと、数学にも帰納的な能力が必要というご意見が散見され、私も思い込みが強すぎたようですね。もう少しそのあたりも検討したいと思います。

 

 

 

 

あああああああ。

他にも色々いただいたのですが、もう私の処理能力超えましたーーーーーー。

もうだめーーーーーーーーーー。

 

ということで、今後みなさんの意見は少しずつじっくり反芻・検討・勉強させていただきます。

弱くてすみませんです(´・ω・`)

だって、こんなに一気にご意見もらったの初めてなので・・・。

 

でも、皆さん本当にありがとうございました!

批判されるのは、成長の機会と思っているので、この記事を書いてみてすごく充実した時間が得られたと思います。

そして、私の拙い文章で、もし皆様の中に少しでも考える種が生まれてたら、これを超える幸せはありません。

 

もう私のキャパ的にちゃんとお答えできるかは分かりませんが、もし変なとこを気づかれましたらまだまだご遠慮なくご指摘下さい!

多分ちゃんと読みますので!