雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

人は愚痴をこぼす生き物

何を隠そう、私は愚痴を言うのも聞くのも好きな愚痴星人です。

 

生きていれば誰しも、理不尽な目にあったり、イライラする時があったり、納得出来ない物事があったりするじゃないですか。

 

例えば、「どこからでも切れるマジックカット」が切れなかった時、こっちの堪忍袋の緒の方が切れそうやわ、みたいな軽い話から、他の誰もが全然悩んでなさそうなところで自分だけつまずいてるような気がしちゃって、何で私は生まれちゃったんだろう、的な重い話まで、家族・勉強・恋愛・仕事・人間関係、その他諸々、人生色々思い悩む時はありますよね。

 

そういう時に、誰かに想いを吐き出したい、愚痴をこぼしたいと感じるのは、私にとってはすごく自然なことのように思います。

 

 ただ、「愚痴」というのは一般にはネガティブなイメージで扱われることが多いんですよ。

 

「つまらん話を聞かされる方の身にもなってみろ」とか、

「人の陰口を叩いてばかりだと、友達無くすよ」とか、

「愚痴ばっかり言ってたら、性格が悪くなるよ」とか、

「ポジティブに生きたほうが、運気も引き寄せられるよ」とか、

そんな感じで。

 

確かに、これらの言い分も分かるんです。

 

私自身、大昔、「エネルギー保存則」にかけて「イライラ保存則」と勝手に題した理論を考えてたことがありました。

 

誰かイライラした人がいた時に、その人が誰かに当たってスッキリしたとしても、その分、当たった人がイライラさせられちゃうので、結局イライラの総量は変わらない、というのが「イライラ保存則」の理屈です。

イライラした人が多くの人に当たることで、イライラがむしろ増えてしまう「イライラ増加則」や、当たった人に仕返しされることでまたイライラする「イライラ反射則」というのもあります。

 

要するにどれも、イライラは人と人の間を介しても減らずに、移ったり増えたりするばかりなのでは、という理論です(時間だけがゆっくり減らしてくれる)。

 

だから、私も、イライラしたとしても、愚痴や八つ当たりで人にぶつけずに、時が経つのにに任せたり、何かストレス解消をしたりして、折り合いをつけるのがいいのではと思っていました。

 

最近でも、イライラすることがあれば、その想いを紙いっぱいに書き殴って、それをゴミ箱に投げ捨てるだけで、楽になれる、ってそんな話も聞きましたし、自分の中だけでイライラを上手く処理することも不可能ではないのかもしれません。

 

でも。

 

私が大きくなるにつれて気づいたのは、それらの一人で解消する方法は対症療法でしかなくて、それで減らせるイライラの量を超えて、イライラが次から次へと流入してくることがありえるということでした。

一人でコントロール可能な量を超えて、イライラが増えてしまう人は居るのです。

 

例えば、当たられやすい人というのがいます。

誰かがイライラしてる時に、その八つ当たりを受けやすい弱い立場の人。そしてその人が当たる先が無いような人。

あるいは何かのコンプレックスを持っていて、ただ生きているだけでも、「普通に生きている人」でさえ恵まれているように見えて、「普通の人」が「普通にしてる」ことにさえ、常にダメージを受けてしまう人。でも、「普通の人」に悪気もないし、悪くもないのも分かっているから、彼らに当たることもできなくて自分で抱えるしかない人。

 

そうゆう人は、コントロール可能なイライラ量を超えてしまうことはありえます。

独り手動でかき出して減らそうとしても、追いつかず自分の心の容量が満ちてしまうことがあるのです。

 

だから、こぼすしかないのです。愚痴を。

 

というか、自然にこぼれるのです。愚痴が。

 

そうでなければ、イライラのエネルギーの圧力で爆発してしまうだけですし、残念ながら実際にそうなってしまう人も少なくありません。

 

  ◆

 

さて。

私も大人になってから気づいたのですが、「イライラ保存則」を破る鍵こそ、実は愚痴なのです。

 

もちろん、上で「つまらん話を聞かされる方の身にもなってみろ」という愚痴の聞き手の不満を挙げたように、愚痴を言うことで結局イライラの総量が解消されないことも少なくありません。

 

ただ、それは相手によるのです。

 

愚痴を聞く相手も、同じような「愚痴の種」を抱えていて、共感が得られた時、お互いにそのイライラはスッと消え去ります(消えないまでもかなり減ります)。

 

分かりやすい例では、同じ職場の同僚と飲みに行って、共通の上司に対する不満を語り合う時なんて、まあ非常にスッキリしますよね。それはお互いに共通の「愚痴の種」を抱えているからです。

 

他にも、(「愚痴」と言ってしまうと怒られてしまうかもしれませんが)先日話題になった下の記事は、同じように育児の悩みを抱えてるママさんたちがそれを吐き出しあい共有することで楽になることができた好例でしょう。

 

育児ノイローゼになりかけて、自治体に電話した話 - yuki's blog...育児ノイローゼになりかけて、自治体に電話した話 - yuki's blog...

私の住んでいるマンションの隣の部屋のご夫婦に、赤ちゃんが産まれました。引っ越しの挨拶に行った時に、「子どもがうるさかったらすみません。」と言ったところ、向こうの...

 

「愚痴」は寂しがりやなんですよ。

仲間に会えれば、喜んで成仏してくれるんです。

 

トランプのババ抜きをイメージすると分かりやすいと思います。

相手のカードを引いて、同じ数字でペアを作れたら捨てることができますよね。

でも、違う数字のカードを拾ってしまうと、どんどん手札が溜まっていってしまい、かえって辛いことになる。

そんな感じです。

 

「イライラ」という「ジョーカー」を捨てるためには、相手の手札にも同じ「ジョーカー」が必要なのです。

それが失敗した時に、「あんたの方が悪いんじゃないの?」とか「つまらん話を聞かされる方の身にもなってみろ」なんて、イライラが減らない残念な結果に終わってしまうだけなのです。

でも、上手く欲しいカードを持った相手に愚痴ることさえできれば、「イライラ保存則」を破り、「イライラ」を消すことは可能なのです。

 

 ◆

 

共感を得ることで「イライラ」が解消できる理由としては、多くの場合「イライラ」が「孤独感」を「種」に持っているからではないかと、私は考えています。

 

「自分だけが異常なのではないか」

「自分だけが不運なのではないか」

「自分だけが悪い人間なのではないか」

「自分だけが欠陥品なのではないか」

「自分だけが甘えているのではないか」

 

そんな「自分だけが」という「孤独感」が自責の念につながり、「イライラ」を呼び起こしているのです。

 

例えば「愚痴」に対して正論で返しちゃう方がいます。

「愚痴」をこぼす人は正論や解決策ではなく、共感を求めてる――などと、これがあまり良い手ではないというのは、色々なところで言われていることですが、その理由はおそらくここにあります。

 

「愚痴」を言う人は、内心もう既に、正論をもって自身を責めているのです。

 

正論の視点からすれば、自分の方が「違う」――それは分かってる・・・でも、やっぱり辛い。。。

と、その正論と自分の感情とのジレンマに既に悩まされているのです。他人から言われずとも既に分かっているのです。

 

というより、そのジレンマに陥らなければ、基本的に悩む必要がありません。自分を責める理由がありません。

自分の感情が「正しい」なら、一般に認められているなら、別に愚痴らなくとも、堂々と言えますし、感情のままに行動しても咎められることはないのですから。

 

上司の愚痴を言う時も、ちょっとは「上司の言うことにも一理あったな」という気持ちがあったり、「上司の命令には従うべき」という正論から、堂々と言えないからこそ、愚痴なのです。

 

育児中のママさんも、「私は子どもを愛せてない母親失格な無慈悲な人間なのかも」とか「私が甘えてるだけでみんなもっと頑張ってるのかも」とか、「母は子のために無償の愛をもって尽くすべし」という正論の呪縛から、いつしか追い込まれてしまうのでしょう。

 

既にそこに正論はあるのです。

むしろ、ありすぎるぐらいに。

 

だから、そういう時に必要なのは、正論ではなくて、その「気持ち」を持ってしまったことを一緒に感じてあげる「共感」なのです。

 

そして、そんな「共感」を得るために必要な行為が「愚痴」なのです。

 

 ◆

 

このように、私は「愚痴」の「イライラ」を消せる能力をすごく大事に思っていて、「愚痴」という行為は人間の心の防衛反応として自然な動きと考えています。

 

しかし、上でも挙げた通り「愚痴」というものには、一般にネガティブなイメージがついています。「愚痴」の「愚」とか「痴」というのも、そもそもあんまり良い字があてられていません。

 

確かに適切でない相手に愚痴がこぼれると、むしろ「イライラ」を広めてしまうことがあります。多分、そのようなことから「ネガティブ」なイメージが付いてしまったのだろうと思います。

 

ただ、だからといって、「愚痴」のポジティブな側面を軽視して、「愚痴は良くない」とか「文句ばかり言って、甘えるな」というような空気が築かれてしまったのは、非常に危険なことではないでしょうか。

 

「正論」に反するような感情を抱いてしまったジレンマから、心が爆発しそうなそんな人に、最後のはけ口である「愚痴」をも「正論」で蓋をしてしまうような、そんな状況です。

漆黒の心の迷路の中に、独り追い込み、閉じ込めるような、そんな残酷な仕打ちなのです。

 

ポジティブな気持ちで居れば大丈夫とか、他の楽しいことをすればストレスも晴れるとか、このテクニックを使えばイライラもスッキリとか、そう言って「愚痴なんか必要ない」って主張できるのは、ただの「普通の人」や「正しい人」から大きく逸脱してない範囲の人の言い分なだけかもしれないのです。

 

もう自分だけではコントロール出来ないほど、「イライラ」を貯めてしまってる人、下手をすると「イライラ」を押し付けられてる人が、世の中やっぱり居るのですよ。

 

その事実は前回の記事のようなデータから、私たちはもう気付いてあげないといけないのではないでしょうか。

 

私たちは、身体が冷えた時にくしゃみをしたり、眠い時にあくびをするのと同じように、イライラが募ると愚痴をこぼす生き物なのです。

そして、それはまるで呼吸のように、止められると死ぬことだってあるのですよ。

 

 ◆

 

今の時代はインターネットが普及して、「愚痴」を巡る環境も大分変わってきました。

 

上司に対する愚痴などは、共通する「愚痴の種」を持っている人がだいたい近くに居ますし見分けるのも簡単ですが、見た目では分からない心の奥底のコンプレックスなどは、共感できる人を探すのが非常に難しいのです。

結果、外れのカードを引いて、「イライラ」がむしろ拡散増加する悲劇も多々起きたことでしょう。

 

しかし、インターネットを使えば、匿名で広く薄く「愚痴」を発信することができて、検索でヒットしたり、タイトルなどに惹かれて、本来ならなかなか会うことができない同じ「愚痴の種」を持った人たちが集うことができるようになりました。

世界に離れ離れになっていたり、地中深くに隠されていた、稀なジョーカーが、なんとペアになって解消できるようになったのです。

これはネット時代以前には考えにくい奇跡的なことでした。

 

私自身、昔荒れていた時、ネットをさまよっていて、そこで出会った人たちにすごく救われました。

「自分が独りじゃない」と思えることが、ただそれだけで、どれだけ楽になったか。

そして、人の辛い話を聞いてあげるだけでも、どれだけその人を助けることができるか。

あまり感情を表に出さない子だった私が、愚痴星人になったのは、その頃からです。

 

ただ、ネットならではの悲劇もあります。

ある意味で広く無差別に公開しているだけに、その「愚痴」が、いわゆる「普通の人」の目にも触れることがあることです。

「愚痴ゾーン」に迷い込んだ「普通の人」が、「何言ってんだコイツ」と正論をぶつけてしまうのです。

 

これは決して、その「普通の人」が悪いわけではありません。

むしろ「イライラ保存則」的には、理不尽によく分からない愚痴をこぼされた被害者とさえ言えるでしょう。

ネットを介して同じ手札同士が出会いやすくなった半面、合わない手札同士が会うことも起きやすくなってしまい、両者にとって不幸な衝突が時折起きるようになってしまったのです。

 

もちろん、愚痴を言う側が悪いケースもあります。

「普通の人」向けにわざわざ愚痴をぶつけにいったり(話題の「繊細チンピラ」とか)、「普通の人」の人格まで否定するなどさすがにこき下ろしすぎていたり(「普通の人」はそれだけでは何も罪はないのに)。

狭い世界に閉じこもった結果、外の世界のことを忘れ、悪ふざけがエスカレートして外を攻撃してしまう、そんな残念なケースも後を断ちません。

そのような同志の「共感」を得る以上の破壊的な活動は、やはり控えるべきだと私は思います。

 

しかし、そのあたりの配慮をしていても、公開されている以上は、どうしても「愚痴」が思いもよらないところにかかってしまうことがあるのです。

 

通りすがりのトラックから跳ね水をもらったようで、不快ですよね。

そう、それは分かります。

 

でも、だからといって、「正論コメントを並べたてる」とか「反論されるのが嫌なら公開するなと言う」とか「拡散・炎上させてつぶしにかかる」とか、そこまでやっていいものかどうかは、少し待って欲しいのです。

それらが正論であればあるほど、「愚痴を言えない空気」を形作ります。

それがいかに一定の人たちから、逃げ道を閉ざすものであるか、イライラを急増させるものであるか、想像して欲しいのです。

 

ただそれだけで、人の首を締めることにもなるのです。

あなたに全くそんな気がなかったとしても。

 

もし、「イライラ」をもらってしまって、でもそれが相手の意図するものでない事故のようなものであれば、相手に仕返しする「イライラ反射則」を使うことなく、こちらで消化してしまうのが良いのだと思います。

自分の中でコントロールできる人はそうして、そうでない人は、あなたの同志の中で「愚痴」をこぼせばいいのです。その愚痴を相手にぶつけ返す必要はありません。

 

ただ、陰口でいいのです。

 

陰口は、「陰」でするから、陰口です。

運悪く聞かれてしまったならまだしも、わざと本人に聞こえるように言うのは陰口ではありません。

陰で同志の中で消化する限りにおいては、陰口は効率よく「イライラ」を消す良い方法で、そして他人を傷つけない思いやりのある方法なのです。

 

特に正論側にいるならば、同志を見つけるのは簡単です。陰口の場所だって選び放題でしょう。

だから、相手に悪気がないようならば、目をつぶることも考えて欲しいのです。

「正義」ならばこそ、納めどきが肝心です。

ただ振り回すだけなら、それは「暴力」と何ら違いはないのですから。

 

 

そして、もちろん、マイノリティの愚痴を言う側も配慮が必要です。

数が少なく、離れ離れに会うために公開せざるを得ないのはそうとしても、それができる限り同志でない人にも不快でないようには心がけないといけません。

あくまでこれは「共感」を得るため、同志を探すための行為であって、無実の人を傷つけるためではないのですから。

 

「愚痴」をこぼすとは言っても、なるべくこぼれないように、まるで注ぐように、できるかぎり跳ね散らないように、意識しないといけないのです。

 

愚痴をこぼすけれども、こぼさない。

 

多分、それが愚痴星人の掟なのです。

 

 

 

 

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P.S.

長々と書きましたけれど、一般的に「愚痴」が言い難いことに対する壮大な愚痴でした(^_^;)

 

もっと「愚痴」は認められてもいいと思うんですよね・・・。

確かに単体ではネガティブな存在なのかもしれませんけれど、マイナスとマイナスをかけたらプラスになるような、そんな瞬間もあるのですから。。。

 

どれだけターゲットを絞り込んで愚痴れるか、それが難しいのは難しいのですけれど。