ライフハックならぬソウルハックのススメ
色々なところでお目にかかるお役立ち情報満載のライフハック記事の数々。
いつもお世話になっておりますm(_ _)m
で、今回私は、その感謝の気持ちを表する意味もこめて、ライフハックとちょっと違った視点のソウルハック記事というものを書いてみようと思います。
ここで言うソウルとはもちろん韓国の首都ではなくて、「魂」のことです(「霊」でも「霊魂」でも良いですけれど)。
ということで、今日は「魂」をテーマに、一緒にボーッと考えていきましょう。
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「魂」とか「霊」とか聞くと、「なんか宗教くさい」とか「そんな非科学的な」というように顔をしかめる方が多いかもしれません。
オカルトな漫画や映画の中でも、「そんな馬鹿げた話があるか」などと一笑に付すように扱われていることがほとんどです。
特に科学者風味のキャラクターが出てきたときは「ハッハッハ、科学技術の発達したこの21世紀に君は何を言っているのかね」と霊や魂の存在を否定するキャラとして扱われがちです。
実際問題、あまり「魂」の存在を信じている方は少ないと思われます。
しかし、(勝手に)科学教徒を自負している私が「魂の存在を信じる?」と聞かれたら、「絶対あるとは言えないけれど、ある方が可能性高いんじゃない」と答えます。
そして、むしろ魂の存在を簡単に否定する態度の方が非科学的態度であるとすら思います。なぜって、「現実に確かにある事実をまずは尊重すること」が科学的立場だからです。
その確かな事実とは何かを示したのが、有名なあの言葉です。
我思う故に我あり
―― デカルト
はい、私たちが今こうして何かを考えていることこそ、確かな事実です。
ここには異論がある方はおそらく少ないですよね(今、自分は何も考えてないし何も感じてないぞとお怒りの方はごめんなさい)。
で、これがどうして「魂」の存在の可能性につながるかと言えば、現代科学をもってしても何故私たちがこうやって「考えることができているのか」「感じることができているのか」分かっていないからです。
◆
私たちは思考が「脳」で行われていると理解しています。
しかし、脳の中をどんなに調べてみても、その中にはただ信号を受けて送るだけの神経細胞の山があるだけです。なぜそれで「思考」や「感覚」という現象が起きているのかさっぱり分からないのです。
⇩昔出した図
こう言うと、
え、そんなのそういう信号の伝達をうまい具合に複雑に組み合わせたら、「思考」や「感覚」が生まれる、ただそういう物理現象じゃないの?
と思われるかもしれません。
しかし、話はそう簡単ではないんです。
例えばあなたが大勢の人と一緒に手旗信号ゲームをすると思って下さい。
別に法則は何でもいいのですが(信号を送ってくる人たちが上げている旗が奇数だったら自分も旗を上げる、偶数だったら下げるなど)、単純な法則に従って数人の人たちから信号をもらって、また別の数人の人に信号を送るというゲームです。他の人も同様に行います。
で、そんな単純作業の旗の上げ下げをしていたら、しばらくして、
「はい、みなさんが信号の伝達をしてくれたおかげで、ついに『みんな』という存在が『考えること』や『感じること』を始めました!おめでとうございます!!パチパチパチ」
と、ゲーム成功の祝福のアナウンスが流れます。(笑)
この時、正直あなたは思うでしょう。
「いやいや、私はただ言われた通り旗を上げ下げしてただけなんですけど、そんなこと起きるはずが。ってか、『みんな』って誰よ?」
と。
でも、脳もこれと同じことです。
適当にあなたの脳細胞君を捕まえてみて、
「ねぇねぇ、みんなが集まって私の脳という組織になって、考えたり感じたりしてるんだよ、知ってる?」
って聞いてみて下さい。
きっと、脳細胞君は先ほどのあなたと同じように、
「いや、俺はただ信号を受けて送ってるだけなんだけど・・・。てか、『脳』って何?『私』って誰?俺たちが集まって何かもっと上の意識が生まれるなんてありえないよ。考えられないよ」
と言うことでしょう。
そう、一見ありえないことのように思えます。
ただの信号の流れの集まりが「考えること」や「感じること」を生じさせるなんて。
でも、こういうことが起きうることを私たちは信じざるを得ないのです。
だって、私たちが今まさに考えてるし感じているのですから・・・。
果たしてこれを、「魂」と呼ばずして何と呼ぶのでしょうか?
※この話は、クオリア問題として有名な話で、本当はもっともっと複雑な議論があるようなのですけれど、ひとまず単純なところをご紹介しました。少なくとも信号を送るだけという物理現象から何故「思考」や「感覚」が生まれるのかの定説が無いというのは間違いの無いところですので。
(参考:wikipedia「クオリア」、「実体二元論」、「自然主義的二元論」)
◆
脳細胞のような単純な信号伝達メンバーが集まって回路のようなものを作ると、そのメンバーの意思にかかわらず、全体として、私たちが今こうして考えたり感じたりするそんな「魂」とも呼べるものが出現する。
とりあえず、原理は分からないまでも現実にこういうことが起きているということを踏まえて世の中をみてみると、色々なことに気づくと思います。
例えば、猫や犬のような動物だって「魂」を持っているかもしれません。
まあ、これは生物ですし、脳を持ってますから、受け入れやすいですよね(かわいいですしね・・・)。
さらに例えば、草木や細菌だって「魂」を持っているかもしれません。
「いや、この子らには脳無いじゃない」と思うかもしれませんが、そもそも脳細胞だってやってることは原子の中の電子の受け渡しでしかありません。なにせ「魂」が生じる原理が分からない以上、同じように原子や分子をやり取りしながら生きている草木や細菌に「魂」が無いとは言い切れないのです。
またまた例えば、コンピューターや携帯電話にだって「魂」があるかもしれません。
「いや、これらは生物ですらないじゃない」と思うかもしれませんが、コンピューターは御存知の通り電気信号の伝達回路でできています。「脳と何が違うの?」と言われると、けっこう難しいところと思います。
もっともっと例えばの話、川や風にだって「魂」があるかもしれません。
「いや、もうこいつら信号すら伝達してないじゃない」と思うかもしれませんが、水や空気が循環しているという意味では、大きくみれば回路です。とても伝達がゆっくりで規模がおおげさな回路なだけかもしれませんよね?
だから、本当に「魂」がありえないかといえば・・・わかりませんよね?
私たちが「ミリ秒単位」で考えるのと違って、川や風は「年単位」いえ「百年千年単位」で何かを考えている可能性は否定できないのです。
◆
ここまでくると、さすがに「動物はまだしも、植物や無生物、自然現象なんて、意見を主張したり、痛いとか言ったりしないじゃない。それで意思があるなんて言っていいの?」と怒られるかもしれません。
でも、彼らが意思を主張できないからといって、彼らに意思が無いとは限りません。
私たちがそれを感じ取れていないだけの可能性は十分あるのです。
みなさんは昔あった「1リットルの涙」というドラマご存知でしょうか(「wiki:1リットルの涙」)。
有名な(悪名高い?)沢尻エリカさん主演の、神経の難病に侵される少女の物語でした。
この神経の難病というのが、徐々に身体の運動機能を失っていく、つまり筋肉を動かせなくなっていくという非常に恐ろしい病気です。
徐々に身体が動かせなくなっていくという恐怖と闘う少女の姿が、全国の涙を誘った名ドラマでした。
さて、このような神経の病気を考えた時、実は私たちの意思というのは決して筋肉を使わずには他人に主張や伝達ができないことが分かります。
例えば、コミュニケーションの代表格の「話す」「書く」。これらはもちろん口や手の筋肉を使っていますよね。
そして、いわゆる身振り手振りのジェスチャーやボディランゲージも当然筋肉を使います。
さらに視線の動きや瞬きでさえ、筋肉を使っています。
そう、私たちは筋肉という運動器を使わないと意思を一切表明出来ない仕組みになっているのです。
しかし、先ほどのドラマの主人公もそうですが、意思を表明出来ないからと言って、その「意思」や「魂」が存在しないということにはなりません。
彼女の筋肉が動かせなくなってきたから、彼女の意識はなくなったと思う方はいませんよね?(むしろ、意識がはっきりしたまま、そのような意思表示ができなくなっていくことが、この病気の恐ろしくそして辛く、悲しいところと言えます)
あるいは別の方では、宇宙論で有名なホーキング博士も、神経の難病で筋肉が自由に動かせない方ですが、そんな状態にあっても世界でも類まれな高度な知性を発揮し、「魂」の存在を証明しています(wiki:「ホーキング博士」)。
これらのことを考えれば「意思を表明してない」からといって「意思が無いことにはならない」のはお分かりいただけるかと思います。
つまり、
意思はあるのに、伝える手段がないだけかもしれません。
意思があるのに、伝えてないだけかもしれません。
あるいは、
意思があって、伝えているのに、私たちがそれに気づいてないだけかもしれないのです。
だから、植物や物や自然にだって、「魂」が宿っている可能性はあるのです。
・・・はい、何だか、動物や物や自然を大事にしたくなってきませんか?(笑)
◆
で、ようやく、ここからが本題のソウルハックになります(・・・長すぎる前置きですね;;)。
さて、今まで色々と「魂」についてお話をしてきましたが、もちろん今までのはぜーんぶ仮説です。
「魂」が無い証拠も無い代わりに、「魂」があるという証拠もまた無いからです。
だから、「そもそも『魂』があろうとなかろうと、その『意思』とやらが私たちに感じ取れないんなら、もうどっちでもいいじゃない、どうでもいいじゃない」という考えも出ることでしょう。
はい、ごもっともだと思います。
ですが、どっちでもいいなら、「魂がある」の方を考えてみてもいいわけですよね。
そして、あえて「魂がある」と考えることで――私たちはちょっとすごいことができるかもしれないのです。
先ほど、手旗信号ゲームの例を出しました。
私たちが誰かから信号をもらって、信号を送るゲームでしたね。
そんな単純なゲームで、「みんな」という「魂」が出現しうるという話でした。
で、以前私はこのブログで、私たちは一人一人が社会の中で意見を聞いて、考えて、伝えることで、社会全体が脳が集まった大きな脳のようなものになれるという話をしました(なぜ私たちは自分の意見を主張するべきなのか - 雪見、月見、花見。)。
⇩図再掲
ということはですよ。
「社会」だって「魂」を持っていてもおかしくないんです。
脳細胞が集まって脳になった時、電気信号を介して「私たち」のように「魂」が生じるなら、私たちの脳が集まって社会になったら、意見という信号を介して「社会」が「魂」を持っていても不思議ではありません。
一見、不思議な話ではありますが、でも「社会」が何かを考えて、何かを感じていてもおかしくないのです。
問題は「社会」が何を考え、何を感じているかです。
考えてみて下さい。
「社会」が意思を表明するとしたら、どうするでしょう?
例えば、人は筋肉を動かして、意思を表明するのでした。
だから、社会はきっと――そう、人を動かして意思を表明しているに違いありません。他に社会が動かせるものはないのですから。
つまり、私たちの行動ひとつひとつが「社会」の意思表示と言えるのです。
私たち一人一人の一挙一動が、「社会」が全体として何を考え、何を感じているかの表れなんです。
で、ここで私は思ったんです。
では、私たちの行動が変われば、社会の「魂」も変わるのではないか?
と。
逆転の発想ですね。
例えば、痴漢や万引き犯がどんなに「これは俺がやったんじゃない、この手が勝手にやったんだ!」と言っても、あくまで「彼の意思」でやったことになるように、部分の行動が全体の意思とみなされることは別に不思議ではありません。
私たちは十分に社会の意思の代表なんです。
だから。
私たちが変わるんです。
自分がまず変わるんです。
ただ、それだけでいいんです。
ただ、それだけで、社会は変わります。
思い通りの社会をめざして、そんな理想に沿って私たちが動けば、その理想に向かって、社会の魂も変わるのです。
私たちにはその能力があるのです。その権利があるのです。そんな立場にいるのです。
つまりは、そう、私たちの「魂」で、社会の「魂」を乗っ取りにかかるんです。
これが、ソウルハックです。
想像してみて下さい。
この大掛かりな「魂」の乗っ取り計画。
ちょっとワクワクしませんか♪
◆
はい。
いかがだったでしょうか。
前代未聞のソウルハック記事。。。
ちなみに、この結論は以前書いた記事ともすごく似ています。(THE WORLD IS MINE - 雪見、月見、花見。)
この時は「one as all, all as one」と称して、「一人は全体かのように振舞いなさい」というお話をしましたが、まさに、そういうことなんです。
私たちは確かに一人一人で生きています。
ですから、まずは「自分として」生きることが先に立つのは当然です。
ですけど、やっぱり社会の一員でもあるんです。
「自分」vs「社会」なのではなくて、やっぱり「自分∈社会」なんです(∈は属するという記号です)。
そして、部分が全体に宿り、全体に部分が宿る、フラクタル構造なんです。
⇩フラクタル(再掲)
だから、「自分として」生きるとともに、「社会として」生きる意識も必要なのだと思います。
たとえそれが1億2000万人分の1だとしても、70億人分の1だとしても、それでもあなたはやっぱり社会でもあるのです。
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P.S.
色んなものに神様が宿ると考える、日本の八百万の神の信仰も、このように「魂」について考えると何となく分かる気がしますよね。
また、自分を無にすることで全体と一体化することを説く仏教も、個人より上位の大きな「魂」と一体化することを示すのだとすれば納得がいく話です。
さらに、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教などの一神教の、自分よりもっと上位の世界全体を司る「神様」という「魂」に個人生活の全てを預けるという考え方も、とてもフィットしますよね。
もしかすると、科学技術なんて発達していなくとも、脳の仕組みを解明しなくとも、クオリアの議論が白熱しなくとも、昔の人たちはとっくに「魂」の存在に気づいていたのかもしれないなぁと思います。