「好き」って言うのもまた才能で
※今日は「人に嫌われる」という才能について - 脱社畜ブログの記事に多分に影響されたお話・タイトルです。
まず、ちょっと前置きから。
小学校の頃、下校前に「終わりの会(帰りの会?)」というものがありまして。
これが、どこの学校でもあるのかは知らないのですけれど、要は帰る前のホームルームですね。
目的としては色んな連絡事項とか、挨拶などをするものだったと思うのですけれど、この会の最大の特徴は「今日1日の良かったこと悪かったこと」というコーナーでした。
日直の「今日1日の良かったこと、悪かったことありませんか?」という声のもとに、このコーナーが始まります。
「今日1日の良かったこと悪かったこと」という題名とは裏腹に、その内容は後者「悪かったこと」一色なんです。
◯◯君がこんなことしてましたー。いけないとおもいまーす。
△△さんにこんなこと言われましたー。ひどいとおもいまーす。
など。
幼い記憶の限りですが、
□□君がこんなことをしていました。いいことだとおもいます。僕も見習おうと思います
というような「良かったこと」の話はほんとにほんとに少なくて1割にも満たなかったんじゃないかと思います。
「悪かったこと」は確かにそうだよねと思える内容もある一方、完全に相手憎しから生まれたあてつけとも言えるような内容もありました。
下手をするといじめの手段の一環としても使用されることもありました。
言われた方も反論して、公の場での口喧嘩になることも多く、誰かが鳴き出したり、先生が半強制的に片方に謝らせたり、ほんと「嫌い」の応酬で教室が塗りつぶされる、そんなコーナーでした。
◆
さて、この話で私はこのコーナーの是非を問いたいのではありません。
お示ししたかったのはただ、誰にもそうしろと言われたわけでもないのに、私たちが「良かったこと」よりも「悪かったこと」ばかりを主張しあってしまうという事実です。
私たちが「好き」を言うよりも、すすんで「嫌い」を語りだすという事実です。
この私たちの性質は、なにも小学校の終わりの会だけのものではありません。
休憩室に行けば、食事や飲み会に行けば、私たちはその場にいない誰かの悪口で盛り上がります。「嫌い」を肴にご飯を食べます、お菓子を食べます、お酒を飲みます。
はてブのホットエントリーを見れば、ライフハックのようなお役立ち情報を除けば、(冷静なのか毒舌なのかスタイルは様々ですが)誰かが誰かを批判するものが多く占めており、誰かが誰かを褒め称えるものは非常に限られています。
一見誰かを褒めているように見えるものでも、よくよく見れば自分が嫌いな人を批判している人に賛同しているという構図が多く、その実際は「嫌い」という感情から褒めていると言えます。
また、社会全体を見てみても、「◯◯を嫌い」というデモや社会運動が起きることがあっても、「△△が好き」というアピール運動が起きることは少ないです。
あったらあったで、実は宣伝だったり、広告だったりと、陰の自己の利益を見据えたものになり、純粋な「好き」の気持ちを反映する運動というのは、おそらく無いのでしょう。
このように色んなところで、「嫌い」という気持ちが私たちを支配することが多く、「好き」という気持ちが私たちを支配することが少ないのです。
「終わりの会」で示されている通り、結局のところ、私たちは「好き」より「嫌い」が前に出やすい性質なのでしょう。
だからこそ、上の記事で、id:dennou_kurageさんの言う通り、「嫌われること」で衆目を集めるという手法も成立してしまっているのだと言えます。
いえむしろ、事実、「好き」よりも「嫌い」の方が力が強いのですから、「嫌われ作戦」の方が合理的な考え方とさえ言えてしまうのかもしれません。
◆
ちっちゃい子どもを見てみて下さい。
彼ら、彼女たちは、ほんとうに「好き」をすすんでアピールします。
「◯◯好き?」って聞いたら臆面もなく全力の笑顔で「うん、好き!」って答えます。
大好きなキャラクターを町中で見かければ、どんなに遠くにあっても、どんなに小さなものであっても「あ、見て!◯◯いるよっ!!」って私たちをつっつきます。
彼らは――いえ、私たちも昔は――「好き」って言うのがほんとに上手で、もちろん「嫌い」も時には言うのですけれど、少なくとも「嫌い」に支配されているようなものではなかったはずです。
そう、私たちが「好き」という気持ちを持っていないわけではありません。
実際大人になってからだって、「好き」の話が高じて、それで盛り上がることもありますよね。
ただ・・・それがどうやら、先の「終わりの会」に象徴されるように、小学生になり学年が上がるにつれて「好き」が減って「嫌い」が増えていくようなのです。
ほっておいたら勝手にそうなってしまっているのです。
少なくとも、私たちは成長するにつれて、「好き」と言うのは「嫌い」を言うより何倍も難しく、そしてまた「好き」を作るのは「嫌い」を作るより何倍も難しくなる、そう思わざるを得ないのが現実です。
今日、ちょうど、婚活問題について、
http://d.hatena.ne.jp/asami81/20130225/getmarried
理屈抜きにして好きで好きで仕方ないって思ったら結婚したほうがいい
という記事に対して
http://ta-nishi.hatenablog.com/entry/2013/02/26/122401
「恋愛感情を持てる」って、それ自体がものすごく希少で、ものすごく貴重な相手ですよ。
という記事を見ました。
そう、「好き」になる、「好き」って言うのは本当に難しい、私はそう思うんです。
多分、「嫌われる」というのも才能ならば、
「好き」って言えるのもまた才能なんですよ。
◆
先日、id:yumejitsugen1さんがこんなことをおっしゃっていました。
ネット上の共感ってなんだろう(おじいちゃんになった!) - ICHIROYAのブログ
たとえば、昨日、アメリカのニュースに感動して、靴磨きのレクシーさんの話を紹介したのだが、案外、反響が薄かった。
※その靴磨きのレクシーさんの話とはこちらです。
絶対泣ける話(靴磨きのレクシーさん1800万円を病気の子供たちに寄付、世界のヒーローとなる!) - ICHIROYAのブログ
ほんとうに良い話です。私もそう思います。
だからこそ、もしこれが反響が薄かったとすれば、多分それは私たちの「好き」って言う才能が弱っているからなのかもしれないともちょっと思うのです。
「嫌い」には敏感に反応して、雄弁に語るのに、
「好き」には鈍感で、ひどく無口になっている。
そういう私たちの性質の表れなんじゃないかと、思うのです。
たから、多分共感はしているんです。
これ「好き」って、心の底で思ってはいるのです。
でも、それを認識したり、主張したりする能力が、もしかすると弱ってしまっているのかも、そう思うのです。
もちろん、かく言う私も、残念ながらこの「嫌い」一味でございまして。
記事を読んでくれている方からすればお分かりの通り、私の記事もけっこうな確率で「嫌い」型です。
この事実を先ほどのid:yumejitsugen1さんの言葉で気付かされたのです。
で、何で私はこんな「嫌い」型になってしまったのか反省していたところ、全員に通じそうなある仮説を思いつきました。
それは、
自分や自分の好きなものを「嫌い」と言われれば言われるほど、「好き」を言わないようになり、そして「嫌い」ばかり言うようになる。
というものです。
自分や自分の好きなものを否定されるのは辛いものです。
その辛い経験が積もれば、自分や自分の好きなものを隠したくなるようになります。
そして、好きなものを隠しながら、自己主張をするには、自然何かを否定することにつながります。
だから「嫌い」が増えていくのです。
そして、誰かが「嫌い」型になれば、その分それで否定された人がまた「嫌い」型への道を進んでいくことになります。
誰かの「嫌い」が増えれば増えるほど、それはどんどん伝染して、世の中の「嫌い」がどんどんどんどん増えてしまう。
多分、そういうことなのではないかと思うのです。
先ほども言った通り、ちっちゃい子どもはおそらく何でも「好き」なんです。
でも、世の中にたまりにたまった「嫌い」に触れていく中で、彼らの中の「嫌い」がどんどん増えてしまっていく、そういうことなのではないでしょうか。
その現象がちょうど露わになっているのが、「終わりの会」なのではないでしょうか。
これを止めるには、「好き」を増やすしかありません。
「嫌い」を打ち消すほどの「好き」を供給するしかありません。
ただ、現状を見る限り、おそらく「嫌い」を言う方が効率的で合理的な感染力の強い方法です。
その方が「好き」を言うよりも簡単に、注目も、お金も、下手すれば名誉だってもらうことができるのですから。
だからやめられない、だからとめられない、だから難しいのです。
◆
以前「マルチチャンネル - 雪見、月見、花見。」という記事で書いたように、私は皆さんのブログがすごく羨ましいなと思っていまして。
それは、id:yumejitsugen1さんを始め、みなさんが多分とっても自分の「好き」を言っているから、「好き」を出しているからなんだって、今ならそう分かります。
みなさんが、すごく自然に「好きな風景」を切り取って見せてくださったり、「好きな食べ物」を見せてくださったり、「好きな音楽」や「好きな話」などを紹介してくださったり。
そんなみなさんの「好き」に憧れたんだと思います。
私が残念な「嫌い」人間に落ちぶれてしまっていたから、多分なおさら。
でも、もう分かったからこそ、言います。
そう、やっぱり、「嫌い」ばかりの世界なんて、「嫌い」なんですよ、私は。
「嫌い」人間になってしまった私が、それでもまだ唯一ハッキリ言えるのは――私は世界が「好き」だということです。
みんなが「好き」って言える世界が「好き」だ、ってことなんです。
世界の「好き」が「好き」だから、ちゃんと「好き」で埋めたい。
だから、私も、もっとちゃんと「好き」を出せるようにしたいなって、そう思うんです。
そう、
「嫌われる」というのも才能ならば、
「好き」って言えるのもまた才能なんです。
でも、「好き」って言う才能がなくっても、多分努力で補える。
そう思うんです。
関連記事
私が世界が好きな理由には昔話もありまして。
What a Beautiful World - 雪見、月見、花見。
「好き」である不安と「嫌い」である安心についての記事
「好きになること」は自分と同化するというお話
P.S.
「終わりの会(帰りの会)」は、今さっきググってみましたら、やっぱり同じようにひどい惨状だった思い出の方はいるようですね・・・。
何とかできると良いのですけれど。