雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

ブログという趣味

プロになるわけでもないのに何で趣味に打ち込んでるの?

 

趣味というものはこの世に無数にありますけれど、趣味が趣味であるための最低必要条件って「やってる本人がそれをやってるだけで楽しめること」でしょう。

まあ、楽しくもないのにやってて、「これが趣味です」と言う人はまずいないですよね。

上の記事を読むと、きっと多くの方は、「本人が楽しいならええやんかー」って、言ってあげたくなるのではないでしょうか。

 

この「趣味は本人が楽しいこと」という条件、当たり前のようながら、でもよく忘れられがちな事項です。

 

よく話題になる、仕事と趣味の違い、プロとアマの違いも、「楽しさ」などの「主観的な価値」が第一目標なのか、「お金」などの「客観的な価値」が第一目標なのか、そこが違うのだと思います。

 

 なお俺自身のアマチュアリズムへの固執については、前からいってるように、その理由は「金もらったら自由になれない」からに尽きる。

- 時代の流れとずれてきた - 24時間残念営業

 

この「主観的な価値」を優先するか、「客観的な価値」を優先するかは、私たちが何かの活動をしようとする時、何かにつけ付随してくる悩ましいテーマです。

 

おそらく、ブログという趣味も、その例外ではありません。

 

巷にはブログで生計を立てるプロブロガーという方々も居るそうですが、そういう方々は「お金を稼がないといけない」ですから、原理的に「客観的な成果」を優先することになります。

しかし、そうではない普通のアマブロガー達――つまり趣味でブログをやっている人々――が単純に「主観的な価値」を優先しているかと言えば、どうもそうとも言い切れないのが実状です。

 

例えば、「ブログアクセスアップの秘訣」のような記事や書籍には枚挙に暇がありません。「こうすればブクマが付く」とか「こうすれば検索流入が増える」とか「失敗しないブログの書き方」といった具体的な指南も多々見かけます。

これらは、「アクセス数」や「ブクマ数」などの「客観的な指標」に、多くのブロガーが注力してる証左でしょう。

 

もちろん、「楽しさ」といった主観的な価値を維持したまま、そのついでに「アクセス数」などの客観的な価値を得ようとしているという可能性はあります。

しかし、私を含めブログをやってる方々の多くが感じられている通り、この「アクセス数」などの「客観的指標」は魔物です。その支配力や快楽性や中毒性は恐ろしいものがあります。

 

時間が経って下の方へ移動して消え去ると「よし次も」と考え、ネタは何かないかなぁなどと探すようになっていました。でも、ハタと思いました。『ブログのために生活しているのではない。日々の生活をブログに徒然なるままに綴るのではなかったか』

■ブログってやつぁいったい - ひぐらしPCに向かいて

 

このような「自分が書きたいものを書いていた」はずが、いつのまにか「みんなが読みたいと思うであろうものを書いていた」という経験。誰しも一度や二度はあるのではないでしょうか。

その恐ろしい魔力を知っていれば、アマブロガーがみんな単純に「主観的価値」を優先しているとは、なかなか言い難いところでしょう。

少なくとも、これだけ「アクセスアップ」などの記事がネット界隈を闊歩してることを考えれば、多くのアマブロガーの方々が「主観的な価値」や「客観的な価値」の狭間で右往左往してるであろうということは言えると思います。

 

 

このように、ともすれば「客観的な価値」に支配されがちな「アマブロガー界」。

その情勢を憂いて、「主観的な価値」の大事さを説くブロガーの方々も多くいらっしゃいます。

 

【ブログ論】他に代わりがないもの - Sakak's Gadget Blog

【ブログ】どうでもいい人の書くどうでもいい日記。 - 11月のヤンキー。〜モノスヤの食いブロ食ログ〜

 

私も、「アクセスをアップさせたいなら、こういうテーマで、こういう風に書け!」というような指南を見る度、何だか違和感を覚えるタチです。

やっぱり「ブログという趣味」という原点に帰って、その「主観的な価値」を優先するということ、自分が書きたいことを書くこと、自分が楽しいように書くこと、そういう「趣味」として当たり前のことを、忘れたくない、そして忘れないようにして欲しいな、と感じます。

だって、「趣味は自分が楽しむもの」なのですから。

 

 

 

・・・とはいえ。

こんな風に、かたや「主観的価値」を求め、かたや「客観的価値」を求めていて、時にはその狭間で思い悩む、という状況は、とても「ブログという趣味」の性格を表していて面白いなぁとも思います。

 

先ほど、趣味というのは「自分が楽しむもの」と言いましたけれど、実はそんな趣味の中にもある特殊なタイプというのが存在していて、まさに「ブログ」もその特殊なタイプだからです。

 

その特殊なタイプの趣味の代表格と言えば、インテリアやファッションです。

 

例えば、インテリアという趣味は、基本的に自分の家というものすごくプライベートな空間を扱います。

この壁紙やカーテンを何色にするだとか、家具の配置をどうするだとか、配光をどうするだとか、悩むべき無数の要素がありますが、それらの吟味の際にまず大事になるのは、自分がそこで快適に気持ちよく楽しく過ごせることです。

なにせ、毎日毎日、365日朝も夜も、自分がそこに住むのですから、インテリアの調整は主役たる「自分」の感覚無しにしては話になりません。

つまりインテリアという趣味では、まず「自分がどんな空間に住みたいか」という「主観的な価値」が不可欠なものとして存在します。

 

しかし、一方でインテリアという趣味には、もう一つの側面があります。

「人を招く空間の構築」としてのインテリアです。

家は普段、自分自身が何気ない日常を送るためのプライベート空間ですが、それは同時に、時折訪れるお客さんをお招きするパブリックな空間でもあります。

だから、来客に失礼無く、気持よくその滞在を楽しんでいただく空間――そのような「人に見られるための実力」すなわち「客観的な価値」もインテリアには求められるのです。

 

たとえ自分にとって快適だからといってゴミ屋敷状態にしていては、そのパブリックな空間としての役割が果たせません。

あるいは、たとえ来客の方にほめられるようなインテリアであっても、自身の日常生活で不便であればそのプライベートな空間としての役割が果たせません。

 

つまり、インテリアは、「公」と「私」の2つの世界をつなぐ結び目という絶妙の位置に在るんです。

このような「プライベートな空間としての価値」・「パブリックな空間としての価値」がどちらも重要――これが特殊なタイプたるインテリアという趣味の特徴なのです。

 

 

ファッションも同様です。

ファッションというのは、外見を整えるという意味で、「他人に良く見られる」という「客観的価値」に注目が行きがちですが、実は「主観的な価値」も強いものです。

 

例えば以前のid:doconokoさんの「勝負ぱんつ」と題する記事では、「女性は女友達に会う時も勝負パンツを穿くことがある。でもこの意味が男性には分かりにくいらしい」という興味深い話がされています。

大事な相手だから、(見られることがなくても)自分にとって一番素敵な状態で会おうという心意気として穿く――ひたすらに「自分のため」に穿く――そういう「主観的な価値」としてのファッションの姿がそこにあります。

 

これは、何も特別なことではなく、皆が普段から体験していることでもあります。

例えば、男性でもスーツを来てネクタイを締めれば気が引き締まる思いがあるはずです。

あるいは、お店の制服などを着た途端、ただの私人であったのが、店員さんという公的な存在に早変わりし、気持ちも仕事モードに切り替わります。

好きな服を着ていれば気持ちが高まりますし、服を汚してしまったり気に入らない服を着ていたりする時は自然とテンションが下がるでしょう。

あと、コスプレなんか、まさにそうですよね。憧れのキャラクターの衣装を身につけることで、そのキャラクターに心身ともになりきります。

 

そう、ファッションは、それを見る他人の気持ちだけでなく、それを着る自分の気持ちをも動かすものです。

着る物としての「主観的な価値」、見る物としての「客観的な価値」、どちらも重要。

自分が着たいものを着ることばかり考えてTPOを無視してもいけないし、人に見られることばかりを考えて着る自分の気持ちをないがしろにすることもできない。

 

あくまで「私」が着るのだけれど、常に「公開」されている。

 

そんな「公」と「私」の交点という特異点に、ファッションも存在しているのです。

 

 

では、翻って、「ブログという趣味」はどうでしょうか。

 

上でも書きましたが「ブログ」もまずは「書きたいものを書く」そういう存在だと思います。

「書く」という行為は自身の内面のネバネバドロドロしたものをジワーっと絞り出す行為に似て、まずそこに「私」があります。

何だかんだで1年半ぐらいブログをやっていますが、そんな私を突き動かしているのは、「書きたい」という欲求です。

この記事だって、他の方の関連記事を続けて目にしたので、ウズウズウズウズして、もう書きたくて、我慢できなくなって書いてます。。。

 

しかし、同時に「ブログ」はやはり「読まれるもの」でもあります。

「ブログ」が個人の秘密の日記帳と決定的に違うのは、言わずもがな、「公開」されるものであることです。

インテリアのようにお客さんが来ることもあれば、ファッションのように道行く人に見られることもある、そんな「公」としての側面は「ブログ」と切っても切れない関係にあります。

 

普段なるべく「書きたいものを書く」を心がけている私ですが、やっぱり書いてる時には「うーん、これじゃ伝わりにくいかな」とか「むむ、この言い方は誤解されるかな・・・」とか、やっぱり「読まれること」も意識して、しばしば推敲しながら書いています。

投稿した後に、正式な記事としてできたものにもういっぺん目を通してみて、「わ、なんかここ思ってた感じとちゃうなぁ・・・」と修正することはもう日常茶飯事です(笑)

その意味では、私も結局やっぱり「客観的な価値」も大事にしていると言えます。

 

でも、なんで「書きたいものを書く」という「主観的な価値」だけでなく、そんな「人に見られること」を意識した「客観的な価値」も大事にするかといえば、それはせっかく読みに来てくれた方に、失礼が無いようにしたいからです。せめて少しでも読みやすくしてストレスの無いようにしたいからです。

せっかく来たからにはなるべく不愉快な思いをすることなく過ごしてもらいたい、ただ、そう思うからです。

 

基本的に天邪鬼な私の主張は、極端なものも多いし、過激なものも多いかと思います。正直、「書きたいものを書く」ために、テーマや主張の内容については、申し訳ないですが、「私」を通させて頂いています。

でも、その主張の言い方や反対意見の取り扱いなどは、できるだけ配慮して失礼が無いように心がけているつもりです。

だって、「公開」している以上、そこには読む人が居るから、来てくれる人が居るから。

 

ここは、「私」と「公」が出会う場所だから。

 

 

 

私が思う「ブログという趣味」はそういう感じです。

 

そんな「主観的な価値」と「客観的な価値」が交錯する趣味だからこそ、多分多くの方が、その狭間で揺れ動いているのだと思います。

 

いいと思うんですよ。

ちょっとアクセスアップしたら喜んじゃうとか、ブクマがついたら舞い上がっちゃうとか。

何だかすっごく人間らしいじゃないですか。

でも、常にアクセス数を求めるようになったり、ブクマにこだわるようになったら、それはなんだか残念です。

 

 

あるいは。

自分が書きたいことを書くとか、思っていることを吐き出すとか。

すごく大事なことだと思うんですよ。

感じるとか思うとか、そういうのって人間ならではの機能ですから。

でも、自分が書きたいことを書くといって、相手を罵倒したり、誹謗中傷したり、無為に傷つけたり、そうなっちゃうと、それはなんだか残念です。

 

 

やっぱりね、筆者も人間だし、読者も人間。

どっちかだけじゃ無いんだと思うんです。

どっちも大事にしないといけないんじゃないかなーって。

 

 

そのバランス取りはとてもむずかしいけれど、

でも、その間で悩みながら右往左往してるぐらいが、

やっぱ人間らしくて私は好きなんですよ。

 

 

 

ブログにためになることなんて書かなくていい (impress QuickBooks)

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P.S.

「そもそもあなたは読者のために長文をやめなさい」という批判は受け付けません(笑)

というより、書いてるうちに勝手に長くなってしまって、もう自分ではコントロール出来ないんですよ・・・(´・ω・`)

この記事だって、チョチョイのチョイって書こうと思ったのに、気づいたら5500字ですよ、ウワーン(;´Д`)

 

・・・とまあ、色々書きましたけれど、多くのブロガーさんは、そのブログの「公」と「私」の位置取りはうまくされてるんじゃないかなーと思います。

少なくとも私が通いで読んでる範囲のブロガーの方々は、書きたいものを書いてると言いつつも、読まれる方への配慮も丁寧。綺麗に片付きつつも個性も出されてるような完成度の高いインテリアのお宅という感じで、いつも見惚れてしまいます。

それに引き換え、私のブログは足の踏み場もないような感じの部屋の中、適当に座布団だけが申し訳程度にチョコっと置いてある汚部屋のような感じで、ほんとうに申し訳ないです。

いつも整理しようとは思うんですけど、ついつい散らかっちゃって(;´∀`)エヘヘ

今後精進いたします。。。