雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

理性 VS 本能

 

巡回していてこの記事を読んだんです。

 

これは、まず別のこの記事の方の、

 

人はもっと理知的な存在になれると信じています

 

という、「理性派」の発言に対して、

 

「人間は生理的な生き物だ」と。生きた体として生きている以上、逃れられないある種の性が人間にはある。

理も知も及ばない人の性を、どうやってそれで変えられると言うのか。

 

と、人の「本能」は「理性」ではかないっこないのではと、「本能派」からの視点で疑問符を示した内容です(・・・と思います)。

 

私も昨日、赤ちゃんの泣き声の話で、本能のことについて書いたばかりだったのもあり、このお二人の感覚の違いがすごく興味深く思えたのです。

 

 

長く読んでいらっしゃる方がいらしたらご存知かもしれませんが、私の記事は「考えていこうよ」というような「理性派」の結論になることが多いです。しかし、その一方で、昨日の記事( 赤ちゃんの泣き声と、クレーマーと、我慢の限界)のように「本能にはかなわないよ?」と「本能派」の意見もよく書いています。

こんな特徴がもっとも顕著なのが、感情も理性も立てている、この記事(冷静と情熱のあいだ)ですね。

 

そう、上のお二人の意見、私はどちらも正しいと思うんですよ。

一見、相反して見えるお二人ですけど、実は両立するんです。

この両立こそが、私の哲学なので、ちょっとご紹介したいと思います。

 

  ◆

 

まず、人間の本能というもの、これはなくせないというのはいいでしょう。そして、それに理性がかなわないというのも間違いないですよね。

例えば、社会的地位の十分あるような有名アナウンサーや大学教授もあっさり痴漢をしてしまったり、どんなに必死のダイエット中でも目の前のケーキには勝てなかったり、試験前に漫画を読んでしまったり。

人類の歴史上、理性と本能が戦った時にかつて勝ったことがあるのでしょうか。きっと、もうほぼ全敗なのではないでしょうか。

本能の前では理性なんて凶悪なモンスターの前の裸の人間みたいなもので、相対すれば、一瞬で消し飛んでしまいます。

 

そう、戦っても勝てないから、理性は本能と戦ったらダメなんです。

本能と戦って、本能を変えていこうなんて無理なんです。

 

じゃあ、どうするの、と思われるかもしれません。

 

大丈夫。

 

理性の本当の戦い方は、

 

本能と直接向き合わないように上手くかわしつつ、そのエネルギーを利用する

 

これです。

柔よく剛を制すというやつですね。

 

 

本能というモンスターはとても凶悪ではありますが、実は行動は比較的単純です。だいたいどういう時に、どういう風に登場するか、それなりにわかりやすいのです。

理性がやるべきことは、このパターンを把握して、それを利用するいい方法を編み出すことです。

 

一番いい例はスポーツだと思います。

力強い人間の競争本能、闘争本能。むき出しのままほっておくと、お互いに傷つけあってしまうことがあるのは皆さんご存知の通りです。かといって、理性には直接これらを抑えこむ力はありません。そこで、理性はスポーツという代理戦闘を発明しました。スポーツであればお互いを傷つけること無く、本能的欲求を昇華、解消できます。この発明は、御存知の通り、大昔から現代に至るまで多くの人々に興奮と幸福感をもたらしています。

 

このように如何に本能と直接戦わず、そのエネルギーを解放、幸福感へ昇華できるかが理性の役割なのです

 

理性は結局、本能と戦っていません。本能に勝っていません。しかし、本能と上手く付き合うことで、間違いなく理性は勝っています。いえ、正確には、本能も理性もともに勝者になっているのです。

 

 

――戦争より平和を。

 

――自然に逆らわないエネルギーを。

 

 

ほら、普段私たちも無意識のうちに望んでいるやり方ですよね。

多分これが、理知的な存在になるということだと思うんです。

 

そして、本能と付き合う方法を編み出すこと、

これこそが「考える」という行為だと、私は思うんです。

 

 

 ◆

 

さて、現代社会はすごく理性が発達した社会と言えます。少なくとも戦乱や犯罪と縁の薄い日本ではそうでしょう。理性が長年に渡って作り上げた複雑な舞台装置のおかげで、私たちは本能の顔をあまり見ること無く生きていけるようになってきました

しかし、だからでしょうか、私たちは本能の存在を忘れかけていないでしょうか?本能の怖さ、凶悪さを忘れていないでしょうか?

 

確かに私たちは理性的になることができます。でも、本能はいなくなったわけではないんです。

「本能の姿が最近見えなくなった⇨理性が本能に勝った」というのは非常に危険な発想です。

 

この危険思想の最たるものが、昨日も挙げた「我慢する」という行為だと思います。

 

――赤ちゃんの泣き声から受ける本能的な不快感を我慢する

 

一見、理性的な行為に見えるかもしれません。

しかし、もうお分かりでしょう。

これは本能を理性で押さえつける行為に他なりません

そう、決してやってはならなかったはずの、直接対決なんです。

戦っちゃいけない相手と戦う・・・結果はもちろん言わずもがなでございます。

本人たちは理性的だと思ってやっているかもしれません。

でも、その行為こそ、残念ながら理性の戦い方を完全に無視した、もっとも非理性的な行為なのです。

 

なのに、ご存知の通り、この社会には「我慢することが美徳」という空気が根強く存在しています。

 

我慢して勉強していい大学に入りなさいとか。

我慢して働いて社会に貢献しなさいとか。

 

「我慢する」しか無い時というのも確かにあります。しかし、それはあくまで理性がまだうまく扱えていない部分の話です。そして、それはこれから理性が進出すべきフロンティアの部分です。なのに、何でもかんでも「我慢しろ」というのは、もう理性の歩みを止めて、理知的な存在になることをあきらめているようなものなのです。むしろ、逆行さえしているかもしれません。

 

私は今の社会はほんとに良くなったと思います。

問題もありますけれど、歴史を振り返ってみたら、すごく良くなったと思います。

これは理性でどう本能と付き合うか、ずっと考えてきた先人たちのおかげなんです。

時には、試行錯誤の中で間違って本能の前に落下してしまって、そのまま犠牲になった人たちもいます。でも、彼らがそれでも本能と付き合うことをあきらめなかったから、今の私たちの快適な社会があるのです。

 

ここで歩みを止めていいのでしょうか?

ここで「もういいや」と言ってしまっていいのでしょうか?

私にはそれはできません。

 

我慢なんてできません。

 

 

 

  ◆

 

 

むすびにあたって。

 

えと、モンスターが出るような映画あるじゃないですか。

パニック映画のジャンルになるんでしょうか。

ああいう時にこういう人たち絶対いますよね。

 

 

「はっはー、あんな化物、このライフルがあればイチコロだぜ!」

 

――5分後。

 

「・・・な、なにぃっ、銃が効かない!・・ひっ、ひぃぃ、うわぁぁあ!!」

 

主人公「だから、やめろって言ったのに・・・」

 

 

 

言いたいことお分かりですね・・・。

 

 

 

私たちは化物に勝てるようになったわけではないんです。

化物に会わなくてすむようになっただけなんです。

それを勝ったとか、勝てるとか、思ってはいけません。

 

 

いつだって、私たちの社会の地下には、迷宮の中でさまよっているミノタウロスがいるんです。

それを忘れてはいけません。

決して迷宮に降りちゃいけません。決して会っちゃいけません。もちろん外に出してもいけません。

 

どうしても仕方がない時は、せめて「思考」という名のアリアドネの糸をしっかり手に握っていてから――そう私は思うのです。

 

 

 

 

 

 

P.S.

引用記事の筆者の方々、無断で記事にしてしまい、ごめんなさい。idコールするか悩んだのですが、あえてしませんでした。それは、元記事がidコールしてなかったことから、邂逅を望んでない可能性もあるかもしれないと思ったからです。悪しからず。。。