「婚外子」相続格差違憲判決問題を考える
婚外子相続格差は違憲=「家族形態は多様化」―民法規定めぐり初判断・最高裁大法廷 (時事通信) - Yahoo!ニュース
昨日、「婚外子(非嫡出子)」と「夫婦の子(嫡出子)」の遺産相続分の格差を定めた民法の規定は違憲であるとの最高裁判決がなされました。
今までは「夫婦の子」が「婚外子」の2倍相続できていましたが、今後は差を付けず平等に分配するように求められたことになります。
このニュースを受けて、「ようやくか」「そりゃ違憲だよねー」と待望の違憲判決に安堵する声も聞こえる一方で、「そんなバカな」「違憲判決なんておかしい」といった違憲判決に疑問を呈する声も多く、まさに賛否両論といった様相です。
例えば、
そもそも、子供には自分が「婚外子」になるかどうかなんて選びようがないのだ。こういった生まれながらにして選べない地位に基づく必然性のない不平等な扱いをすることが、差別ではなくてなんなのだろう。
違憲判決賛成派としてはid:dennou_kurageさんが、上のように記事を書かれています。
そして一方、
理不尽なことにはちゃんと異議を唱えなければならない。なぜなら、男女間、家族間の情愛と制度は、“生活”に密着した重大事であり、決して“リベラルぶりたいだけの人”が「私ってススんでるぅ~イケてるぅ~」と自己満足するための道具ではないからだ。
上のような違憲判決反対派の記事も見られます。
あるいは、くらげさんも記事で触れられている通り、冒頭のヤフー記事のコメント欄などでは反対派の声をたっぷり見ることができます。
各の主張はどうあれ、この問題は私たちの人間観や社会観に密接にかかわるもので、ぜひ多くの人で考えるべき内容だと思います。
その意味では、これだけ議論になっているのは、とても良いことではないかなーと私は感じています。
さて、みなさんはどう考えられるでしょうか。
私も素人ながらに色々と考えたので、ちょっとその内容をまとめてみたいと思います。
最高裁判決の要旨
まず問題の最高裁の判決の要旨を見てみます。
論点となった民法の規定は第900条にあります。
そう言われると、「じゃあやっぱり違憲なんじゃないの」と思うところですが、話がややこしいのは、つい最近まで最高裁は「嫡出子と非嫡出子の扱いの差は合憲」と言っていたという事実です。
判決文によれば、
相続制度は,被相続人の財産を誰に,どのように承継させるかを定めるものであるが,相続制度を定めるに当たっては,それぞれの国の伝統,社会事情,国民感情なども考慮されなければならない。
さらに,現在の相続制度は,家族というものをどのように考えるかということと密接に関係しているのであって,その国における婚姻ないし親子関係に対する規律,国民の意識等を離れてこれを定めることはできない。
これらを総合的に考慮した上で,相続制度をどのように定めるかは,立法府の合理的な裁量判断に委ねられているものというべきである。
この事件で問われているのは,このようにして定められた相続制度全体のうち,本件規定により嫡出子と嫡出でない子との間で生ずる法定相続分に関する区別が,合理的理由のない差別的取扱いに当たるか否かということであり,立法府に与えられた上記のような裁量権を考慮しても,そのような区別をすることに合理的な根拠が認められない場合には,当該区別は,憲法14条1項に違反するものと解するのが相当である。
最高裁平成3年(ク)第143号同7年7月5日大法廷決定・民集49巻
7号1789頁(以下「平成7年大法廷決定」という。)は,本件規定を含む法定相続分の定めが,法定相続分のとおりに相続が行われなければならないことを定めたものではなく,遺言による相続分の指定等がない場合などにおいて補充的に機能する規定であることをも考慮事情とした上,前記2と同旨の判断基準の下で,嫡出でない子の法定相続分を嫡出子のそれの2分の1と定めた本件規定につき,「民法が法律婚主義を採用している以上,法定相続分は婚姻関係にある配偶者とその子を優遇してこれを定めるが,他方,非嫡出子にも一定の法定相続分を認めてその保護を図ったものである」とし,その定めが立法府に与えられた合理的な裁量判断の限
界を超えたものということはできないのであって,憲法14条1項に反するものとはいえないと判断した。
なんだそうで、つまり、簡単に言えば、
「相続の規定は『伝統や社会事情や国民感情や家族観』を加味して合憲かどうか考えるものなので昔は合憲としてたけど、最近はそのあたりの事情が変わったので、違憲としたよ」
ということのようです(判決の文章ってやたら長いですね・・・)。
確かに「平等」と一言で言っても、どのような状態を「平等」とするかは案外難しいもので、人によってその感覚というのは異なるものだと思います。
ですから、「法の下での平等な状態」というのはどういう状態を指すかというのは「国民みんなの価値観」に左右されるのも仕方がないところでしょう。
憲法がいくら「平等だよー」「差別してはいけないよー」と言っても、「じゃあ、どういう状態が平等なの?」「どういう扱いが差別なの?」というところを考えないとどうにも扱いにくいのですね。
完全に文面上で杓子定規に考えれば「所得が多い人に高い税率をかける法律」だって、「差別」になってしまいますし(実際、そう主張している方はいます)。
法律の文面だけでは判断できない、国民全体の価値観が問われている――そんな問題だからこそ、私たち一人一人が向き合わないといけない、そう思うのです。
実際の分配はどうなるの?
では、この判決を受けて実際には遺産分配はどのように変わるのかを見てみます。
下のような家系を例にしてみましょう(産経新聞の記事の例を参考にしました)。
お父さんが二人のお母さん(Aさん、Bさん)と子をもうけていますが、婚姻届を出している法律上の夫婦はAさんととなっています。Aさんとの間には子が2人いて、これが嫡出子になります。Bさんとの間には子が1人いて、これが非嫡出子(婚外子)になります。
さて、そんな中お父さんが遺産3000万円を残して他界してしまいます。
遺産の分配はまず正妻たる配偶者のAさんに半分の1500万円が渡ります。ここは共通です。
しかし、3人の子どもたちに対する残りの1500万円の分配の仕方が、違憲判決を機に変わってしまうことになります(正確には民法改正後からですが)。
今までは非嫡出子の配分は嫡出子の半分でしたので、嫡出子がそれぞれ600万円、非嫡出子が300万円でした。
それが、これからは嫡出子と非嫡出子の配分を等しくするので、子はみんな500万円です。
この変化をどう考えるか、それが私たちに与えられた課題です。
誤解されやすい点
さて、私なりにこの問題に対する色々なコメントを見ていたところ、さすがにそれは誤解じゃないかなーと思えるポイントがいくつか見られました。
より正確に私たちがこの問題に向き合うために大事なところと思うので、ここで少しまとめてみます。
①違憲判決後も違憲判決前も母Bは遺産はもらえない
「正妻と愛人を対等に考えるなんておかしい!」という意見がいくらか見られますが、上の民法900条をご覧になれば分かる通り、遺産分配においては、愛人などにあたる母Bは今までもこれからも遺産はもらうことはできません。上の例では実に1500万円も獲得金額が違うのですから、実際には対等には程遠いと言えます。
今回の判決は「正妻と愛人を対等に扱う判決」ではなくて「正妻の子と、愛人の子を対等に扱う判決」です。
②違憲判決後も違憲判決前も母Aの取り分は変わらない
上のとも似た点ですが、「平等になったら正妻がかわいそう」と言っても、正妻である母Aの配分は今までもこれからも半分(1500万円)のまま変わりません。正妻個人でみれば、直接的には損は生じていないのです。
今回の判決で直接的な不利益を被るのは、嫡出子たちであって、正妻ではないことは勘違いしないよう、一応押さえるべき点と思います。
③子と言っても、多くの場合はよいお歳
子と書いてあると、ついついいたいけな少年少女を思い浮かべがちですが、長寿国になった現代日本では、実際のところ「子」といっても中年以降の良いお歳の方々です。「子」ではあっても「子ども」とは限らないのです。
今回の判決の主役であった婚外子の方も40代の女性とのことです。
ですから、多くは成人し自立した「子」への遺産分配で、一般的には「子」たちは遺産に頼らずとも自身で生活を営んでいると考えられます。「子どもたちの今後の成長を考えると正妻の子に多く渡すべきなのでは」といった意見は少しばかり実態とかけはなれていると言えるでしょう。
もちろん、少数は子が幼少期のうちに父親が亡くなるケースもあるのでしょうけれど、主なパターンではないとして、「かわいそう」と飛びつかず、冷静に考えないといけないと思います。
④今まででも非嫡出子は遺産をもらっていた
「こんな判決を出したら、強引に非嫡出子を名乗る不貞な輩が増える!」という意見も多く見られます。しかし、そのように遺産を狙う悪い人たちが居るとすれば、今まででも非嫡出子にも遺産分配はあったのですから、今まででも既に居ると考えるのが妥当なところでしょう。
とすると、それは「今に始まった問題ではない」とも言えるのではないでしょうか。
もちろん、今回の判決により配分が2倍になるとなれば、より悪人が増えやすい可能性は考えられるでしょう。
しかし、そのような非嫡出子を悪用して遺産を狙うのであれば、正妻との間に子どもがいない富豪を狙う方が、今まででも十分フルに「子」としての分配権利を要求できますし、しかも「嫡出子」という血気盛んな敵も少なくてすみますよね。
そう考えると、非嫡出子の権利が嫡出子と同等になったからといって、必ずしも旨みも2倍になったわけではないでしょう。少なくとも「今までもらえてなかったものがもらえるようになった」ほどのインパクトは無いのですし、その悪用の影響ばかり考えるのも少し偏っているのではないかと私は思います(もちろん、悪用は絶対に許してはなりませんが)。
⑤非正規の母は必ずしも愛人ではない
上でも少し挙げましたが、「正妻がー、愛人がー」というように母Bを愛人として扱って意見を主張されている方が少なからずいます。もちろん、愛人との子というケースも多いでしょうし、本記事でも説明の便宜上「愛人の子」という表現をしている部分があります。しかし、実は、母Bは正規の婚姻関係でないとしても必ずしも「愛人」のような「不貞」の関係とは限りません。
例えば、父親と婚約をしていたけれど、父親から一方的に婚約を破棄されてしまった。しかし、婚前にすでに身ごもってしまっていて、中絶することなく出産を選んだ母が母Bになる場合もあるわけです。この場合は全然不貞の関係ではないですし、むしろその立場に同情の念さえ呼び起こすものです。
ですから、母Bを「愛人のくせにー」などのように一括りにして、この問題を扱ってしまうのはやはり問題があるでしょう。
なお、この場合に「何故婚前交渉したのか」「何故中絶しないんだ」などの主張も当然ありえるとは思うのです。ただ、それこそ昨今の事情から見れば「婚前交渉」はもはや一般的な事象で無視できない流れでしょう。
また、「中絶の可否」に関しても、アメリカなどでは国を2分する一大テーマであることから分かる通り、思想的・宗教的見地から「中絶するのが当たり前」などとは到底言い難いものです。それに中絶するにしても実際に母体にもダメージがあるわけです。これらのことを踏まえれば、それを簡単に「中絶するのが当たり前」とはとても言いがたいものです。
考えるポイントは「家」か「個人」か
以上の背景を踏まえつつ、私が感じた違憲判決賛成派の意見と反対派の意見の価値観の違いは、「家を重視しているか個人を重視しているか」でした。
もちろん細かいところでは、同じ派閥の中でも意見は違うでしょうけれど、大きなポイントはそこにありそうです。
このポイントを押さえるとグッと、考えやすくなると思うので、勝手ながら私なりにこの違いをまとめてみます。
■違憲判決反対派――「家」で考える派
まず、違憲判決反対派の考え方です。
つまり、嫡出子(正式な夫婦の子)は非嫡出子(婚外子)より多くもらうべきという派閥です。
おそらく反対派の方々は「家」を単位としてこの問題を見つめる傾向があります。
つまり、「父及び母Aの居るA家」と「母Bの居るB家」と大きく2分割して分配を考えるのです。「父と母Aと嫡出子」というグループと「母Bと非嫡出子」というグループがそれぞれ不可分な関係として、そこに在ると見ます。
正式な夫婦関係を核に築かれた「A家」こそ「正規の家」で、不倫など――もちろんいたしかたない理由の場合もあるでしょうが――非正規の手続きで構成されている「B家」は「非正規な家」であるとしています。
こう考えると、彼らが今回の判決に反対する理由も分かります。
嫡出子の配分が減って、非嫡出子の配分が増えるということは、すなわち「A家」という「正規の家」の配分が減って、「B家」という「非正規の家」の配分が増えることになるからです。
たとえ、「母A」の分配は減らないし「母B」の分配は増えない、と言われても納得できないのは、「非嫡出子のお金」は「母B」にもつながるし、「嫡出子のお金」は「母A」への評価でもある、そう考えるからなのでしょう。
過激な人は、今まで「B家」に与えていた「300万円」だって、恩情であげていたのに、ワガママにも更に要求するなんて許せない、そんな輩に300万円すら与える必要はない、そう主張します。
それも「正式なA家」「不正なB家」という括りであれば、十分ありえる主張になるのです。
■違憲判決賛成派――「個人」で考える派
一方、違憲判決賛成派はどうでしょうか。
嫡出子(正式な夫婦の子)も、非嫡出子(婚外子)も、遺産分配は同等にするべきという派閥です。
おそらく賛成派の方々は、「個人」を単位としてこの問題を見つめています。
「母」なら母1人1人を、「子」なら子1人1人を比較して分配を考えるのです。
「母Aと嫡出子」をセットにしたり、「母Bと非嫡出子」をセットにしたりせず、あくまで1人1人で見つめるのです。各々の個人の責任の範囲で考えるのです。
まず、母同士ですが、賛成派も正式な法律婚をした「母A」はやはり「正妻」で、「母B」は「非正規な母」と区別して扱います。この区別の裏付けとなるのは、「母A」は亡くなった「父」が正式に相互同意の婚約を結べたけれど、「母B」は「父」の同意を得られなかったという事実です。
例えば、私たちがある商品を「A店」で買うか「B店」で買うか、比較して「A店」で買うことに同意して「A店」と契約した場合、「A店」の契約が優先されて、「B店」は「うちで買え」と私たちを強制することはできませんよね。一方で契約しちゃったのですから「A店」は「うちで買え」と強制することができます。それは私たちの自由意思が「A店を選んだから」、扱いの差が出るわけです。
ですから、同様に、自由意思のもと、「父」と「結婚」という「契約」を結んだ「母A」は「母B」より優先されます。その結果、母Aは遺産をもらえるし、母Bは遺産をもらえない、ということになります。
これは、個人は自由意思をもっているのだから、それで決めたことには効力や責任が発生するし、自由意思を無視したものは効力が発生しない、という自由な個人主義が背景にあります。これが「個人」を単位とした考え方です。
さて、問題は子です。
「嫡出子」と「非嫡出子」を比べた場合、どうなるでしょうか。
あくまで「母」とのつながりなく個人同士で見た場合、「子」の間の差は無いことになります。
確かに「嫡出子」は「正規の夫婦」の下に生まれています。しかしそれは、「父」や「母A」あるいは「子」が自由意思のもとで「この子を産む」と選択したわけではなく、たまたま偶然に「正規の夫婦」の下に生まれただけです。
非嫡出子も同様に、自由意思の及ばない、偶然というか運命というか、そのような「自ら決めることができない力」によって、たまたま「母B」の下に生まれただけです。
だから、嫡出子に生まれるのも、非嫡出子に生まれるのも、偶然であって、その子の責任ではないのだから、そこに差を設けるのはおかしい、そうなるわけです。
そもそも、子供には自分が「婚外子」になるかどうかなんて選びようがないのだ。こういった生まれながらにして選べない地位に基づく必然性のない不平等な扱いをすることが、差別ではなくてなんなのだろう。
再掲ですが、くらげさんが主張しているのも、この「運命」には「責任」はないというところになります。
まとめますと、親世代は親同士、子世代は子同士で、それぞれに「責任」があるかないか、そこを比較すると、当然「嫡出子」と「非嫡出子」の格差は認めるべきではない、正規な夫婦かどうかでの扱いの差は「母同士の比較」で既に精算されている、そう見るのが賛成派ということになります。
家と個人の狭間で
さて、皆さんはいかがでしょうか、「家」派に近いでしょうか、「個人」派に近いでしょうか、それともどちらとも似つかない全然違うイメージでしょうか。
これは、多分、どちらが絶対に正しいとか、間違っているという問題ではありません。
考え方、価値観は人それぞれ、そんなテーマだと思います。
しかし、実際にその考え方で、国民全体の価値観で、憲法判断も変わりうる――そんな大事な問題です。だからこそ、私たちの中でじっくりこのイメージに向き合わないといけないのだと思います。
じゃあ、そう言ってる私自身は、と言えば、薄々お気づきかとは思いますが、「違憲判決賛成派」になります。
理由はいくつかあります。
上の判決賛成派と同様に、非嫡出子として生まれたことに、本人の責任は無い、という「個人」の単位を重視したいという点がまず一つあります。
次に、憲法では「家」同士の平等は謳っていない、むしろ他の項でも「華族」などを否定しているので、憲法の背景の精神からすれば、やっぱり「個人」単位よりの解釈が適切かなという印象があるという点。
やっぱりあくまで民法であっても憲法が許す範囲で効力を発揮するという原則からすれば、「個人主義」が憲法の背景にうかがわれる以上は、困ったときはそちらを優先するのが妥当かなと思います。それも法の番人の最高裁が判決を下したのであれば、「憲法はそういうものであった」として、その判断は尊重するべきでしょう。
もし、国民の価値観としてそれを許せないのであれば、国民審査や、国会議員を通じた憲法改正を目指すのが筋なのかなと思います。
また、実際上は、嫡出子と非嫡出子の分配を平等にしても、一旦「母A」が多くもらうため、月日が経って「母A」が亡くなった時には、その遺産が「嫡出子たち」にのみ分配されるので、結果的には嫡出子の方がやっぱり有利な点。
などです。
もちろん、これが絶対とも思えませんし、私の価値観でしかありません。
それに、やはりこのような「個人」単位の考え方にも課題があります。
例えば、
親子の絆は、おそらく生物学的に遺伝子に刻み込まれているので、私たちが家族を大事にすることは止められません。だから「家」という形態を無視して分解して「個人」単位で考えるという行為は、私たちの自然な状態に反している可能性があります。
つまり、ある意味で私たちは「親類をヒイキし、他を冷遇する」という「差別する動物」なのですから、いくら合理的といっても「平等平等」と言い続けていいのかどうか悩ましいところと言えます。
また、完全に「個人」単位で考えるなら、そもそも「相続」という制度自体がおかしいことになります。だって、別に「その両親」を選んで生まれたわけではないのですから、「その遺産」を継ぐ権利が「子」にないはずなのです。
「相続」という形態を認める時点で、それは既に「個人」単位ではなく「親子関係」という「家」の形態を認めています。
「個人」単位を究極に突き詰めれば、子どもは生まれた途端に親から引き離されて、平等に育てられなくてはいけなくなるのです。
それはさすがに、ちょっと・・・ですよね。
となると、じゃあどれぐらいの「家」単位の考えを認めて、どれぐらいの「個人」単位の考えを認めるのか、繊細なバランス感覚が要求され、意外と答えられない問題になってきます。
そして、実際上、介護の問題あるいは生活保護などなど、扶養義務という縛りによって、成人以後も「血のつながり」は外せないのも実情です。
もし今回のように「個人」を単位とした司法判断をするのであれば、そのような他の「家」に関連した法律を考えなおしたり、様々な社会保障制度のあり方も考えないといけなくなります。
そうすると、全ては有機的につながっているので、問題はどんどんややこしく、複雑になっていってしまいます。
・・・そう、結局、私たちはやっぱり「個人」でもあるし「家族の一員」でもあります。
どっちかだけを選ぶことは難しいのです。
そして、どの程度のバランスにするのかは、さらに難しいです。
でも、難しいからと言って、目を背けるわけにはいきません。
私たちの考え方が一つ一つ集まって、国民全体の価値観となって、法の扱いをも動かすのです。
私たちには責任があります。
この問題を考える責任があります。
だから、難しいですが、考えましょう。
「家」と「個人」の狭間で揺れ続けましょう。
「差別」とは何か向きあいましょう。
それが今後の私たちの社会を決める、振動なのです、熱になるのです。
P.S.
ということで、素人にもかかわらず、無理矢理まとめてみました。
おもいっきり勘違いしてそうなとことかありそうで、心配です。
もし何かありましたら、教えてください(^_^;)