雪見、月見、花見。

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「正しい科学知識を伝えれば理解してくれるはず」という誤解

老舗グルメ漫画の「美味しんぼ」が、作中で福島原発からの被曝による鼻血の描写をしたとして議論を呼んでいます。

 

「美味しんぼ 福島の真実編」抗議相次ぐ 「科学的にありえない」 (産経新聞) - Yahoo!ニュース「美味しんぼ 福島の真実編」抗議相次ぐ 「科学的にありえない」 (産経新聞) - Yahoo!ニュース

 

「科学的根拠の無い描写で、風評被害につながる。けしからん!」と美味しんぼ側に抗議する声もあれば、「国や学者はこんな被害の真実を隠蔽してる。けしからん!」と称賛する声もあるようです。

 

一応立場を表明しておきますと、私はどちらかと言えば前者寄りで、被曝による鼻血という因果関係には懐疑的なのですが、今日は放射線で鼻血が出るかどうかについて、深く掘り下げるつもりはありません。

 

今日のテーマにしたいのは、たまたま見かけたこちらのまとめです。

 

美味しんぼ問題が全くナンセンスである医学的理由 - Togetterまとめ美味しんぼ問題が全くナンセンスである医学的理由 - Togetterまとめ

 

「そもそも鼻血が出るメカニズムは」という基本的なところから「放射線による鼻血というものが医学的見地から言えば考えにくい」という結論まで丁寧に解説している一連のツイートがまとめられています。

この解説の内容についても厳密に真偽を確証するのは難しいですが、一般的な科学的立場としては確かにそんなところかなーと納得させられる内容となっています。

 

ただ、筆者が言われるように「科学的立場からこのように正確な知識を啓蒙すれば騒動が落ち着くか」といえば、私にはそうは思えません。

 

なぜかというと――こう言ってしまうと月並みですが――「人の気持ちは理屈のみで動くものではないから」です。

 

 ◆

 

実際、リスクコミュニケーションやサイエンスコミュニケーションなどと言われる分野において、知識豊富で教える立場である科学者が初めに陥りやすいのが「正しい知識を伝えれば理解してくれるはず」という誤解なんだそうです。

 

「理論的であることを旨とする科学を教えるのであるから、論理的に一切紛れのない正確な知識を提供しないといけない」「科学的に合理的な正しい知識なんだから聞けば理解してもらえるはず」と思う気持ちは確かに分からなくもありません。

なにせ科学界では合理的であることが鉄の掟です。

例えばSTAP細胞の小保方博士は科学者でありながら科学の合理性の掟を犯した疑いで今糾弾されているわけです。

 

しかし、これが罠なんです。

 

考えても見てください。今回のケースのように科学を非専門家の人たちに伝えようとする場合、そこはどこでしょうか。

 

そう、相手が科学者で無い以上、そこはもう科学界ではないのですよ。

合理性の掟の司る科学界の外に出ているのです。

それなのに、あくまで科学を伝えるにあたって、科学界の掟である合理性にのみ頼ることが果たして有効な策でしょうか。

 

例えば、私たちが日本文化を外国の方に伝えようと思ったとして、ひたすら日本語で話しかけますか?

日本の行事や礼儀作法を延々と見せつければ、日本文化を解ってもらえるでしょうか?

 

絶対に不可能とは言いませんが、これは非常に大変な道であるはずです。

相手が特に日本に興味が無い場合は尚更そうでしょう。

 

そうではなく、そういう時、私たちはむしろ、まず相手の国の言葉や文化を学ぶはずです。

相手の考え方や言葉を学び、自分たちの世界との違いを知った上で、相手の言語を用いたり、相手の礼儀作法になるべく則りながら、日本のことを伝えていくはずです。

 

これは、科学であってもそうでしょう。

科学を伝えるにあたって、科学界の掟である合理性のみを追求していくことはあまり良い手とは思えません。

科学者側も、理屈だけでは納得できない人の存在をまず認め、時に非合理的かもしれない人の感情というものの掟を学び、それに寄り添っていかなければならないはずなんです。

すなわち科学を非科学者に伝える時には――もちろん正確な知識や道筋だった論理も必須ではありますが――直感や感情といったいわば非合理的な存在も尊重する必要があるんです。

 

感情を大事にする、気持ちに訴えかける、などと言うと科学者の立場からすると嫌がる方も多いかもしれません。普段はきっとそんなことは非科学的だとして、やらないようなことでしょうから。

しかし、科学者にとって日常、理屈だけで話が通じるのは、相手も同じ科学界にいる科学者だからに過ぎません。

科学者でない方に本当に科学を伝えたいというのであれば、科学を押し付けるのではなく、非科学的な信念というものをもある程度は尊重しないといけないのです。

 

相手に何かを伝えようとする時、相手に変わってもらおうとする場合、最初に変わらないといけないのは案外自分達の方で、そして、コミュニケーションとはまさにそういうものなのでしょう。

 

 ◆

 

さてここで、例の解説を振り返ってみますと、なるほど確かに論理的ではあるのです。

ただ、「正しい知識を伝えているのだから正しい」という立場に依ったと見受けられる、「ナンセンス」「馬鹿馬鹿しい」「爆笑した」「下らない」など、若干強い態度が目につきます。

いくら正しい知識、紛れのないロジックに基いていたとしても、これを受け取った相手側にとって、これは到底感情的に納得できないものではないでしょうか。

 

そして、それでいいのかといえば、それで良くないはずだからこそ、科学知識を伝えようとしていたはずで、これでは本末転倒に思うのです。

 

 

以前、私は「科学も宗教である」という旨の記事を書きましたけれど、私たち科学信者も科学に対して理屈ではない何かしらの信念を抱いているように、それを科学界でない方に伝えるためには、その方々も心の底から科学に惚れ込ませないといけないのではないでしょうか。

 

私たちが理性だけでなく感情も備え、完全な科学的な存在になれない生身の人間だからこそ、やはり理屈だけではないのです。

 

 

 

<参考記事>

ニセ科学をバカにする前に ~科学という名の宗教~ - 雪見、月見、花見。

専門家の話が分からない、一般人の気持ちが分からない - 雪見、月見、花見。

 

 

P.S.

とはいえ、感情や直感も行動科学や心理学として、科学の範疇にはなるんですよねー。

この対応の柔軟性も科学の魅力の一つじゃないかなと思います。

 

(2500字)