雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

ハイソなスーパーから考える「格差」と「普遍性」

※今回はちきりんさんの企画、

・いつもは行かない初めてのスーパーに入ったら、

・価格が驚くほど高く、周りの客の服装もいつものスーパーより、かなりハイソな感じだった。そして、

・「オーガニック納豆をください」と店員に話しかける “6歳ぐらいの女の子”を目撃した

としたら、その経験から、ブログの読者にたいして「何を伝えたい」と思うか、ぜひ考えてみてください。

伝えたいメッセージを文章にする、ということ - Chikirinの日記

をやってみます。

■元記事:いつもは行かないスーパーで見た格差 - ブログ/韻 The Future

 

本当は「そんな経験をしたとして」書くお題ではあるのですけれど、私は実際に似たような経験をしたことがありまして。

 

学生時代、近所になかなかにお高いスーパーがあったんです。オシャレ野菜とか輸入食品とか並んでる、ほんとハイソなスーパー。

一人暮らしビギナーな時って、とりあえず近くのお店には試しに行ってみるじゃないですか。だから、「今日はあっちのスーパーに行ってみよう!」となにげなーく入っちゃったんですけれど、「ココは私の知ってるスーパーと違う、怖い」と、かなりの「迷い込んだ感」を味わったのを今でも覚えています。

 

幸い他に近くに庶民的なスーパーもあって、私はそちらにずっとお世話になることになったので、このハイソなスーパーにその後行った覚えはほとんどありません。

でも、たまーに近くを通る時このスーパーが潰れること無くちゃんとやっていっているのを見て(失礼)、スーパーにも色々あるということ、冒頭のお題の女の子よろしく「こういうスーパーの方が普通」って人たちもいるということ、を自然と実感させられました。

 

その意味では学生当時は私もそんなハイソなスーパーから「格差」を感じていたと言えるでしょう。

でも、仮に今私が同じ経験をしたとして感じるであろうことは「私と違う人たちがいる」という「格差」や「差異」ではなく――むしろ「私と同じなんだ」という「普遍性」「共通性」の方かもしれないと思います。

 

今日の私の記事で伝えたいメッセージは、そんな「格差」と「普遍性」の関係性のお話です。

ほんとは「私がいかに納豆が苦手か」の話でも良かったのですが!

 

いつもは行かない海外のスーパーで見た普遍性

スーパーと言えば、海外でスーパーに行くのは楽しいですよね。

スーパーってやっぱりそこに住む人の生活の一部ですから、そこの人たちの生活観や文化が色濃く反映されます。それこそ、上のハイソなスーパー以上に「違う世界」が繰り広げられています。

 

日本ではどこでも当たり前のように見るおむすびとか緑茶ペットボトルは当然置いてなくって、牛乳も紙パックでなくなんかでっかいプラスチックボトルみたいなのに入ってるし、ドリンクコーナーは毒々しいまでにカラフルです(私の場合、アメリカの記憶が強いです)。

あとやたらミネラルウォーター売ってて、面倒なことに炭酸入りと無しがあるんですよね。

この辺まではまだしも、さすがにあのあっまーーいクリスピー・クリーム・ドーナツが普通にスーパーの棚で売ってるのには私もビックリしました(やっぱ普段からこんなんバクバク食べてるのかな、アメリカ人ってば・・)。

 

そんな「異国な感じ」が自然に楽しめるとあって、海外に行くならスーパーに行かなきゃ、という人は少なくないようです。

 

でも、最近私がちょっと思ったのは、確かに海外のスーパーって「異国な感じ」ではあるんだけど、普通に買い物できちゃうよね――それも怖いぐらいに――という点です。

 

それもそのはず、確かに商品こそ日本と違うラインナップではあるのですけど、店に入ってカゴを取って、欲しい商品を取って、最後にレジを通るというスーパーのシステムはあまりにも日本と同じだからです。

あまりに同じなので、何の違和感もストレスもなく、普通に買い物ができてしまいます。スーパーのシステムゆえに会話もあまり必要ないので、下手をするとほんとに日本で買い物してるのと同じです。

 

そう、そこには「異国感を楽しんでる」と言いながら、結局は「日本と同じいつものシステム」に乗っかって買い物しちゃっている自分がいたのです。

 

そしてそれはつまり、私たちと違う存在のはずだった外国の人たちもまた「同じシステム」に乗っかって生活しているという「普遍性」の存在を意味しています。

 

これって結構驚きじゃありません?

 

普遍化する世界

考えてみれば同じようなことは他にもありますよね。

 

海外で動きまわってる時にお腹が空いたのだけれど、周りの初めて見るお店はどんなものかよく分かんないし疲れてたから、とりあえず「スタバ」や「マクド」なんかの知った名前のお店に入っちゃった――そんな経験ってありませんか?

 

やっぱり知らないお店はそれなりにエネルギーを使いますから余力が無いとキツイんですよね。

でも、勝手知ったる「スタバ」や「マクド」なら「いつもの感じ」が通じる安心感があって、疲れている時でも敷居が低い。

だから、ついつい引き込まれてしまうのですけれど、これはでも要は世界中どこかしこにも「スタバ」や「マクド」があるという「普遍性」があってこそなせる業です。

世界中の人が「スタバ」や「マクド」を使っているから私たちも異国でストレス無く「いつものお店」に入れるのです。

 

この「普遍性」はお店だけに留まりません。

 

例えば、今や世界中どこにいってもスマホいじりの親指族だらけ。そしてその多くがiPhoneかAndroid端末です。

世界中の人たちが同じように同じようなスマホを使っているということになります。

そして、スマホはほんとビックリするぐらい普遍的な存在です。

 

先日では、オバマ大統領がiPhone使用を禁止されているという話がありました。

オバマ大統領がセキュリティを理由にiPhoneの使用を禁止されていることを認める - GIGAZINE

でも、ご家族はiPhone使ってるそうですし、ご本人もiPadは使っているらしいです。

 

つまり、オバマ大統領レベルのすごい人たちでも結局は一般人と同じくiPhoneやiPadを使ってるんですよね。

アメリカ大統領一家なんて、一見雲の上の存在に思えますけれど、そう考えると、すごく親近感が沸いてきちゃいませんか?

 

さらに言えば、この間、テレビでシリア難民の特集を見ていたら、難民の人がスマホをいじっていて私は吹き出してしまいました。

いえ、もちろんダメってことは無いのですけど、そんな大変なところ、大変な人たちの中でもスマホという存在が自然に入りこんでるというあまりの「普遍性」に、私は驚いてしまったのです。

 

あるいは、ご存知google、amazon、facebook、twitter、wikipediaなど、世界中で何億、何十億の人が利用しているネットサービスというのが出てきていますよね。日本発というものではLINEが有名です。

もうほんと恐ろしいぐらいに「同じもの」が世界中に広がっていっているのです。

 

もちろん、以前アメリカで「Occupy Wall Street」運動があったように、格差の広がりというものは世界規模で間違いなく存在しています。

でもその一方で、分からない事があった時みんな世界中で同じように「ググってる」――ここはそんな普遍化する世界でもあります。

 

そう、世界中で「格差」は進み、そして同時に「普遍化」も進んでいるんです。

 

みんな違ってみんな同じ

差が広がるのに、同化もしていっている――なんだか相反する話のようですが、そうでもありません。

結局のところ、これが人の性(さが)というものだからです。

 

肌の色、髪の色、瞳の色などが違っていても、みんな食べて出して寝ることは一緒です。

人種が違っているといっても、同じ病気にかかって同じ薬で治すことがあるぐらいには同じです。

文化や言葉が違っているといっても、がんばってお互いに勉強すればビジネスや国際会議や結婚もできるぐらいには同じです。

 

また、人というものは、「違っていたい」と思うと同時に「同じでありたい」と思う存在で。

「個性的でありたい」と思いながら、「変人」と言われるのを恐れ「共感」が欲しかったり、

日本と違う異国に憧れを覚えつつも、日本での「変わらないいつもの日常」を送れることに安心感を抱いたり、

「みんなが持ってないもの」を欲しいと思うのと同時に、「みんなが持っているもの」も欲しいと思ったり。

 

何とも不思議なものですけれど、そんな「差異」と「共通性」を両方抱いていて、そしてどちらも好きで、その間で揺れ動いているのが多分人間なのです。

これには、有性生殖を用いて両親と異なるDNAを構成し多様化を図ると同時に、血縁や民族・人種などなるべく共通のDNAの人物を愛するようにもプログラムされている、そんな生物の持つ両価性が背景にあるのでしょう。

 

だから、そんな人間が築く人類世界もやはり、多様化しつつ共通化していくのです。

 

個性を狙うか、普遍性を狙うか

さて、このような「差異(個性)」と「共通性(普遍性)」を合わせた視点から世のビジネスやサービスを見てみるととても面白いことが分かります。

 

冒頭のハイソなスーパーマーケットは、高級住宅街の富裕層をターゲットとして、一般的なスーパーと差別化を図るという、非常に限られたゾーンで戦う戦略。

一方、グローバルに展開するiPhoneなどのスマホやgoogleなどのwebサービスは、人類みんなをターゲットにして、みなに共通する普遍的な欲望や快適性を追求する、非常に広いゾーンで戦う戦略。

一見すると、そんな風に、前者が「個性」を狙ったビジネスで、後者が「普遍性」を狙ったビジネスと、全く違う両極端の形態に思えますよね。

 

ですが、必ずしもそうでもないのです。

どちらも「個性」と「普遍性」をともに上手く押さえているという点で、本質的には似ているビジネスモデルとも見ることができるのです。

 

ハイソなスーパーは、富裕層向けの商品ラインナップにし「個性」を狙っているのは間違いありませんが、上でも書いた通り、スーパーという誰でも分かる「普遍的なシステム」を用いて、売り物も食料品や日用品という誰でも必要とする「普遍的な品目」です。特殊な買い物システムの上に特殊な品目を扱っているわけではありません。

あくまで「普遍的なもの」をベースに「個性」を乗っけているわけです。

 

また、スマホやwebサービスも、皆に全く同じデバイスやサービスといった「普遍性」のみを供給しているように見せて、実際はそうではありません。

例えば、隣の人のスマホに入ってるアプリは全然違いますし、隣の人のamazonで出る「あなたへのオススメ」のラインナップは全然違いますよね?

そう、彼らはいつでもどこでもだれでも使える「普遍的な存在」になることを狙うと同時に、各々の「個性」を活かせるようにカスタマイズ性や個別対応にもかなりの注意を払っているのです。

つまり、「個性」を乗っけるため、「個性」をより輝かせるための「普遍的なベース」を整備しているというわけです。

 

このようにハイソなスーパーも、グローバルサービスも、実は「個性」と「普遍性」をどちらも押さえ、上手く組み合わせているのです。

 

個性と普遍性のバランスを取る

おそらく、「個性」を狙うだけ、「普遍性」を狙うだけではなく、両方のバランスをどう取るかが、ビジネスの一つの大事なポイントなのです。

そうしてこそ初めて、「個性」と「普遍性」のどちらも備えた「人」という生き物に合った成功するビジネスになるのでしょう。

 

例えばid:yumejitsugen1さんがICHIROYAというアンティーク着物・中古着物オンライン販売サイトを経営されているのは有名ですが、これは着物という日本だけの「ローカルで独自の存在」であった商品をインターネットという強力な「普遍化ツール」を使って、一気に世界の誰でも買えるようにしたのが成功の秘訣であったのだと思います。

 

長く古い着物の商売をされているかたは、当時、ネットには見向きもされなかった。

 ネットで売れることに気がついた比較的若い業者さん仲間も、ヤフオクで売ることに必死で(これも当初凄く売れた)、海外に売ろうなどとは考えもしなかった。

 この、「海外に」・「ネットで」・「アンティーク・リサイクル着物」を販売するという複合競技の競技場には、ほとんど競争相手がいなかったのである。

 正確には、2001年当時、日本全国で数えても、ライバルは数人しか存在しなかった。

 そして、そこには大きな需要が眠っていた。

 

複合競技のチャンピオンを目指せ - ICHIROYAのブログ複合競技のチャンピオンを目指せ - ICHIROYAのブログ

 

一方、今回の企画の黒幕でもあります「Chikirinの日記」では、逆の動きをされています(こちらはあくまでビジネスではないですけれど)。

 ブログサービスというもともと世界中に開かれた「普遍的な」サービスを使うにあたり、ちきりんさんが意識されたのが「対象や内容を絞る」ということなのだそうです。

例えば、「老若男女」万人受けすることを狙うのではなく「社会的な事項について考えるのが好きな人」を想定読者とし、みんなが一斉にあーだこーだ言い始める「時事ネタ(ワイドショーネタ)」を避けてあくまで「伝えたいメッセージを込めたコンテンツ」を提供することにこだわっているそうです。

 インターネットは誰もがいつでもアクセスできるものだからこそ、あえてターゲットやコンテンツを絞ることで「Chikirinの日記」は「独自の存在」になることができたのですね。

 

(⇓詳細はこちらをお読みください)

「Chikirinの日記」の育て方

「Chikirinの日記」の育て方

 

 

このように「個性的なジャンル」は「普遍化」してみる、「普遍的なジャンル」では「独自性」を出してみる、お二人ともそういった「個性」と「普遍性」の組み合わせ方が非常に上手いなと感じます。

 

ここで例えば「普通のはさみ」という普遍的な商品をネットという普遍化ツールで海外販売しようとする、みたいに「普遍性」しか持っていないビジネスを考えると、いわゆるコモディティ化した市場ですから、それが大変なのは想像に難くありません。この場合は「めっちゃ安いはさみ」だとか「めっちゃ切れるはさみ」だとか「デザインがかっこいいはさみ」だとかそこに何かしらの「個性」が必要になってきますよね。

グローバル化だからといって英語力を売りに世界に打って出るような話も同じ罠に陥っているといえるでしょう。世界に英語が出来る人がいっぱいいるからこそ、英語は「普遍的な」グローバル言語なんですよね。英語力が「売り」にはなりません。それこそ、日本語力などといった英語力以外の「個性」がグローバル市場に打って出るには必要なのです。

 

一方、今度は逆に一部の人しか欲しがらないめっちゃ「個性的な」商品を、すっごくアクセスの悪い田舎の片隅で売るような「普遍性が無い」ビジネスを考えると、これもお客さんが集まらなくって大変に決まってます。

この場合、そんな遠くまで多くの人がわざわざ来てくれるような「普遍的な魅力」を持っているとか(観光地などはこのパターンです)、大都市やインターネットのように多くの人が訪れることができる「みんなに開かれた場所」で販売するとか(ロングテール戦略として有名ですね)、個性的な商品を諦めて誰もが日々必要とする日用品を売るとか(地元のスーパーですね)、そのような「普遍性」が必要になるのです。

 

ビジネスには「個性的」なだけでなく、「普遍的」なだけでなく、両者のバランスを上手くとることが求められているのです。

 

「オーガニック納豆」と聞いて

というわけで、長々と「個性」や「普遍性」について考えてきましたけれど、どうでしょう。

 

今、ハイソなスーパーで「オーガニック納豆をください」という女の子の声を聞いたとして、皆さんは何を感じるでしょうか?

 

こんなお高い値段で日常的に買い物をしていたり、オーガニックなものにこだわったりする彼女らに「差異」ひいては「格差」を覚える一方で、そんな裕福な人たちも同じようにスーパーに行くし納豆を食べるんだなと、私たちに共通する「普遍性」ひいては「親近感」も同時に感じないでしょうか。

 

そう、このような時、高級で質の良い品々、有機栽培のような特別仕様、などの「個性の魅力」に目が行ってしまいがちですが、そこには実は変わらず存在している「スーパーというシステム」や「納豆」というものの持つ「普遍的な魅力」の強力さも同時に示されているのです。

 

本当は何にだってそれらは共存しています。

そして、世界中どこにだって同時に存在してるんです。

時に私たちが片方にしか気づいていないだけなんです。

 

だから、異国の地に行った時、他人と交流する時、「違い」を見つけても面白いし、「共通点」を探しても楽しい、要するにどっちに転んでも楽しめちゃう――こんなに素敵な視点は無いと私は思うんです。

 

なんとも都合の良い、ずっこい考え方のようですけれど、それでいいんです。

 

それが人間という生物の能力で、本能で、そして魅力なのですから。

 

 

 

 

 

P.S.

相変わらずの長さですが、もういいんです、いつも長いのも私のブログの「個性」。。。(´・ω・`)

 

今回はちきりんさんの企画に乗った記事でしたけれど、この企画がまたとても面白い試みなんですよね。

普段のブログは皆さん各自の経験に基いて各自の気まぐれなテーマで好きなように書いているわけですけれど、この企画では経験の部分とテーマの部分を固定(共通化!)してしまうことで「どのように書くか」「何を書くか」というコンテンツの「個性」を際立たせる実験的な試みがなされています。

ちきりんさん自身も書かれている通り、いわゆる「お題」みたいにキーワードだけ固定するのではなく、前提となる経験エピソードまできっちり固定したことで、より各々の「個性」の違いがはっきり出てくるんですよね。

記事内容と合わせると、「普遍的なベース」を用意しておいて、思う存分ピュアな「個性」を乗っけてもらう、そんな企画と言えます。

見たい項目以外は同じ条件に揃えて(共通化して)「違い」を観察するのが科学的手法ですから、まさに文字通り「実験」でもあります。

ほんと面白いです。

 

そんなこんなで書いた私のこの記事ですが、あんな話からこんな風に考えてこんな風に書いちゃうのが「私のブログ」なんです。

楽しんでいただけてると良いのですが。

 

ともかくも、長文にもかかわらずのご清読、ありがとうございましたm(_ _)m