雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

差別が生む悲劇

差別というものはすごく悲しいもの。

 

人が人を見る時に、その人全体ではなくて、その人の一側面のみを一瞥しただけで、扱いを決めてしまう。

 

ブランド品だから良いものだろう。

聞いたこと無い安物だから悪いものだろう。

 

まるで、そんな、ラベルを見て物を選り分ける時のように、人が人を分ける。

 

その人が何を感じているのか、何を考えているのか、何を知っているのか、何を言っているのか、何ができるのか。

 

そんなことには関係なく。

 

誰なのか。何者なのか。何なのか。

 

それだけで決める。

それだけで、その人のことを決める。

 

そんな、理不尽で理不尽で仕方がないこと。

悲しいこと。

 

でも、多分無くならない。

 

何かに名前をつけて区別する行為は、人類が進化の過程で身につけた能力だから。

物を区別できるおかげで、いちいち調べなくてもリンゴをリンゴと認識できて、私たちはリンゴを安心して食べられる。

差別はそんな「物事を区別する」という人類の知性の副作用。

 

ちなみに、リンゴは、エデンの園でイブが食べた禁断の果実。

神様から食べてはいけないとされた知恵の実。

 

私たちはもう禁を破ってしまって、後戻りはできない。

 

だから、もう差別は無くならないし、無くせない。

 

 

差別。

人が人を分けること。

これは悲しいこと。

でも、仕方ないことなのかもしれない。

どうやったって、私たちは自然に、誰かに好意を持ち、誰かに嫌悪感を抱く。

これを止めるのはやっぱり難しい。

 

私たちには区別と差別を区別するほどの知性は与えられなかった。

だから、差別が存在すること自体は、残念だけど、私たちはあきらめないといけないのかもしれない。

 

 

ただね、差別には「人が人を差別する」以上のもう一つの悲劇があって。

 

それは――自分が自分を差別すること。

 

差別されると、だんだん、差別される本人自身がそれを受け入れるようになる。

自分は差別される存在だって意識するようになる。

 

それに気づかず、何も感じないでいられるほど、人の心は鈍感ではないから。

それに歯向かい、抵抗し続けられるほど、人の心は強くないから。

 

すると、人に言われなくたって、そう、動くようになる。

 

自分は差別される人間だから、願っても仕方がない。

自分は差別される人間だから、言いたいことを言うなんて、おこがましい。

自分は差別される人間だから、頑張っても仕方がない。

自分は差別される人間だから、やりたいことをやろうなんて、おこがましい。

 

身の程にあった言動におさめておこうと、自ら自分に縄をかける。

 

自分で自分を制限して、閉じ込めて、無かったものにする。

 

それが、

自分で自分を差別すること。

 

つまり、それは、

自分で自分を嫌いになること。

 

自分で自分を殺すこと。

 

これが差別の生む悲劇の顛末。

 

 

悲しい。

悲しすぎる。

 

 

何とかならないのかな。

差別を完全に無くすのは無理でも。

私たちが人を好きになったり嫌いになったりするのを止めるのは無理でも。

 

せめて、自分が自分を嫌いになるようなことだけは、無くせないのかな。

 

人を嫌いになってもいいよ。

でもさ、

その存在まで否定しないでもいいじゃない。

 

被害を直接受けたなら文句言ってもいいよ。

でもさ、

何も見かけただけで殺さなくてもいいじゃない。

 

その人たちはあなたにとっての何?

あなたの農作物を食い荒らすイナゴ?

あなたの血を吸いに来た蚊?

 

せめてあなたにそれぐらいの被害はあった?

 

違うでしょ。

ただ、何となく気持ち悪いってだけで、殺してるんじゃないの?

ちょっと見かけて、一瞬気分がむかついたから、とりあえず手に持ってた新聞紙で叩き潰したんでしょ?

あなたの方が力があって大きくって「正しい」から、それはほんと容易いでしょうね。

 

でもね、その「何となく」で、人は死ぬんだから。

そのあなたのちょっとした「気分のむかつき」と引き換えに、人は死ぬんだから。

「いえーい、クリーンヒット!」というあなたの一瞬の爽快感と引き換えに、人が死んでるんだから。

 

そんなバカなって?

殺してないって?

ちょっと叩いただけだって?

 

そうね、そうかもね。

あなたにとっては、そうでしょうね。

 

でもね、それで十分、人は死ぬのよ。

特に叩かれる方は、力も無くて小さくて「間違ってる」から、ほんと脆いんよ。

 

それを知らないのは、叩いた新聞紙さえそのまま放ったらかして、裏側を見ようともしないからでしょ。

殺してるけど、殺した死体を確認してないだけでしょう?

 

そりゃさ、死体なんて見たって、気持ち悪いよね。

せっかく、爽快になったのに、気持ち悪くなったら意味ないもんね。

 

でもさ、殺ったなら、せめてそれは見ないといけないんじゃないの?

 

それが、「正しい者達」のせめてもの責任なんじゃないの?

生殺与奪を担った者達の、最低限の誠意なんじゃないの?

 

それとも何、目瞑って銃乱射するのが「正しい行為」なわけ?

 

「正しい差別だ」って言うんなら、せめて、堂々としてよ。

殺すなら相手の目を見て殺してよ。

相手の人生とか魂とか、全部抱えてから殺してよ。

 

それが気持ち悪い、やるせないって言うなら、最初から殺すべきじゃないんじゃないの?

最初から彼らは死ぬべきじゃなかったってことじゃないの?

 

 

お願いします。

いくら嫌ったっていいし、ムカついてもいいし、差別してもいいけれど。

 

せめて、「本人が本人を差別する」までの差別はやめませんか。

 

本人が本人を好きで居られて、自分で自分を殺さずに済む。

その程度で抑えませんか。

 

嫌いでも、存在までは否定しない。

それぐらいで良くないですか。

 

 

その方が、よっぽど「正しい」って、私は思います。

 

そして、人にはそれぐらいはできる知性があると、信じてます。

 

 

・・・そう思いたいだけかもしれないけれど。

 

そう思わないとやってられないから。

 

 

 

 

 

P.S.

ちょっと重い話ですみません。

時々、毒を吐き出したくなるので。