正しい「体罰」のやり方
最近議論になっている体罰問題については、生徒が自殺するという衝撃の事件を端に発していたこともあり、体罰反対派の声が優勢でしたが、体罰容認の意見も出ています。
大人になるまでに、一度や二度のちょっと行き過ぎたいたずらもなしで育つ人は殆どいない、とすると、頬ビンタ、小突く、位のことやバケツ持って立ってなさい(拘束)が全くなし?なぜこの大事な問題もっと本音で語らないの?放置するとどんないたずらっ子にも教師は指一本触れなくなりますよ!
— 片山さつきさん (@katayama_s) 2013年2月9日
の方や
の方など。
私は先日「どうして「罰」がいけないのか」という記事をあげて、「体罰」について反対のスタンスを説明したのですが、上のお二人も言うように、全ての場面で「体罰」が不要とは思いません。どうしても「体罰」が必要な場面というのはこの社会には存在していると思います。
こう言うと、
「 反対したり、容認したり、そんなの矛盾してるじゃないか、どっちなんだよ」
と思われるかもしれませんが、私が体罰を容認するのもあくまで「条件付きの場面」においてです。
ただ、その条件については、上のお二人ともおそらく少々違うところがあります。
ということで、今日はそんな「正しい体罰のやり方」についてボーッと考えて行きたいと思います。(ここでいう「体罰」は殴打などの直接的な体罰だけではなく、廊下に立たせるなどの間接的な体罰も含みます)
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・・・と、ちょっと引っ張ったものの、私の「体罰」を容認する条件はシンプルなので、ここでもうさらっと提示しちゃいます。
それは、
①被罰者が他人の「身体」や「自由」を侵害した場合のみに行われる
②「体罰」の適応基準と量刑を明記する
③入学時・変更時に体罰ルールについて保護者の同意を得る
④体罰ルールは社会全体に公開する
これだけです(細かい補則は要るかもですが)。
では、それぞれ見て行きましょう。
①被罰者が他人の「身体」や「自由」を侵害した場合のみに行われる
これは、当たり前のように聞こえるかもしれませんが、案外そうでもありません。
例えば、誰かが宿題をサボっていたり、勉強をしていなかったり、部活の練習に身が入っていなかった時に、けっこう「体罰」は行われますよね。
「こら、ちゃんと勉強しなさい!」なんて言って。
でも、こういうのは罰してもよい対象に入りません。
勉強するもしないも本人の自由で、特に他人を侵害してないからです。
「そんなこと言ったら勉強しないじゃない」
と言われるかもしれませんが、では、なぜ本人が嫌だと思っていてもなお勉強させないといけないのでしょうか。
「それが本人のため」とでも言うのでしょうか。
では、大人が本人のためと思っていたら、子どもの自由を侵害してもよいのでしょうか?
それは家にお金が無いのを悲観して「これがこの子のため」と言って一家心中する人たちだって許されるという理屈ではないでしょうか。
もし「勉強が本人のため」だと思うなら、彼ら自身が自発的に「勉強が自分のため」だと思えるようにしないといけません。勉強の魅力を彼らに伝えないといけません。
それが私たち大人の役目であって、腕の見せ所なんだと思います。
それが伝えられなかったからといって、体罰に走るのは甘えであり、そして単なる「暴力」です。
ですから、結局「体罰」の対象として許されるのは、「目には目を」ではないですけれど、その子によって誰か他人の権利が侵害された時だけになります。
誰か他人の権利を侵害したという事実がなければ、誰も彼自身の権利を侵害する権利は無いんです。
もし、どうしてもそうしたければ、憲法改正からご検討をお願いします。
②「体罰」の適応基準と量刑を明記する
これは前回の記事で書いた通り、私は「体罰」の問題の一つにそれが明文化されてないことがあると思っているからです。
「体罰」が「どういう時に行われるか」、「どんなことをされるか」が不明瞭で、ある人物の気分次第となると、子どもたちは恐怖を感じます。いや、私たち大人だって、そんな状況だったら怖いですよね。
恐怖は行動の萎縮をもたらします。
でも、この行動の萎縮こそが、子どもたちから最も大事な「好奇心」という能力を奪うものです。
これは教育的にも非常に大きな損失で、絶対に避けなければなりません。
そのために、全てを明文化し、恐怖を除くようにします。
※この議論は前回で触れたところですので、深くは書きません。前回記事をご参照下さい。
③入学時・変更時に体罰ルールについて保護者の同意を得る
そして、この条件です。
これを事前にしておかないと、片山先生のおっしゃる通り、モンスターペアレントに何でも難癖をつけられてしまいます。
なお、ここは①の条件が守られている前提ですので、生徒自身の同意は不要としました。
④体罰ルールは社会全体に公開する
この条件は、いわゆる教師に難癖をつけてくるモンスターペアレントと逆に、教師と保護者たちが結託して、①の条件や②の条件に反した行為を行なっていないかを社会全体でチェックするためのものです(例の桜宮高校の場合もそういう傾向があったとかなかったとか・・)。
特に立場の弱い子どもを対象としているルールであるだけに、今回問題となっている事件と同様、彼らの「権利」や「自由」が侵害されやすい状態です。だから私たち社会全体でそれが適切に行われているかチェックする必要があると思います。
先日の記事「自由には自己責任が伴う?」で書いたように、私たちは社会で「自由」が守られているかについては責任があるのですから。
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と、ここまで来てお気づきの方も居るかもしれません。
結局、私が主張していることは単に「法律」のシステムそのままなんですよね。
そう、色々書いてますが、私はただ学校も国の形にならって「法治社会」にするべきだと言っているだけなんです。
実社会の法律を憲法として、その範囲の中で校内のルールを明文化して、公開し、適切に施行する――ただ、それだけなんです。
おそらく、こんなしち面倒くさいことできるか、そんなことであいつらに対抗できるか、と思われる方も居るでしょう。
しかし、この手順を踏まずに、筋を通さずに、「言うことの聞かない子どもはこうだ」と手を上げるのは――それは単なる「暴力」です。
それこそ「子ども」のやることです。
どんなに偉そうな理屈を言っても、「暴力」に「暴力」で対抗してる子どものケンカに過ぎません。
上から見下ろしているつもりかもしれませんが、のこのこ同じ高さに降りてぶん殴ってるだけなんですよ。
私は以前、「学校は世界の紹介所」という記事を書きました。
この時は、教科内容を世界と同じぐらい多様にしないとというお話でしたが、学校を治めるシステムだって世界の縮図にしないといけないと思うのです。
世界の入り口として最初に子どもたちが訪れる「学校」という社会が「暴力」による統治であったらどうでしょう。
その子たちは大人になっても実社会に出ても「暴力」による統治が許されると思うでしょう。
特に「正義」の名のもとになら「暴力」は許される、そう思うことでしょう。
これは非常に悲しいことです。
でも、私はこの社会は実際にそうなってしまっているのだと思っています。
◆
例えば、授業を妨害する注意しても止められない生徒はみんながきっと困ってるし、体罰を検討してもよいと私も思います。
これをお読みになっているあなたも賛同してくれるかもしれません。
一般的にも支持されそうな内容です。
すると、そう、
きっと「みんな」も困っているのだから、これはみんなのため。
これは公共のため。
これは正義だ。
だから、体罰もいたしかたない。
そんな気持ちが沸くかもしれません。
そして、この世の中では、そんな気持ちが沸いた人が、実際に体罰を行なっていることでしょう。
ですが、ちょっと待ってください、私やあなたは「みんな」でしょうか?
違いますよね。
「みんな」の中の一員ではありますが、「みんな」ではありません。
そんな私やあなたがなぜ勝手に体罰を行えるでしょうか。
――きっと「みんな」もそう思ってるからいいじゃん?
確かにそうかもしれませんね。
私もそうなんじゃないかとは思います。
でも、私やあなたが勘違いして「みんなもそう思っている」と思っているだけの可能性はないんでしょうか?
あなたの体罰がみんなの意見である「公」に基づいたものであって、自分勝手な「私」に基づいたものではないという証拠はあるんでしょうか?
それがないまま、「みんな」を代表するなんて、それはおこがましいのではないでしょうか?
それは「公」の行動では決してなく、単なる自分勝手な「私」の行動ではないでしょうか?
そう、結局のところ、
いじめを行う子どもたちだって「自分が正しい」と思ってます。
授業を妨害する生徒たちだって「自分が正しい」と思ってます。
部員に体罰をする顧問だって「自分が正しい」と思ってます。
神の名の元に集うテロリストだって「自分が正しい」と思ってます。
私からすれば、「道徳」や「公共の福祉」のための行為だって、同じことです。
勝手に「自分が正しい」と言っているだけです。
例えば、「「容疑者」=「犯人」ではないという当たり前の話 - 脱社畜ブログ」の記事にも書かれている通り、私たちは「悪い(らしい)人」には過剰に辛辣です。
これぐらいひどいことを言っても許される。
どんな過去を暴いたってかまわない。
自業自得だ。
社会的制裁だ。
なにせ、こっちが「正義」であいつは「悪人」なんだから。
マスコミを始め、みんな少なからずそう思っているような気がします。
ですが、そんなのは「正義」ではありません。
単なる「暴力」です。
ハッキリ言います。
どんなに綺麗なことを言おうと、どんなに美しいことを言おうと、どんなに正しいことを言おうと、それはやっぱり「暴力」なんです。
◆
じゃあ、「暴力」と「力」を分けるものは何かと言えば、それが明文化されたルールに基づいているかどうかに他なりません。
勝手に「正しい」と言っているわけではない、「みんなの代表」であるという証明のためにルールがあるんです。
事前にみんなの同意を得てあり、適応要件や量刑が明示され、みんなに公開されているルールに基くからこそ「正義の力」になるのです。
私たちは子どもたちに「暴力」を教えたいのでしょうか。
そうではありませんよね。
でも、「暴力」に「暴力」で対抗すれば、それは「暴力」を教えているのと違いありません。
だから、どんなにめんどくさくても、私たちはしっかりと手順を取って、筋を通すことで、彼らの「暴力」に対抗するべきなんです。
それでこそ、初めて私たちは「正義の力」になれるのです。
そして、初めて子どもたちに「正義とは何か」を教えることができるのです。
確かに、難しいかもしれません、大変かもしれません。
でも、私たち大人がこれを諦めたら、絶対に子どもたちには伝わりません。
これこそが負けられない正義の闘いなんです。
そう、
――暴力無しに人を治める
これこそが、大人の意地をかけて、社会の意地をかけて、正義の名にかけて、絶対に勝利しないといけない闘いなんです。
最後に。
神話の中の、正義の女神は右手には剣を持っています。
では、左手には何を持っているでしょう。
――そう、天秤です。
なぜなら、正義(justice)の意味は「自分が正しい」ということではなくて、「公正である」という意味なのです。
力なき正義も無力ですが、
正義なき力もただの暴力なんですよ。
photo credit: ilkin. via photo pin cc
関連過去記事
⇧いじめ事件の時のですね。懐かしいです。同じようなこと書いてます。
そして写真ももっかい使いました♪
P.S.
と言いつつ、題名に「正しい」を使っていますが、「望ましい体罰のやり方」ぐらいに思って下さい(なんとなく語呂がよくなくて・・・)。
まあ、今のところ結局おおもとの法律で禁止されているので「体罰」はできないんですけれどね。みんなの総意がそうなんですから、仕方がありません。
どうしても「体罰」したかったら、そこから変えるしかないです。
あと、今回は主に学校を想定した話でしたけれど、家庭内になるとまた難しいんですよね。更に閉鎖空間ですから・・・。