やりがいとは何か? RT Re: 脱社蓄ブログを読んで感じる違和感
先日の
のやり取りを拝見しまして。
各ポイントをビシビシとクリアするくらげさんの明解な回答が出たことで、とりあえずは議論としては落ち着いたのかなぁというところ。
で、私もちょっとコメント欄に野次馬してしまっている通り、私はこのお二人の意見は実はそこまで違っていなくて、このスレ違いは、
「やりがいがある仕事を与えてあげたのだから給料が安くても働くべき」と言っていると思うか、
「給料が安くても働いてもらえるよう、やりがいのある職場にしよう」と言っていると思うか、
という企業の姿勢に対する解釈の違いのせいもあるのではと思っています。
この手の解釈の違いに由来する議論の不一致は、しばしば日常でも見られるので、言葉の意味とか文章の意図というものを一致させるよう私たちは意識的に注意しないといけません。
さて、実はこの議論の中には、企業姿勢の解釈だけでなく、もう一つ困った火種があります。
それは「やりがい」という単語です。
この言葉も、解釈次第で色んな意味を持つせいで、「仕事とやりがい」のテーマの議論の時に、話が紛糾するもとになっていると私は考えています。
事実、上のお二人もおそらく「やりがい」のイメージが少し違うように思われます。
脱社畜ブログのid:dennou_kurageさんも頻繁に重要キーワードとして扱っているこの言葉。
僕が「やりがい」を対価として労働者を低賃金で働かせることを肯定できないと思うのは、それが真っ当な賃金で働きたいと思っている他の労働者を害することに繋がるからである。
せっかくの機会なので、「やりがい」とは何かについて今日はボーッと考えてみてみましょう。
①自己完結型やりがい:「好きな仕事」「成長できる」系
私は「やりがい」というのは大きく分けて3タイプあると思っています。
まず、一つ目が「自己完結型やりがい」です。
「この仕事(職業)が好きだからやりがいがある」
「自分のスキルアップにもなる仕事だからやりがいがある」
といったように使われるタイプの「やりがい」です。
つまり、仕事を通して給料だけでなく、「楽しさ」や「能力」なども得ることができるという状況です。
このタイプのやりがいがおそらくid:dennou_kurageさんが一番問題にしている「やりがい」で、
のように何度もテーマにされていて、この「やりがい」を理由に給料などの待遇を下げることに強く反対されています。
ただ、やっぱり、「好きな仕事=みんなやりたい仕事=過供給」になるので、給料が下がって来ること自体はおそらく市場原理的には仕方がないところなのかもしれません。
もちろん、その結果、足元を過剰に見られて酷使されるのもおかしいので、くらげさんも言われるようにベーシックインカムなどの市場原理外の保障システムを作ることで、「嫌になったらいつでもやめられる」環境を築かないといけないのだろうと思います。
②職場環境型やりがい:「働きやすい」「人間関係が良い」系
2つ目が、職場環境型やりがいです。
「この職場はアメニティや福利厚生をしっかりしていて働きやすくやりがいがある」
「上司もこちらの体調などを気遣ってくれて同僚もいい仲間ばかりで、良好な人間関係の中で仕事ができてやりがいがある」
といったように使われるタイプの「やりがい」です。
先ほどの1つ目のやりがいが「仕事が好き」な気持ちだとすれば、こちらは「職場が好き」な気持ちです。
このタイプのやりがいがおそらく、「会社に恩義くらい感じてもいいのでは」と主張した、id:hatedebuさんが思う「やりがい」だと思います。
ある意味、全国津々浦々どこでもできる「職業」という意味での仕事と違って、この「職場」というのは、世界で唯一ここだけという代物ですから、愛着がわくとなかなか離れられません。
ドラマなんかでも、主人公がいわゆるヘッドハンティングで高給な職場への展望が開けたところで、やっぱり給料が安くてもここのみんなと仕事がしたいと言ってその話を断る・・・・・・というのが常套ですよね。
心の底からその職場が好きで「やりがい」を感じているのであれば、給料が安くてもかまわないという気持ちがわくのも仕方がないところでしょう。
③社会貢献型やりがい:「社会のためになる」「人の助けになる」系
3つ目が、社会貢献型やりがいです。
「社会のためになる仕事でやりがいがあります」
「困った人を助ける仕事でやりがいがあります」
といったように使われるタイプの「やりがい」です。
つまり、仕事をすることで、会社のみならず、社会の役に立つことができるという誇りや名誉の気持ちです。
で、実は私が一番問題に思っているのが、他ならぬこの「社会貢献型やりがい」です。
といっても、もちろん、社会のためになることは良いことなので、そういう仕事をするなと言っているのではありません。
むしろ、私はもっともっとそういう仕事をやる人が増えて欲しいとさえ思っています。
私が問題に思っているのは、「社会に貢献する仕事」や「やりがい」の気持ちそのものではなく、「社会貢献型やりがい」を理由に給料を安くすることです。
けっこう居るんです。
「社会のためになる仕事でやりがいがあるので安い給料で十分です」
「困った人を助ける仕事でやりがいがあるので安い給料で十分です」
という方々。
気持ちは分かります。
多分、本当に善い人たちなんだろうなって思います。
だから、そこに文句を言うのは正直いたたまれません。
でも言わせて下さい。
それが社会に役立つ仕事ならば、だからこそ、ちゃんともらって下さい。
あなたがどうしてもお金が欲しくなくても、ちゃんともらって下さい。
もらった後なら、募金するなり、ドブに捨てるなりは自由にしてもいいですが、絶対に一度は自分の手にもらって下さい。
くれない会社には、しっかり文句を言って下さい。
何故金を出さないのか問い詰めて、場合によっては辞める覚悟をもってでも、徹底的に闘って下さい。
とにかく、ちゃんと対価をもらうこと、あるいは対価を要求することが大事なんです。
社会貢献型やりがいには給料値上げを(値下げではなく!)
なぜそんなに対価をもらわないといけないのかと言いますと。
社会に役立つ仕事というのは基本的に需要が供給を上回っている仕事です。
要するに人手が足りてない仕事です。
あなたがこの仕事にやりがいを感じる以上は、この需要を満たすことを目標にするはずです。
一般的な市場経済の中で不足している供給を増やし需要を満たすためには価格が上昇しないといけません。
言い換えれば、価格が上がることで「ここ人手足りてないよ!」とシグナルを出していると言えます。
このシグナルを市場経済が受け取ることで、徐々に人手がその仕事に集まってきて需要が満たされるのです。
ですが、ここで、
「社会のためになる仕事でやりがいがあるので安い給料で十分です」
などと言って、価格を上げるのをやめてしまえば、シグナルが出ないのです。
発せられないSOSは、誰にも届かないのです。
これでは社会は知らんぷりで、需要は満たされません。
更に言えば、「やりがい」があるからと価格を下げ過ぎてしまえば、下手をすると、「ここ人手余ってます!」のシグナルさえ出てしまいます。
そうなると、むしろ人手が減って、不足需要が増加してしまったりもします。
これは、あなたが望んでいたことではないはずです。
あなたも困っている人たちの需要を満たすことにやりがいを感じていたはずです。
最終的には需要が完全に満たされることを願っていたはずです。
それならば、ちゃんとシグナルを出さないといけません。
価格を上げる圧力を止めてはいけません。
社会に貢献するという価値ある仕事をしているのだから、だからこそ、その価値を社会に気づいてもらわないといけないのです。
この給料は自分のため?社会のため?
とはいえ、そのような社会に役立つ仕事というのは、顧客の方の支払い能力が低いことがほとんどです。お金がなくて代金を払えないから、需要が供給を上回ったままで止まってしまっているのです。
だから、要求する給料を安くして需要を満たしてあげよう、そんな気持ちが起こることも当然です。
ですが、あくまで、それは応急処置であることに気をつけてください。
しかもやればやるほど、先ほどのように、状況が悪化する麻薬のような代物です。
一時しのぎにだけ使うべきで、依存症になるほど使ってはいけないのです。
応急処置で時間を稼いでいる間に、本当の治療をするのが鉄則です。
だから。
顧客の人たちに支払い能力が無くても、会社に適正な給料を要求して下さい。
顧客にも会社にも支払い能力が無いなら、社会に支払いを要求して下さい。
とにかく、誰かに払わせて下さい。
払われなくても対価を求め続けて下さい、適正な給料を叫び続けて下さい。
シグナルを出し続けて下さい。
SOSを出し続けて下さい。
そう、社会のための仕事の給料は、あなたの給料であるのと同時に、社会のための給料でもあるのです。
その給料をあなたの勝手な思いで諦めることは、あなたが社会のための給料ではなく、あなただけの給料として認識しているのと同じです。
そんなあなただけの給料や 自分の中での「やりがい」の気持ちに満足して、実際の社会のことを考えないのなら、それはやっぱり社会のためでもなんでもなく、自己満足の仕事でしかないのです。
市場経済において、価格とはテストの点数です。
どんなに「大事、大事」と口で言っていても、実際につける評価の点数が低いのならば、それは口だけなのです。
社会のことだから、社会のみんなで。あなただけではなく。
社会に貢献するという価値ある仕事をしておきながら、そのお金を会社や社会から求めないということは、例えて言うなら「困窮する人の福祉のための赤い羽根募金をお願いしまーす」という募金活動の真横で、「困った人の福祉活動を支援するのはやりがいがあることだから、私は私財を全部投げ打つことにしました!ですから、皆さんからの募金は必要ありません」と叫んでいるのと同じようなものです。
いいことなのかもしれません。でも、実質上はそんなのただの募金活動の妨害行為に他なりません。
あなたが犠牲になればいいものではありません。
そんなものあなたの心身も続きませんし、誰も続きません。
そうではなくてみんなで助け合うように誘導するのが大事なんです。
みんなに少しずつ力を分けあって出してもらうように要求することが大事なのです。
社会のことだから、社会のみんなで背負うことなんです。
それをあなただけで背負おうとするなら、重すぎるのは当たり前です。
あなただけで社会を背負えると考えるのは傲慢に他なりません。
あなたが支えきれなくて転ぶ時に、あなたが支えていた人や、あなたの周りの人も一緒に転んでしまうことさえあるのです。
どんなに意気込みが良くても、どんなに清い心でやっていたとしても、それはやっぱりただの困った人です。みんなの迷惑なんです。
ということで、最後に再掲。
僕が「やりがい」を対価として労働者を低賃金で働かせることを肯定できないと思うのは、それが真っ当な賃金で働きたいと思っている他の労働者を害することに繋がるからである。
私もそう思います。
P.S.
久々の労働テーマでした。
長いこと労働豊作貧乏シリーズ止まってますが、頭の中では全部話はできてるのですけれど、ただ、他の書きたいテーマがどんどこあって・・・(私自身驚いているのですが、ブログを始めて以来、ネタに困るどころかネタ切れになったことがなく・・・)。
近いうちに再開したいなーとは思ってはいますけれど。
待ってはる方いるのかなぁ・・・(汗)