仕事が無いなら仕事を作ればいいじゃない ~市場のコンビニ化作戦~
「労働豊作貧乏シリーズ」続きです。
前回までの「労働豊作貧乏」シリーズ記事
①過労死するほど仕事があって、自殺するほど仕事が無い - 雪見、月見、花見。
②今、社会が労働豊作貧乏時代になっているワケ - 雪見、月見、花見。
(コラム)第三次世界大戦は既に始まってるのかも ~産業と戦争の関係と歴史~ - 雪見、月見、花見。
今まで、労働力が余っている現状やその理由、そしてそこから抜け出せない悪循環の仕組みなどを見てきました。
今の時代に至り、ついに私たちの生産力が私たちの消費力の限界を突破したこと、私たちの心に根強く染み付いている「働かざるもの食うべからず」の呪縛、自由であるはずの市場原理に潜む不自由原理などが、現在の労働社会の惨状における大事な要因でした。
では、私たちはどうしたらいいのでしょうか。
「過労死するほど仕事があって、自殺するほど仕事が無い」この惨状をどうしたら変えることができるのでしょうか。
今回から、「労働豊作貧乏」の対策についてボーっと考えていきたいと思います。
さて、私案を披露するその前に、まずは先人たちが行なってきた対策について見てみましょう。過去を振り返って分析してからの方が、ポイントがわかりやすくなると思いますので。
で、きっと私のように「消費力の限界」という視点ではなかっただろうと思われますが、先人たちも社会問題として現れる「仕事不足」「雇用不足」には常々悩まされており、そのたび対応してきています。
肝心のその作戦のスタンスは「仕事が無いなら仕事を作ればいいじゃない」でした。
*仕事のための仕事が増える ~コンビニ化する私たち~
突然ですが、テレビのニュースなんかで芸能ニュースコーナーってあるじゃないですか。あの芸能人が恋愛発覚とか離婚成立とか。
あれを見るたび、私はいつも不思議な感覚になるんです。
これって、一応ニュースだけど、もともとはニュースじゃないよねと。
だって、あのコーナーに出るような芸能人はテレビができたから有名になった人たちです。テレビが無ければ、別に有名になることもなかったでしょう。テレビが無ければ、彼らが何をしようとその辺の一般人と同じでニュース性はなかったはずです。少なくともテレビが生まれた当初には、テレビには「芸能ニュースを流すつもり」はなかったはずです。だけど、今はテレビでは当たり前のように芸能ニュースが流れます。
あ、芸能ニュースが不要と言っているのではありません。私も普段、ついつい気になって見てしまいますし。
そうではなくて、「テレビが無ければ生まれ得なかったニュースが、テレビのニュースとしてちゃんと成り立っている」、「ニュースを流すために発明したはずのテレビが、新しいニュースを増やしている」、そんな自分で火をつけて自分で火を消すといういわゆるマッチポンプ的な原理が見えて、どうしても不思議な感覚を覚えてしまうのです。
そうなんです。何かの需要を満たそうとして仕事をすると、その仕事のための仕事が登場することが多々あります。つまり需要を満たそうとした行為そのもので、また新たな需要が出てきてくるのです。
わかりやすい例で言えばオフィス用品とか、工事道具の販売とか。知的仕事の面で言えば、各種の仕事向けの書籍、各種のコンサルティング業などなど。流通で言えば、交通機関や宅配便の発達、商店の24時間化(コンビニ)などなど。
仕事が無ければ必要が無い仕事が、仕事として成立し、連鎖的に発生・発展しているのです。
こんなことが起こるのも、市場という生き物のなせる業です。
この生き物は需要という餌があるところには手を伸ばさないといられない性格を持っています。だから、需要を消費するために生まれた仕事によって生まれた需要も目ざとく発見し食べにいきます。そうやって自分の体、市場を広げます。すなわち、仕事を増やすのです。
これは、ある意味自然発生的ではありますが、「仕事不足」「雇用不足」に対する民間レベルでの対策と言えます。
食糧不足や日用品不足など単純な一次性の需要が満たされていないとき、つまり「餌」が豊富にあるときは、わざわざ「仕事のための仕事」のような回りくどい需要を満たしにいくことはありません。まずは一次性の需要の解消が優先されます。しかし、生産効率アップなどで一次性需要が満たされるようになってくると仕事が一次性需要だけでは足りなくなってきます。
こういう時に、市場は「仕事のための仕事」というような二次性の需要を扱う仕事に目を向けることで「仕事不足」が自然に解消されていくというわけです。
この二次性の仕事の活躍によって、一次性の仕事の効率や技術もアップします。その結果、さらに私たちの欲求を更によく満たし、生活も便利になっていきました。
この仕組みは一見上手く行っているように見えました。
「仕事があれば、さらにそこから仕事が生まれる」
だから今でも仕事不足について「市場に任せれば上手くいく」と言う人が多くいます。
しかし、このような「仕事のための仕事」は、社会全体の便利化・高度化に貢献する一方で、難点もありました。
以前、こんな記事を書きました。
内容を端的に表した部分を引用すると、こちらです。
「仕事が遅くなる ⇨ もっと遅くないと買い物行けない
⇧ ⇩
仕事遅くてもよい⇦ コンビニ営業時間の延長 」
これはこれで、確かに仕事が仕事を生んでいます・・・が、このサイクルの中で働く人間にとってみたら完全な悪循環ですよね。冷静に考えたら、普通に日中だけ仕事をするような環境だったら、みんなに時間の余裕がもっとある環境だったら、本当は24時間営業の店なんてこんなに必要なはずはないのです。
このように「仕事のための仕事」というのは確かに仕事ではあるのですけれど、「仕事のための仕事のための仕事のための・・・」と重ねていくにつれて、私たちの本当に必要としているもの、つまり私たちの需要からどんどんかけ離れていってしまいます。
そう、そんな仕事は仕事ではあっても、あくまでも私たちのもともと欲しがっていた需要を満たすものではありません。言ってしまえば、不要な仕事、ムダな仕事です。ですが、このサイクルをほっておくと、案外そんな不要な仕事さえも意外と仕事として成立してしまうのが、そら恐ろしいところです。
本来はこんなに「仕事のための・・・」を重ねなければいいのですが、ただ、市場という生き物が「仕事」という餌が足りなくて飢えて飢えていくと、結局このように本当は食べてはいけないような餌にまで手を出してしまう――そういうことなのです。
そして、今、まさにこの市場という生き物が、本当の「餌不足」に陥っているというのが、私の言う「労働豊作貧乏時代」という解釈です。
「生産力>消費力」から来る「仕事不足」を解消するために、どんどん奥へ、どんどん不味いものに手を出すようになってきてしまったのです。
これが正しい対策のはずはありません。
「仕事のための仕事」は確かに仕事不足を解消し、私たちの社会の豊かさには貢献してきました。ですが、過ぎたるは及ばざるが如しです。あくまで、「仕事のための仕事」は私たちの需要を薄めたものにならざるを得ないものなのです。
もはや、これはピタゴラスイッチで人にご飯をよそうようなそんな仕組みなのです。もうとっても回りくどい行為です。
発展途上の段階を超えて、「生産力>消費力」になったこの時代にまでなると、どんどん「仕事」が本当の人間の需要からかけ離れた暴走を始めてしまっているのです。「仕事しないといけない社会だから仕事するため」に「仕事」が生まれてしまっているのです。
「働いて社会に貢献しよう」とよく言いますが、このような「仕事のための仕事のための・・・仕事」では、実はほとんど何の役にも立っていません。
申し訳ないですけれど、無駄なんです。何の貢献にもなっていません。
ただ、「私は仕事をしているから食べ物を下さい」と主張する権利を得るためだけの仕事なんです。残念ですが、社会に貢献どころか、完全に利己的な仕事でしかないのです。
そして、こんな「無駄な仕事」のために、社会みんなのエネルギーを注ぐというのは、非常にもったいないことです。
先人たちがともに歩み育ててきた「仕事のための仕事」という市場の持つ「仕事不足」対策は、残念ですが、すでに限界を迎えていると私は思います。
P.S.
・・・さて、民間の「仕事が無いなら仕事を作ればいいじゃない」をお話したところで、本当はここで次に「公共事業」という親玉のお話に移るつもりだったのですが、すでに長いので次回に回すことにしました。
なんか、いつもすみません;;