雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

日本社会に欠如してるのは「生産性の概念」じゃなくて「時間感覚」

私ごときが大御所のお二人に並んで意見をあげるのもアレなのですけれど、ちょっと気になる議論だったので。

 

「生産性の概念の欠如」がたぶんもっとも深刻 - Chikirinの日記「生産性の概念の欠如」がたぶんもっとも深刻 - Chikirinの日記

 

「生産性の概念の欠如」はなぜ起こるのか - 脱社畜ブログ「生産性の概念の欠如」はなぜ起こるのか - 脱社畜ブログ

 

 先日から話題のこの2記事。

日本の職場(特にホワイトカラー)に長時間労働が当たり前のブラック環境が多いのは、「生産性の概念」が欠けてるからじゃないか、というのがテーマです。

「長時間労働に精神面でも給与面でも依存しすぎなのが問題」と言うのがちきりんさんで、「個人が頑張って生産性を上げても給与が上がらないのが問題」と言うのがクラゲさん、と「生産性の概念」が欠けてる理由についてはお二人は少し主張が違いますけれど、「生産性の概念の欠如」を問題視してるという点では共通しています。

 

確かに「生産性の概念」ってないがしろにされてるよねーと、そこそこ納得できる話ではあるのですが、個人的には「生産性の概念」よりもっと下に諸悪の根源があるような気がしてなりません。

 

私が思う諸悪の根源というのは、「時間感覚の欠如」です。

 

日本人と言えば、電車なんかもピッタリに来ますし、時間に正確でキッチリしている、そんな印象があるかもしれません。

しかし、それは日本人の時間観の一側面でしかないのです。

 

例えば、世の中には恐ろしいことに、時間外(定時17時までの会社であれば18時など)に定例会議が行われる企業があります。

私はどう考えてもおかしいことと思うのですが、「日中はみんなが集まれないから」ということでそんな時間設定になっているようです。

この場合、個人がどんなに生産性を上げて自分の仕事を片付けていようとも、どうしたって早く帰れないことになります。

 

お役所でも似たような話があります。

霞ヶ関では、国会期間中、大臣に対する翌日の国会質問への答弁原稿を作るべく、担当省庁の職員が夜中まで待機することが常態化しているそうです。

下手をすると議員からの質問が夕方を過ぎて夜にならないと確定しないのですが、どの分野の質問が当たるか分からないのでほぼ全員ただ待機し続けるとのこと。

晴れて質問の内容が判明すれば、関係ない職員は帰宅できますが、自分の担当分野に当たった職員は、それから徹夜状態でその質問への答弁を必死で練るのだとか。(これを「被弾」と称してtweetして、炎上した方もいましたね)

このケースだって、生産性を上げて効果が出るのは、せいぜい質問が当たってからで、それまではどれだけ優秀な人でもそうでない人も一緒にただ待つしかありません。

参考:「みんなの党議員の質問通告遅れに批判 霞ヶ関中に「無駄な待機」を強いる : J-CASTニュース

 

官でも民でも見られるこれらの現象がどういうことを示唆しているかといえば、「生産性の概念」の欠如というより、「定時を守る気が無い」「残業するのが前提」という日本社会の潜在意識です。

いくら就業規則などに「就業時間は○○時~○○時とする」と書いてあろうとも、無視して堂々と時間外に予定を入れてしまうのです。

臨時の処置ならまだ分かります。

でも、常態的にそれを甘受しているのです。

 

「会議のせいでいつも帰る時間が一時間遅くなる」と嘆く人が「それぐらい我慢しろよ」と白い目で見られる一方、電車の到着や開店時間が10分遅れただけで「何遅れてんだよ」とお客さんが怒鳴るなど、日本人は一方でキッチリしているのに、一方でとてもルーズです。

 

日本人は時間に正確というイメージがあると言いましたが、結局、正確なのは「守ることにした時間」についてだけであって、「勝手に守らないことにした時間」についてはその陰であっさり捨てられているのです。

特に、業務の目標時間や、業務の開始時間は遅れを許しませんが、業務の終了時間は守らない、遅れても気にしない、そういう仕事量が増えるものについてだけは時間の基準が甘いという傾向が見られます。

 

こう言うと、

「終業時間を守らなくても、その分残業代が出るならいいじゃないか」

そう言われる方も居るでしょう。

 

確かにサービス残業でなければ、お金という対価をもらっているだけ「終業時間を守らないこと」が免責されるように一見思えます。

ですが、そもそもなぜ定時というものが定められているのか考えてみてください。

労働基準法で目安となる労働時間が明記されているのはなぜなのか考えてみてください。

 

それは、人は生きるのに仕事以外の時間が必要だからです。

人は仕事以外のこともやらなきゃいけないものだからです。

 

仕事の分の疲労を回復するために、人は休まないといけません。睡眠を取らないといけません。

仕事の分のエネルギーを得るために、人は食事を取らなきゃいけません。朝・昼・夕と規則正しく取らないといけません。

仕事の分のストレスを発散するために、人は楽しまないといけません。恋人や家族や友達と出かけたり、独り趣味に興じたりと、遊ばないといけません。

生活を回すために、人は様々な物を買ったり、サービスを受けたり、消費をしないといけません。社会の中の生産分の対岸としても、消費をしないといけません。

国民の一員として仕事以外の社会の問題にも、人は向き合わないといけません。様々な問題について学び、考え、議論しないといけません。

他にも、スポーツや文化的な活動や、創作活動、介護・育児といった人の世話や家事などなど、様々な活動に時間が必要とされています。

 

それら「仕事以外のもの」のために確保されている時間を、あえて仕事に費やす行為が「残業」なのです。

残業代の対価に払っているのは「労力」だけではなく、そんなかけがえの無い「時間」をも払っているのです。

 

このかけがえの無い時間をかけがえの無いものと扱わず、容易に仕事に消費し、あるいは半強制的に消費させる空気、それが私が日本社会の最も深刻な病魔と考える「時間感覚の欠如」です。

 

残業時間が長くなるにつれ、だいたい先ほど挙げたリストの下の方から順に消えていきます。

まず文化的な活動や家事などの余裕がなくなり、自分の問題で精一杯で社会問題に関心がなくなり、消費も身の回りの最低限のもので済ませるようになり、遊びに行かなくなり、食事も食べたか食べてないかも分からなくなった後、睡眠時間もとらなくなります。

 

その代わりに得られるものが、おめでとうございます、「残業代」です。

もはや消費に出かける気力も体力も無いですけれど。

 

また、そんな生活を続けていては、身体に、心に、良いはずがありません。

 

会社を辞めたら色々と健康になってきたっぽい - 脱社畜ブログ会社を辞めたら色々と健康になってきたっぽい - 脱社畜ブログ

 

先日、クラゲさんのこんな記事もありましたけれど、無理をすれば知らず知らずのうちに健康は蝕まれています。

疲労など自分で分かる範囲のダメージだけでなく、長時間労働は高血圧など潜在的な健康リスクをも増加させることが知られています。

もちろん、過労死などの最悪のケースにもつながります。

 

それなのに、「過労死リスクラインが残業月80時間だから、それまではOK」なんて平気で言っちゃいます。

普段、検出限界以下の放射能にも警戒する慎重な国民性なのに、なんで過労死ラインについては基準値までは大丈夫だと思ってしまうのでしょうか。私には不思議で仕方がありません。

 

その費やしてる時間の大事さ、人が生きる上での時間感覚、麻痺してしまっていないでしょうか?

 

 

「生産性の概念」も大事です。

けれど、それはあくまで「生産量/時間」で表される相対的な「比」でしかありません。

いくら「生産性」が上がったとしても、「時間感覚」が狂っていて、人が生きていく上で必要な「絶対量」を超えて時間を消費し続けるつもりなら、何も変わらないのです。

 

人は「生産性」で死ぬのではなくて、際限無く侵食する「時間」の重みで死ぬのですから。

「時間」は絶対量を確保できないと意味が無いのです。

 

 

 

先日、NHKでやっていた番組で、アフリカの昔ながらの狩猟採集の部族の取材をしていました。彼らのセリフが耳に残っています。

 

「俺達は日中狩りをして日が暮れたら、後は明日に備えてゆっくり休みます。

夜中も仕事をしているだなんて、あなたたちは頭がおかしいのではないですか。

夜も働いていたら、いったいいつ休むんです?」

 

 はい。ごもっともです・・・。

 

 

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P.S.

書いてみると思ったよりグダグダになってしまいました(^_^;)

長文なのは相変わらずですけど・・・。

 

ええと、一言で申しますと、たとえ生産性が上がったとしても、雇用者・労働者ともに「時間感覚」が麻痺していれば、定時には帰れない(帰らない)ですよねという話です。

それに文中にも書きましたが、生産性にもはや関係のない「時間外強制予定」というものも、この世には少なくないのです。

ですから、「生産性を上げる」より先に、「定時を守る」という「健康的な時間感覚」がまず必要なんじゃないかなぁと思います。

 

「時間感覚」が欠如してしまった理由としては、上の過去記事などでそこはかとなく私見を提示してはいますが、ここでも一つ挙げておきますと、「自分の私的時間を犠牲に顧客時間に貢献すること」が高い評価を得るこの社会の価値観のせいと思っています。

 

「呼んだら、すぐ飛んできてくれる」

「困ったとき、夜中だろうと相談に乗ってくれる」

「こちらの都合が空くのを、ジッと待ってくれている」

「こちらの業務に時間のロスが生じないよう徹夜で対処してくれる」

などなど。

 

ちきりんさんも実はボカしたまま話を進めていましたけれど、いわゆるサービス業としてのホワイトカラーの仕事の質や量って、実は掴みどころ無いですよね。

それできっと、評価のポイントとして白羽の矢が立ったのが「誠意」だったり「献身的な態度」だったりしちゃうのでしょう。

「あ、定時なので今日は私この辺で失礼」と言う人より、「社長さん、今日はお話を聞いていただけるまで、何時まででもお待ちしています!」みたいな人の方が評価されちゃうんですよ、きっと。

多少、仕事の出来の悪いところがあっても、何だかそういう人の方が「粋」じゃないですか?

これは、取引先との関係だけでなくて、雇用者との関係でも言えると思います。

 

そうやって「相手に費やす時間」そのものが主力サービス(生産物)となって、「質」のファクターが薄くなると、極端な話、「生産量」=「時間量」になっちゃうのですよね。

でも、「時間」の生産性って、「時間/時間」なので、どんなに頑張っても「1」なんですよね。上げようがないんです。

だから、「生産性の概念」が欠如しちゃうのもある意味当たり前で、だって時間については生産性は変数無しの定数「1」なんだし、「質」よりみんな「時間」の方を評価するから今更「質」を上げても何だし、という・・・。

それで、どれだけギリギリまで私的時間を費やすかのチキンレースが始まって、長時間労働になっちゃうわけです。

 

これは、いくら頑張ろうと「良いものは良い」「悪いものは悪い」とバッサリいかず、「努力は認めてやる」と日本人らしい人情あふれる感覚からということで、その点では何とも憎めないものではあるのですけれど、残念ながらこれが多分仇になってしまってるのかなぁと思います。

不器用でも(長時間)頑張ってる人に肩入れし過ぎて、不器用なまま(長時間)頑張ってる人ばっかりになっちゃった感じです。

 

うん、人情深くて優しすぎるのも・・・ね?(´・ω・`)