雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

どうして「罰」がいけないのか

 桜宮高校の体罰事件、AKB峯岸さん丸刈り騒動、女子柔道暴力事件など、「罰」をめぐる事件が最近多く見られます。

 

既に色々なところで話題や議論になっていますが、id:keisuke9498さんが昨日の記事でも言われているように、これを誰かを悪者にして「はい、おしまい」とせず、今こそみんなで「罰」についてしっかり考えるべき、そう思います。

だって、最近になってこんな「私刑」や「罰」が出てきたわけではなく、きっとずっとずっと長い間これらは私たちの社会に潜んでいたのですから。

 

というわけで、今日は、「罰」をテーマに、私なりにボーッと考えたことを書いてみます。

といっても、もう色んな方が色んなところで書かれているので、ここでは個別の事件についての考察は書きません。

 

もう少し根っこの部分「そもそも、罰がもたらすものは何か?」に焦点を当てて「どうして罰がいけないのか」をお示ししたいと思います。

 

 


*まず、「恐怖」について


「罰」について考えるにあたって、まず「恐怖」とは何かについて考えないといけません。

それは、「罰」は身体的苦痛によって人を統制するものというより、「罰」という存在に対する心理的な反応――「恐怖」によって人を縛るものだからです。

みなさんも幼少時代の頃など思い出していただければ、多分すぐ思い浮かぶと思いますが、「お菓子抜き!」などの具体的な「罰」よりも、般若のような形相のお母さんに「怒られる」かもしれないと考えるだけで辛かったし、怖かったですよね。

おそらくそれと同じで、桜宮高校では部活の先生が、AKBでは秋元さんが、女子柔道では園田監督が、みんな「怖かった」んだと思います。そして、「怖かった」から、従っていたんです。

 

 

では、なぜ「罰」があると怖いのでしょう。

そもそも、「罰」に限らず、「恐怖」はどういう時に起きるでしょう。

 

それは、「自分がどうなってしまうか分からない時」「相手が何をしでかすか分からない時」です。

つまり、自分にとって「予測不能、コントロール不能な状況」になることを人は恐れます。

 

例えば、誰しもが怖いものの代表例に「死」があります。

これは全く自分がどうなってしまうか分からない「未知の状況」だから怖いのだと言えます。

 

次に例えば、「お化け」は皆さんも怖いですよね。

これも何で怖いのかと言えば、自分の慣れ親しんだ物理法則を超えた存在で、次に何をしでかすか分からない「未知数の相手」だから怖いのです。

 

さらに例えば、「893さん」とか「チンピラさん」も怖いですよね。

これも、自分の慣れ親しんだ道徳とか法律観念を「無視してもおかしくない」存在で、次に何をしでかすか分からない「未知数の相手」だから怖いのです。

 

このように「恐怖」とは「未知数のもの」に対する人間の本能的な感情反応と言えます。

 

※とはいえ、これは人間に限ったものではありません。よく言う「動物が火を怖がる」というのも、「火」が動物の理解を超えていて彼らがコントロールできないものだからこそ「怖がる」のだろうと思われます。

※※また、そもそもなぜこんな「恐怖」という感情があるかといえば、それにも合理的な理由があります。元来、自然界は危険に満ち溢れています。そんな中で、知らない場所や知らない環境、知らない動物などに相対することはリスクです。できるなら、慣れ親しんで「安全」と思われる場所や相手だけを選んで行動するのが生きるために必要な感覚だったと思われます。その危険を察知するための信号が「恐怖」なのです。身体的な危険を察知するための信号である「痛み」とよく似ていますし、役割もほぼ表裏一体なのは、どちらも「危機回避」のための感覚だからでしょう。

 

 


*「罰」はなぜ怖い?


では、本命の「罰」さん。

これはなぜ怖いのでしょうか。

 

それは「罰」はほとんどの場合、その適応条件(罰のきっかけ)と、その量刑(罰の重さ)が事前には不明確であるからです。つまり、「いつ罰せられるか分からない」、「どんなひどい罰を受けるか分からない」――「罰」はそんな「未知数なもの」だから怖いのです。

これは特に冒頭の3事件で扱われるような「私刑」の時に顕著な特徴です。

 

彼ら「罰の執行者」は罰を事前に明文化なんてしません。

「こういう時には、こういう罰に処す」なんてわざわざ書きません。

「おい、お前最近たるんどるぞ!グラウンド10周!!」というように、彼らの気分1つ、気まぐれ1つ、胸先三寸で「罰」を決めてしまうのです。

 

時々、「◯◯できなかったものは、腕立て100回な」などと、事前にそれらしいことを決めることもありますが、それでさえ、「一応条件には達しているが、やはりまだまだ気合いが足りないようだ、腕立て100回!」とか、「おう、100回やったか、でもまだ元気がありそうだな、もう100回やっとけ」のように、その約束が守られる保証なんて全く無いのです。

 

そんなルールにない「罰」なんて拒否すればいいじゃないかと思われるかもしれません。

しかし、「罰」を拒否した時こそ、どんな怒りを買うか分かりません。何を言い出すか、何をしでかすか分かりません。それこそ未知数すぎて「恐怖」なのです。罰を受けることも恐怖なら、「罰」を拒否することはもっと恐怖なんです。

どちらも恐怖なら、「罰を受けた方」がまだマシかもしれないと思えるので、彼らは「罰」を受け続けるのです。

 

 

なお、いわゆるあからさまな体罰ではないAKBの騒動においても、「罰」の不明確さは浮かび上がっています。

例えば、いわゆる「恋愛禁止条例」に違反したメンバーの処遇が人によってまちまちであることは知られています(今回はなんと丸坊主でしたが・・・)。

このように量刑が気まぐれなのは、上で挙げた「私刑」の特徴そのままです。「どうなってしまうか分からない」ことにメンバーは恐怖を覚えるはずです。

 

また、そもそもの「恋愛禁止条例」の存在すらあやふやなんだそうです。秋元さんはこれだけの騒動が続いているにもかかわらず「恋愛禁止条例」なんて無いと言っているとか(AKBに「恋愛禁止令」なんてなかった? 秋元氏「僕は一度も言ってない」発言で波紋 : J-CASTニュース)。

恐ろしいことですが、「罰」の効果を発揮するには「罰」の存在を肯定することさえ必要ないのです。

それに、「恋愛禁止」と言ったってどこからが「恋愛」に当たるのかよくわかりませんよね。

一緒に食事したらダメなのか、一緒にお出かけしたらだめなのか、お泊りしたらダメなのか。

どこからひっかかるか分からないことで、「いつ罰せられるか分からない」とメンバーは恐怖を覚えてもおかしくはありません。

 

※なお、罰の規定をあまりにも明確にしすぎると、罰による抑制効果が失われることが知られています。ある保育園で迎えに来る保護者の遅刻が多いことから、遅刻に対して罰金(追加料金)を課すことにしたところ、かえって遅くまで預ける保護者が増えてしまったそうです。ルール違反をしたときの基準が明確になりすぎることで、「未知」の恐怖が消え、「割に合うか合わないか」というただの経済合理性の問題になってしまったからと考えられています。

 

 


*「罰」に対する反応


では、「罰」という「恐怖」に身を晒した時、人はどういう反応をするでしょうか。

 

練習に励むとか、恋愛しないようにするとか、支配者が求めていることを頑張ったり、「罰」に直接つながることを避けたりするのはもちろんですが、それだけではありません。

 

「罰」の効果が、「罰」から直接関係ない離れた事項にまで影響するのです。

 

例えば、支配者の機嫌を取るために、支配者におもねる行動をとる者が出はじめます。

ゴマをすったり、物を贈ったり・・・、本来からすれば練習に励み能力を向上するためでしかないはずの「罰」であったのが、もはや練習や能力と関係ない行動まで引き起こします。

しまいには、支配者側の役割に携わろうとする者まで出ます。支配者の悪口を言う者や、支配者の好まない行動を取った者を告げ口したり、その上、実際の「罰」の執行を担当したり、支配者側に回る者が出るのです。もちろん、これも支配者の機嫌を取り、自分の心証を良くするためですが、ここまで来ると、その「支配者側の役割」そのものに正義感や快感を覚えていることも少なくありません。

 

このような支配者におもねる行為を取る者の出現で、その支配はより強固に、そして些細な失敗も許されないように広くなってしまいます。

 

そして、彼らはいつしか「余計なこと」をしないようになります。「目立たない」ようにしようとします。

 

私たちがこわそうなお兄ちゃんと通りすがりに目線を合わせないようにするのと同じことです。彼らになにか「心のひっかかり」を作ってしまえば、「何をしでかすか分からない」「どんないちゃもんを付けられるか分からない」からです。

 

だから、余計なことをせず、みんなと同じように。みんなと違わないように。

 

個性を発揮するところといえば、支配者の指示通り練習に専念して能力を上げることか、あるいは支配者の覚えよろしくなることのどちらかだけになるのです。

 

「罰」はこのようにみんなが「余計なことをしない」状況をもたらします。

 

 


*「罰」が破壊する「人間らしさ」


「罰」がもたらす「みんなが余計なことをしなくなる」という状況。

これほど恐ろしいことはありません。

 

先ほど「恐怖」というのは「未知のもの」に相対した時に生じる感情と書きました。

しかし、実は人間にはもうひとつ「未知のもの」に相対した時に生じる大事な感情があります。

 

それは「好奇心」です。

 

「未知のもの」を見て、どんなものだろう、どういうところだろう、とあくまでそれと向き合っていく気持ち、それが「好奇心」です。

「恐怖」が「未知のもの」から逃げる気持ちであるとすれば、「好奇心」は向かっていく気持ちです。

正反対の感情です。でも、これが同時に起こるのが人間の人間らしいところなんです。(参考:「「いけいけ脳」と「まてまて脳」の秘密 - ICHIROYAのブログ」)

 

この両者の気持ちを抱えながら、そしてその中で、「恐怖」を乗り越え「好奇心」が打ち勝つことで人類は発展してきました。

 

数々の冒険、挑戦、発明、発見。

 

どれも「好奇心」の導きであったと同時に「恐怖」との戦いでもありました。

「恐怖」の信号が示す通り、実際に危険もあったでしょう。その挑戦の中で、夢半ばで失われた命も数多いはずです。

でも、私たちの文明はそんな先人たちの「好奇心」の積み重ねで発達してきたのです。彼らの「恐怖」との戦いの上に私たちは住んでいて、こうしてブログを書いたり読んだり、他にも色々な素敵なことができるようになったのです。

私たちはこのことを忘れてはいけません。

 

私たちは「好奇心」があるからこそ、人間なのです。

 

しかし、「罰」は、そんな大事な「好奇心」を破壊するものです。「人間らしさ」を壊すものなのです。

 

「罰」は先ほどのように人を「余計なことをしない存在」にします。ですが、この「余計なことをしようとする気持ち」こそ、「好奇心」に他なりません。

 

そして、この「好奇心」の無いところに進歩はありません。

 

例えば、練習中に「こういうメニューがあったらどうだろう」と思い浮かんだとします。でも、そこが「罰」によって「恐怖」によって支配された空間であったら、「余計なことを提案して生意気だと思われたら困る」と思って、それを引っ込めてしまうことは十分考えられます。

結果として、もっと優れた練習方法があったとしても、それに支配者が気づかなければ永遠に古い劣った方法のままになってしまうのです(参考:「厳しい体罰こそが最強のチームをつくる (アメリカの高校スポーツで問題となっていること) - ICHIROYAのブログ」)。

 

もちろん、支配者自身に、ものすごく先見の明があって、柔軟な頭があるならば、優れた方法に移っていくことは可能かもしれません。

しかし、支配者自身も過去の「好奇心破壊」を受けた人間である事が多く、そこまで柔軟な発想を出来る人は限られているのが実情と思います。

その証拠に旧態依然な「罰」のシステムも残しているのですから。

 

 


*「罰」はみんなに関係すること


さて、冒頭の3事件などを見ても、「あー、ひどいこともあるもんだねぇ」ぐらいで、自分たちとは遠い話のように思っている方もいるかもしれません。

ですが、そうではありません。

 

子どもたちを見てみて下さい。

彼らの「好奇心」は凄まじい限りです。彼らは何にでも手を出しますし、何にでも興味を持ちます。ちょっと目を話した隙にどっかに行ってしまうこともしばしばです。

何せ彼らの目からすれば、世界のものはどれもこれも「未知」のものです。「好奇心」からすれば宝の山のようなものです。

 

また、これは一方で、彼らの「恐怖心」の少なさの反映でもあります。

例えば「となりのトトロ」で、「まっくろくろすけでておいでー!」と叫べるのは、彼女たちが子どもだからですよね。私たちならそんな得体のしれないものを呼ぶなんてできません。

私たちがバスを待っていて、ふと横をみた時に隣にトトロがいたら、「ひーーー、ひいいいっ、ばけものおおおおっ!」といった、大人らしい月並みな反応をきっとすることでしょう。

 

でも――私たちも昔は確かにそんな子どもだったはずです。

 

それなのに。

そんな子どもの頃の豊富な「好奇心」を、いつから私たちは失ってしまったのでしょうか。

いつから「未知のもの」に「恐怖」するようになってしまったのでしょうか。

 

もちろん、年を経るにつれて、「未知のもの」が「見慣れたもの」にどんどん変わっていくので、その自然な過程と考えることはできるでしょう。

でも、私は思います。やっぱりそこには「罰」が絡んでいるんです。

 

私たちは「教育」と称して、「あれをしなさい」「これをしなさい」と命令をします。そして守れないと「何で言うことを聞かないの!」と怒ります。勉強などで成果がでないと、「もっとがんばりなさい」と叱ります。

 

私たちはそうやって怒り、叱って、そして一方で、怒られ、叱られてきたのです。

 

でも、これは「罰」や「恐怖」の論理と同じではないでしょうか。

 

この「教育」の中では、当然子どもたちは「余計なこと」をしなくなります。

小さい頃は、道端の花や虫だって、遊び相手だったし、歩道の縁石や横断歩道のシマシマだって遊び道具だったのに。

いつしか、そんなものには目も止めなくなってしまうのです。

そんな行為は「子どもっぽい」だなんて言って、大人ぶったりしてしまうのです。

学校の勉強でいい成績を出すことや、いい学校・会社に入ることが、唯一の絶対の良いことだなんて思うようになってしまうのです。

 

成長するうちに、彼らの価値観は狭まり、世界は狭まり、そして大事な「好奇心」が失われてしまうんです。

 

一方でまた、用意されたレールから外れることに、未知の世界に飛び込むことに「恐怖」を覚えるようになってしまいます。

なぜって、今まで誰も「未知の世界に飛び込むこと」を認めてくれたことがなかったです。

むしろ「未知」に向かうことは「罰」の対象であったからです。

そのため、「未知」=「恐怖」という公式が身体に心に染み付いてしまったんです。

今更「未知のこと」に挑むことなんてできません。

「未知のことに飛び込むこと」それ自体が、もう「未知のこと」で「恐怖」の対象になっているのですから。

 

 

・・・これらが「教育」に関係ないとは、そして、私たちに関係ないとは、私には到底思えないのです。

 

程度の差こそありますが、「罰」にはみんなが関わっているからです。

あなたも、私も、誰もかれもが、既に「罰」を受けたことがあるし、「罰」をしたことがあるからです。

 

だから、「罰」については私たちみんなで考えないといけない問題なんです。

 

 


*おわりに


「冒頭の3事件はやりすぎたかもしれないが、そこまででない罰を生徒やメンバーも同意の上でやっているなら問題ない。入部した時にそういうこともあることは分かっているだろうし、嫌なら辞めればいいのだから」と言う方もいるかもしれません。

 

双方同意の原則からすれば、確かに同意が取れているならば、そのあたりでなかなか責めにくくはなるでしょう。

しかし、冒頭の3事件のように、こういった「罰」の事例は10代~20代あたりの若い世代に対して多く行われています。

彼らが、彼らのまだまだ狭い「世界」を旺盛な「好奇心」をもって広げる、そんな時期のはずなんです。

 

そこに「罰」を持ち込めば、世界を広げる「好奇心」の火は消え、彼らの「世界」は狭いままで閉ざされます。残るのは「未知」に対する「恐怖」ばかりです。

それは間違いなく彼らの可能性を狭める行為なのです。

 

せめて、それだけは自覚して欲しいんです。

 

 

だから、「罰」を持ち込むなら、

 

――部活動を通して健やかな人間を育成する

 

とか、

 

――歌や踊りを通して夢や希望をみんなに与える

 

とか、

 

――スポーツを通して国際社会の平和と発展に寄与する

 

とか、

 

そんなことは言わないでください。

 

 

人を育てることを諦め、彼らの世界を閉ざすことを選んだあなたたちにそんなことを言う資格はありません。

 

 

罪と罰

罪と罰

 

 

P.S.

とはいえ、どうしたらこの「罰」の呪縛から、私たちが解放されるのか、なかなか難しいですよね。

日々悩んでいます。。。