「辛いこと」を美化するという甘え
これらの記事で問題視されているように、世の中には「辛いこと」を美化する人たちがいます。
私もこういう人たちが嫌いです。
とはいえ、辛いことを耐えること自体や、辛いことに愚痴を言ったり、それを美化するところまでは一応許せます。それは確かに、その人の自由の範疇だからです。
でも許せないのはこういう人たちが得てして言いがちなセリフです。
それは、辛いことを避けようとする人に対して投げかける、
「楽をしようとするな」
「甘えるな」
――こんな言葉です。
このように言われて、辛いことや、しんどいことを耐えるように強要された経験は、誰しもひとつやふたつはあるのではないでしょうか。
何かを強要する時点で自由の侵害なので許せないというのももちろんですが、私からすれば「辛いこと」を美化している人たちも十分、楽をしているし、甘えているので、そのように言う資格は無いと思うからです。
といっても、おそらく「彼らが楽をしていること」についてはあまり知られていないところと思いますので、今日はそれをテーマにボーッと考えていきましょう。
*「辛いこと」が辛い理由
美化されがちな「辛いこと」にどういうものがあるかといえば、例えばid:keisuke9498さんの言う「辛い練習」「過酷な練習」やid:dennou_kurageさんの言う「死ぬほど働くこと」があります。
これらがなぜ辛いかといえば、まず身体的な苦痛があります。
過酷な練習は直接肉体を痛めつけますし、過労も仮に直接的に肉体を痛めつけないような知的労働であっても長時間働けば全身疲れますし、さらに寝不足によってその疲労を回復できなくしています。とてもしんどいですよね。
しかし、そもそもこのような「しんどい」という感情がなぜ私たちの中に生じてくるかといえば、「これは良くない状態だから、避けなさい」と私たちの身体が私たちの心に向けてサインを送ってくるからです。
通常、このサインを受けとれれば、身体はすみやかにその苦痛から避けようとしますが、すぐに避けられない場合、その「しんどい」サインを受け続けることで、今度は身体だけではなく心の方も「しんどく」なってきます。
これが「辛いこと」が辛いもう一つの理由、精神的苦痛です。
・・・と、難しげに言いましたけれど、まあ当たり前の話ですよね。
ただ、問題はこの精神的苦痛を感じた後に取る行動なんです。
*考えることは辛いこと
歴史上、人類はこの精神的苦痛に直面した時、今までの動物と違って、「考える」ことをしてきました。
「どうしたらみんなが苦しまずにすむか」
「もっと良い方法はないか」
と、このように「考えること」によって精神的苦痛と闘ってきました。
この結果、様々な技術や制度などが発達し、今の私たちの快適な暮らしが築かれています。このことにはあまり異論はないでしょう。
しかし、「考えること」はすなわち「精神的苦痛を真正面から受け止めること」でもあります。これはとても非常に辛いことであったはずです。
これがどういう「辛さ」かは、みなさんが「悩む」時を思い出していただければと思います。
私たちが悩むのは「理想と現実が乖離している時」です。自分の理想の状態に、自分の現実の状態が届いていないときに、思い悩み苦しむのです。こんな時は、ほんとにしんどくて、逃げ出したくなりますよね。
でも、先人たちがここで逃げずに考え悩んで苦しんだからこそ、私たちの文明の進歩があったのです。
私たちはこのことを忘れてはいけません。
そう、考えることは辛いことなのです。
*考えないことは楽なこと
「考えることは辛いことだ」というのは、何も私だけが言っていることではありません。
例えば、仏教の教えは無我の境地――つまり「考えないこと」で心の安寧を得る教えです。有名な四苦「生老病死」などに苦しまずにすむために、何かにこだわるという「執着」・「煩悩」あるいは「理想」、そして「我」を捨てる道です(ものすごーくざっくり言えばですが)。
つまり、「理想」のために考えるなどという行為が精神的苦痛の原因と私たちに教えています。
さらに言えば、キリスト教やイスラム教などの神教も同様に、神様が世界を管理しているのだから思い悩まずとも教えを守り善く生きれば神様がちゃんと「苦痛」から救ってくれる、とすることで、結果として「考えること」すなわち精神的苦痛から解放されるシステムと言えます(あくまで私のような科学教徒からの視点ですが)。
考えることは辛いこと、そして同時に、考えないことは楽なことなのです。
*「辛いこと」を美化する人は考えてない
さて、じゃあ本題の「辛いこと」を美化する人たちは、どうかと言いますと。
彼らは「理想と現実が乖離している」という精神的苦痛から逃げるために、無理矢理「この辛い現実こそ理想の状態だ」としていると言えます。
つまり、現実を理想に合わせにいくのではなく、理想を現実に合わせにいくという発想です。こうすることで「理想と現実が乖離している」という苦悩から逃れられるのです。
そうすれば、理想と現実が一致するので、「考える」という「辛いこと」から逃れられます。逆に言えば、「考えない」という「楽なこと」に走っているのです。
ですから、「辛いこと」を美化する人たちが「辛いこと」から逃れようとする人に対して「お前は楽をしている」とか「甘えている」と言うのは、「考える」という「辛いこと」から逃げている人が、「考える」という「辛いこと」に向き合っている人に「お前は楽をしている」「甘えている」と言うようなものです。
私からすれば、それなのに何でそんなに偉そうなのか分かりません。
*「苦行」という煩悩
なお、彼ら「辛いこと」を美化する人たちの「考えない」は、仏教で言う「考えない」とは別次元のものです。
仏教は「理想」そのものを消し去ってしまいますが、彼ら「辛いこと」を美化する人たちは、その「辛いこと」を理想に掲げているからです。つまり、結局「辛いこと」ということに「煩悩」や「執着」を依然として持っています。
実際、ブッダも「苦行」に対しては非常に懐疑的であったことが知られています。一時期ブッダは「苦行」に身を費やしていますが、「結局はこれも執着であり、こんなものに意味は無い」としてやめてしまっています。
そもそも、仏教もキリスト教もイスラム教も、最終的には苦悩を除くことを趣旨にしていますから、「辛いこと」を美化するという考え方は、各主要宗教から見ても異質な考え方と言えます。
*「辛いこと」を美化して、進歩を語るな
それでも百歩譲って、「辛いこと」を美化することで精神的苦痛から解放されようという趣旨の宗教と考えることはできるかもしれません(苦行教?)。
「辛いこと」を美化することで「辛いこと」から逃れようとしている、という矛盾が思いっきりありますが、身体的苦痛と精神的苦痛という違いが無くはないので、一応形としては成立しているとも言えそうです。
でも、同時に彼らはこうも言うのです。
「辛いことに耐えることで、人は成長する、進歩する」と。
気をつけて下さい、彼らの言う「辛いこと」とは身体的苦痛です。
「考える」という精神的苦痛からは逃げているんです。
「考える」という行為でこそ、人類が進歩してきたのに、「考える」という行為から逃げておきながら彼らはその同じ口で「進歩」を語るのです。
私は進歩を重んずる科学教徒なので、非常にこのことには腹が立ちます。
だから、言ってあげます。
「楽をしようとするな」
「甘えるな」
お返しです。
*結局、偉そうにしたいだけなんじゃないの?
「どうしたらみんなが苦しまずにすむか」
「もっと良い方法はないか」
科学も宗教も、形は違えど、結局は人々の幸せを追求するものです。
科学は進歩をとることで、世俗的な生活のまま、人の苦悩を取り除くことを図ります。
宗教は進歩をとりませんが、教義に沿った善い生活を勧めることで人の苦悩を取り除きます。
私はあくまで科学教徒なので考え方が根本では違うとはいえ、各宗教の教えはやはり心に響くものがあり、素晴らしいと思いますし、尊重したいと思わせます。
でも、「苦行教徒」は進歩もしないのに進歩を主張し、同時にその「教義」に沿った生活を押し付けます。そして、あくまで「苦行教」ですから、肝心の「苦悩」も基本的にはあんまり取り除けません。しかも、その上でなぜか偉そうに他人にもその教えを強要してきます。
私からすれば、結局のところ、人々の幸せとか進歩とかどうでもよくて、自分が偉いと思いたいだけなんじゃないかと思います。
だから、私は嫌いです。
せめてやるなら、勝手にやって下さい。
そう思います。
P.S.
なお、「考える」という辛いことをしているから、科学が偉いとかそういうことはありません。なぜなら、辛いことをするのは別に偉いことではないからです。
だから、「彼らは考えてない」として、各宗教をなじるような科学教徒は、たとえ同教の徒としても、私は嫌いです。
今回、「苦行教徒」を「辛いことしてないじゃん」「考えてないじゃん」と責めるのは、彼らから先に「辛いことは素晴らしい」と偉そうに言っているからそのロジックを利用しただけで、決して「辛いことが偉い」「考えることが偉い」と思っているわけではないことは、一応誤解の無いように明記しておきます。
私は「無意味に偉そうにする人」には「偉そうに」返すポリシーです。あしからず。