大人の階段昇る
よく人を批判する時に「あの人は感情的なことばかり言って子どもだなぁ」というようなセリフを耳にします。
また一方で自分の欲望や感情を抑えて合理的に動く人が「大人だなぁ」と評価されることもあります。
おそらく、これは「感情的=子ども」、「理性的=大人」という価値観が背景にあるのでしょう。
確かに、私たちが子どもの時は周りのことがよく分からずにやんちゃをしてしまいますし、感情的な存在であったことは否めません。
その意味では、理性的になっていくことは、まさしく大人の階段を昇ることであったでしょう。
⇩多分こんな感じ
でも、私は思うんですよ。
理性的であることは大人であることとは違うのではないかと。
理性的というのも過ぎれば、それは子どもなんじゃないかと。
と言いますのも、私が考える大人と子どもの違いは「自分をコントロールする力があるかないか」だと思っているからです。
こう言うと、「じゃあやっぱり理性的な方が自分をコントロールできてるってことじゃないの」と思われるかもしれませんが、そうではないのです。
人にとっては、感情も理性もどちらも大事な能力です。
だから、完全に理性一辺倒の人というのは、ただ感情を捨てて理性を取っている人です。
でも、「感情」が弱いならそれを抑えるための「理性」も弱くて済むんですよ。
例えて言うならアクセルを踏まないならブレーキも要らないよね、ということです。
考えてもみてください、アクセルがとっても弱くて、ブレーキだけ妙に効く自動車って、どうでしょうか。
正直微妙ですよね(笑)
だって、結局それは「移動する」という車の最大の能力を発揮できてないからです。発揮する気がないからです。
多分そんな車には誰も乗りませんし、素晴らしいと思う人もいないでしょう。
人もこれと一緒です。
感情と理性の両者ともに高度に保っていることこそが、大人の条件なんだと思います。
ですが、御存知の通り、私たちの中でこの感情と理性というのはしょっちゅう衝突します。これを取りまとめるのは本当に大変です。
車でも暴走もせずに、失速もせずに適度なスピードで走らせるにはアクセルとブレーキをバランスよく踏まないといけないですよね。ハンドルだってまっすぐ走る時でも小刻みに右左には調整しないといけないじゃないですか。
それと同じです。
大人には、どうやって感情と理性をバランスよく使って自分をコントロールできるか、その能力が問われているのです。
そんな難しい作業の中、絶妙のバランスをもって感情と理性の両方の能力をともに育て上げている人こそが、大人と呼ぶべきではないでしょうか。
バランスを保つことで、感情も強く持っていないと、それを抑える理性だって育たないのです。
ライバルが強いから成長できる、そういうものなんですよ。
この意味では、感情的な幼少期も確かに文字通り子どもですけれど、ただ理性的なだけの人だって大人にはなれていない、子どものようなものです。
彼らは感情と理性のバランスを取るという一番肝心で難しいところを捨てているだけなのですから。
そして、何より、ご自慢の理性だって、多分「本当の大人」よりも劣っているのですから。
⇩本来は多分こんな感じ
それなのに、なぜこんなに「理性的=大人」という価値観が私たちの中にこびりついているかといえば、やっぱり幼少期の感覚から抜けきれてないからなんだと思います。
確かに子ども時代というのは感情的な存在でしかありませんでしたから、理性的になることこそが大人への階段だったのは事実だと思います。
でも、そのイメージが強すぎたせいで、私たちはその階段がずっとずっと伸びていると思ってしまったのではないでしょうか。
あくまで、その階段は途中で下り坂になるんですよ。
なので、私たちは頂上にきっと途中で到達しているんです。
でも、その頂上には標識もないし、ファンファーレも鳴りません。
だからそのままの勢いで私たちは通りすぎてしまうのでしょう。
下りに入って何故か身が楽になったので、「自分は大人になったんだ」と錯覚しながら。
そして困ったことに、そういう下山ルートに入った人は自分では上に登っていると思っているので、「自分の感情を殺すこと」を他の人たちにも勧めます。
もちろん、子どもたちにもそう言うのです。
「わがままを言うんじゃない」
「我慢しなさい」
などと。
そして芸術とか音楽のような感性を伸ばす教育はそこそこに、テスト、テストの詰め込み教育に専念させていきます。
そうやってみんな「感情を活かす」というスキルを磨かないまま、「感情を殺す」ことだけを覚えます。
ブレーキだけを握りしめて、大人の階段を登っては頂上の景色を楽しまないままに下山を始めるのです。
何かに取り憑かれるように、理性だけを追い求めて。
⇩こんな感じ
⇩
「武士は食わねど高楊枝」などと我慢や忍耐は私たち日本人の美徳とされてきました。
私も我慢や忍耐が要らないとは言いません。
でも、それだけではやっぱダメなのではないでしょうか。
たとえば、孤高のお侍さんが魅力的なのも、そういう自制心があるだけでなく、胸の内に秘めた熱い魂を持っているからこそでしょう。
アピールこそしてきませんが、そのような彼の心の温かさを垣間見た時に、私たちはそれに惚れるのです。
それなのに、「忍耐」という外見だけ真似しても仕方ありません。
そこだけ真似るのは簡単なんですよ。
そして、それも過ぎれば毒なんです。
講義は後ろから座る。
講義に質問が出ない。
意見を求められると無難なことだけ言う。
これらも、確かに「自制」なのかもしれません。
でも、自分を出さないといけない時は出さないといけないのではないでしょうか。
そう、多分、「理性的なのが大人だ」とか、そんなことばかりこだわっているから、肝心なときに自分の意見も主張できないし、大好きな奥さんに「愛してる」の一言も言えないんですよ。
「外国の人は情熱的らしいね、ふーん」ではなくて、やっぱりそこに見習うべきところはあるのだと思います。
そんな人たちが魅力的なのにも、理由はやっぱりあるんですよ。
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P.S.
かくいう私も、感情が暴走したり、理屈っぽくなったり、荒っぽい運転ばかりで、反省反省の毎日ですけれどもね・・・(/ω\)トホホ