雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

その「道徳」が社会を壊す

前回見たように、私たちが意識的に自分自身の眼で品定めをする経験が減り、「値札」や「相場」など他人の提示する「価格」に大きく惑わされるようになったのが、「価格という名の幻」が登場した原因でした。だから、本当の「質」に見合った「価格」を考えることが大事なのでした。

しかし、この「幻」の背景には私たちの経験不足だけでなく、実はもうひとつ別の大きな原因があります。

 

それが「道徳」です。

 

今日はそんなお話です。

 

 


*善い仕事、悪い仕事


ここに、道徳的に善い仕事と、道徳的に悪い仕事の2つがあるとします。

 

――あなたはこのどちらを評価しますか?

 

と尋ねられたらほとんどの方は前者を選ぶことでしょう。

 

 

では次の質問です。

 

――あなたはこのどちらがより高い報酬をもらうべきと考えますか?

 

と尋ねられたら、いかがでしょうか。

これも、おそらくは前者を選ぶのではないでしょうか。

 

 

では。

 

――あなたが善いことをしたとして、善行の見返りにあなたは報酬を要求しますか?

 

こう尋ねたらいかがでしょう。

おそらくは要求しないことが多いのではないでしょうか。

 

 

不思議ですよね。

客観的視点で聞けば、「善い仕事の方が多くもらうべき」と思うのに、主観的視点で聞けば「何かもらっちゃいけない気がする」のです。

 

これは、「対価を要求せず無償で尽くすこと」が道徳的に善いことになるための必要条件になっているからです。

誰が決めたわけでもありませんが、自分のためでなく人のための行為が善行のルールです。自分がもらうものよりも、相手に与えるものが多いからこそ、善行なのです。もし与えた分に相当する対価を求めれば、その時点で善行が善行でなくなってしまうのです。

 

だから、私たちは道徳的行為をする時は「対価を要求しない」のです。

 

 こんな道徳の性質が、時に「価格」に大きな影響をもたらします。

 

 


*薄給になる善い仕事


例えば、世の中の道徳的な仕事をイメージしてみて下さい。

 

医療職、教員、警察、消防、法曹、政治家、公務員などなど、挙げられるでしょうか。

 

多くの人に必須のサービスを提供する彼らの仕事内容は、原則、非常に道徳的なものと言ってよいでしょう(実態はどうあれ)。

先ほどのように「彼らにはその分良い報酬を与えるべき」とも思うかもしれません。

 

もし彼らの給料が非常に安かったとします。道徳の原則からすれば、それでも「対価を求めにくい」ものなのですが、彼らも人間ですから、本当に心底から耐えられなくなることもあるかもしれません。

そこで、彼らがついに「給料を上げろ」とストライキを起こし、それで彼らのそんな「大事なサービス」が滞ったとします。そしてあなたもその被害を受けたとします。

 

その時あなたは思うはずです。

 

――みんなに尽くすべき仕事についておきながら、なんて自分勝手で非道徳的な奴らなんだ

 

と。

 

第三者視点の時は、まだ彼らに寛容で居られます。ですが、あくまでそれは第三者視点の時だからです。ひとたび「サービスを受ける側」という当事者の視点に移れば、私たちはその「道徳性」の維持を要求したくなるものです。彼らの多くのサービスが私たちにとっても必須で絶やさぬべきものなので、私たちも自分のために必死にならざるを得なくなるのです。

 

また、道徳の「自ら対価を求めない」という原則のため、自分の対価のために大声を上げる彼らに「道徳性」が感じられなくなります。あくまで「善い仕事」だから「高い評価」を与えていたのですから、もはや「良い報酬を与えるべき」とするための理由も失われてしまいます。

 

だから、彼らが「対価を求め始めた」とすると、急に「道徳性」が曇り、一転非難轟々となることでしょう。

 

彼らは「対価の主張」をそもそもあまりしませんが、仮に主張したとしてもこの非難の流れが見えているのでなかなかできないのです。

だから安い給料だとしても、声を上げずに我慢しないといけません。

結果、その報酬を上げるのは難しくできています。

 

 

そして、その逆、受益者が多数かつ強いために、報酬が下がる時は下がるのが特徴です。

 

――困っている人を助けるのがあなたたちの誇りでしょ?お金のためじゃないでしょ?

 

道徳を誇りに生きている彼らには、受益者のこの言葉に対抗する術はありません。

それがみんなのためになるというのなら、お金を捨てざるを得ないのです。

 

実際、政治家や公務員の給料は叩きの対象になりがちであるということは皆さんご存知の通りと思います。

そして、自ら給与をカットしたり返還したりした政治家が、「道徳的」として賞賛されるのは、その裏返しと言えるでしょう。

 

善い仕事の待遇を下げる方は簡単ですが、上げるのは難しいという罠が「道徳」に潜んでいるのです。

 

 


*高給になる悪い仕事


善行の価格が上がらないのは、先程のように「道徳」に殉じるためですが、悪行の方はどうでしょう。

 

例えば、麻薬などの非合法的な商品の価格がべらぼうに高いのは皆さんご存知ですね。また、悪行とまでは言わずとも、どちらかというと「非道徳的」とされる風俗業などの性的サービスの価格も基本的に高額です。

 

これら非道徳的な仕事の価格が高くなるのは、それが非道徳的だからです。

 

商品やサービスを受けとる側も、それが非道徳的な行為であることが分かっているので、「後ろめたい」気持ちがあります。あくまで自分のわがままでサービスを受けようとしているので、相手に「もっと尽くすべき」と要求しにくくなります。

そして提供側もわざわざ自分を非道徳的な仕事で汚しているのですから、その分、対価をもらって当然と考えるのです。場合によっては法律違反などして「危ない橋」を渡っているのでその対価分も要求されるでしょう。

結果、その価格は高くなります。

 

 

言ってみれば、仕事の報酬は、「お金」と「名誉」で払われていると言えます。

 

道徳的な仕事は「名誉」が大きく、「お金」が小さいのに対して、

非道徳的な仕事は「名誉」が小さく、「お金」が大きくなるのです。

 

皆さん、道徳的な仕事ほど高い報酬を得るべきと、第三者の視点からは思ったはずですが、この通り、実際には逆の現象が起きがちです。

道徳的な仕事が安い報酬を得て、非道徳的な仕事が高い報酬を得ているのです。

善行ほど「価格」が安く、悪行ほど「価格」が高いのです。

 

「質」の面から言えば、道徳的な仕事ほど高くなるべきでした。しかし、残念なことにその価格は下がってしまいます。

本来の質を表していない、この「価格」。

これもまた「価格という名の幻」なのです。

 

 


*悪業奨励社会


この現象が、市場原理と結びつき、恐ろしい社会が生み出されます。

 

ご存知の通り、市場原理に従えば、「高給で割のいい仕事」ほど供給が増やそうとする流れができ、「低給で割の悪い仕事」ほど供給が減る流れが生じます。

だから、市場原理は「非道徳的な仕事」の供給を増やし、「道徳的な仕事」の供給を減らす方向に働いてしまうのです。

 

元はといえば、「対価を求めないことが善行」という道徳原則から生まれた事態です。

これは、道徳がまわりまわって「非道徳的な仕事」の奨励につながるという皮肉な話なのです。

 

ただ、市場原理はあくまで「お金」の原理なので、先ほど述べた、仕事の報酬における「名誉」の部分の価値が高ければ、市場原理という「お金」の論理に対抗できる可能性はあります。

 

しかし、ご存知の通り「聖職」の権威が失墜して久しい今日このごろです。

モンスターペイシェント、モンスターペアレンツなどなど、「聖職」に対してその「道徳」を盾に無理難題を要求する受益者も多数出現するようになりました。

こんな世の中で「名誉」は本当に保たれているでしょうか?

彼らに、その仕事に対する「誇り」を与えているでしょうか?

私にはそうは思えません。

 

「名誉」も「お金」も失ってしまえば、そこにもう「聖職」の残る理由は無く、残るは「悪業」ばかりです。

 

私たちの社会は、知らず知らずのうちに「悪業奨励社会」に移行しつつあるのではないでしょうか。

 

 


*本当の道徳的社会になるために


では、どうすればいいのでしょう。

 

対抗策としては2点あります。

単純な話ですが、道徳的な仕事の「報酬」を上げる、または「名誉」を上げるの2点です。

それぞれ市場原理、道徳原理からのアプローチと言えます。

 

 

まず、「報酬」についてです。

 

第三者視点から見れば、道徳的な仕事に高い報酬を与えたいと皆さんきっと思っているはずです。

ですが、それが成り立たないのは、まず道徳の性質的に本人たちから声を上げられないことと、受益者は受益者でやはり自分の身を優先して声を上げないということ、つまり当事者たちからは声が上がらないという仕組みのためです。

そして、困ったことに、こういった道徳的な仕事については、私たちのほとんどが受益者にいつでも成り得ます。言ってみれば世の中、当事者ばかりなのです。だからついつい、当事者の視点が首をもたげやすくなっています。それが「対価を求めない、求めさせない」ことにつながります。

 

だからこそ、第三者視点を大事にしないといけません。

といはいえ、第三者視点とはつまり「関係ない人」ということです。ついつい私たちは自分に関係した問題ばかり気にしてしまい、そういった「直接関係ない問題」を忘れてしまいがちです。

しかし、「道徳的な仕事」を救えるのは第三者しかいないのです。第三者こそが自分に直接関係ない問題であっても、社会をより良い方向に動かすために動かないといけないのです。

 

だから、「道徳的な仕事の報酬を下げよう」という話が出た時は、身構えないといけません。ついつい当事者の視点にならないように気をつけないといけません。

社会全体を俯瞰する冷静な第三者的視点を忘れないことが大事なのです。

自分たちの支出を気にするのではなく、社会にとって本当にすべきことは何か、考えるべき瞬間なのです。

 

もし本当にそれが道徳的な仕事であれば、その質を考えて、報酬が適切かどうか冷静に考えないといけません。

これでないと善行は救うことはできないのです。

 

もし、こうして自分の利益にかかわらず社会の道徳的な仕事を救えたとすれば、これこそ「対価を気にせずみんなに尽くすこと」であり、まさに道徳の実践と言えます。

 

 

道徳には道徳を持って返す。

もらいすぎた分はあげすぎるぐらいに返してあげる。

そうすればまたきっともらいすぎるぐらい返ってくる。

 

 

彼らの仕事の質に応じた「報酬」を守るには、こんな単純な話で済むことなのです。

「道徳」を盾に彼らの「報酬」を削るような、非道徳的行為をするからこそ、道徳が失われていくのです。

 

 

  ◆◆◆

 

 

次に、「名誉」についてです。

 

「道徳的な仕事」の「名誉」が薄れていったのも、受益者側の意識の問題です。

 

「善いことをしてくれてありがとう」という気持ちを忘れ、各種モンスターたちのように「善いことをしてくれて当然」となった時、「名誉」はいとも簡単に失われます。

 

彼らが善いことをしてくれるのは当然なんかではありません。

「しなくてもよいことを、わざわざやってくれる」から善行なのです。

「しなくちゃいけないことをやる」のは善行ではありません。強制されるボランティア活動が、どう考えてもボランティアじゃないのと同じように、善行は自発的であってこそ初めて善行になれるものです。

だから、誰かが誰かに善行を要求する時、それはもう善行ではなくなるのです。

道徳的行為を命令することは、本来矛盾したあり得ない行為で、むしろこれほど非道徳的な行為は無いとさえ言えます。

 

 

有名なお話ですが「ありがとう」という言葉は、「有り難い」が由来です。

つまり本来「有るはずのない」行為だからこそ、「ありがたい」のです。

「有って当然でない」のです。

 

だから、「名誉」を保つには、そんな感謝の気持ち、ただそれだけで良いのです。

善いことをしてもらって感謝したその気持ちを返してあげるだけで良いのです。

 

 

「ありがとう」

 

その一言で、道徳は成されるのです。

そしてその一言が無くなるだけで、道徳は消えてしまうのです。

ほんのそれだけで「名誉」は救われるのです。

 

でも、ほんのこれだけが、失われつつある気がしてなりません。

 

 

そう、

 

「ありがとう」

 

この一言こそ、本当に「ありがたい」ものなのかもしれません。

 

 

 

 

不道徳な経済学──擁護できないものを擁護する (講談社プラスアルファ文庫)

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P.S.

過激なタイトルなんですけれど、案外「道徳的行為を他人に要求する人」が多いので、あえてちょっと書きました。

善行をもらったらもらいっぱなしじゃなくて、ちゃんと返すこと、多分本当にこれだけなんですけどね。

贈り物をもらったら、「ああ、そんな気にしなくてもいいのに」って言われても、返しますよね。

ほんとうに感謝をしているか、そして感謝の気持ちをどう表すか、そこが試されてるんだと思います。