雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

「普通」と付き合う方法

普通に仕事して、

普通に結婚して、

普通に子供作って、

普通に生活できたらそれでいい。


でも無理。

全部上手くいかない。

自分のせい?世の中のせい?

 

―― 普通に生きることが難しい時代

 

 

 引用・・・というか全文ですが、先日こんな記事を読みまして。

 

ええ、「普通」って、確かに魅力的というか、魔力があります。

 

「これが普通だよ」って言われると、なんか、そうならないといけないような気がするし、そうなりたいような気もしてしまいます。

ただ、そういった「普通」への呪縛のために、こうやって生きづらさを感じる人も多いのも事実で。

 

私ももちろん、時々はそんな「普通」への呪縛から、ネガティブになって独りの夜に枕を濡らすことがあるにはあるのですが、一方で「普通じゃない状態」をけっこう楽しめてしまってるんですよね。

多分、楽しめるようになってる要因としては、私が「変人」であることが大きいです(笑)。

 

物心付いた時から、「変わった子」と言われ続け、時には蔑まれ、時には驚嘆されて生きてきました。

小さい頃にやった「アブノーマルチェック」というゲーム(YES/NOの2択に答えて自分がどれぐらい少数派かどうかを測るゲーム)では、確か「400万人に1人の逸材」というトンデモな結果が出て、未だに印象深いです(^_^;)

もちろん「変人扱い」は現在に至っても健在で、「雪見みたいのが普通だったら世界は終わりだわ」なんて酷いことまで言われます。

 

なので、良くも悪くもあんまり「普通だった経験」が無いので、たまに「普通」に憧れることはあっても、現実感に乏しく、そんなに執着はわきません。

 

たとえば、どうでしょ。

「君って普通だよね」

って、言われたら、「普通」は嬉しいんでしょうか?

私はなんだか「ガーン」ってなります(あまり言われたこと無いから、多分)。

 

逆に、

「雪見は変だよね」

って言われると、「ひどい!」って口では言いつつ、けっこう内心喜んでます(これはしょっちゅう言われます)。

といっても、「絶対、変って言われて喜んでるでしょ、あんた」って、既に周りにはバレバレなのですが(/ω\)

 

 

さて、そんな感じで、「普通」ってやつは、私たちにとても大きな影響力を持っていて、時に人の希望となり、時に人の絶望になる、やんちゃな輩です。

 

ということで今回は、「変人」の私なりに、そんな「普通」というものについてボーっと考えてみたいと思います。

 

 「普通」が生まれる時

そもそものそもそものそもそも。

私たちを惑わす、この「普通」ってやつぁ、いったい何者なのでしょう?

 

冒頭の記事にならうと、「仕事をすること」や「結婚すること」や「子どもを産むこと」などが「普通」というもののようです。

でも、誰がそれを「普通」って決めたのでしょう?

何の基準をもって「普通」に認定されたのでしょう?

 

「多くの人がやってること」というのが、多分出そうな回答です。

なるほど、確かに何となくそれっぽいですよね。

 

でもですよ。

 

みなさん、「多くの人がやってることかどうか」って、確かめたことあるでしょうか?

例えば日本の中なら日本の中で、「結婚」が「普通」かどうか、「日本人の多くが『結婚』をしているかどうか」って確かめたことあるでしょうか?

 

こう言うと、

「何をバカなことを。そんなの統計データでいくらでも出てるじゃないか。例えば日本における○○年の未婚率は△△%で・・・」

そう仰る方がいるかもしれません。

ですが、ちょっと待って下さい。

 

私たちは、統計データを見てから初めて、「結婚するのが普通」って思ったんでしょうか?

いえ、そうではないはずです。

 

小さい子どもだって、聞いてみれば、「○○先生と結婚したい!」とか「将来は綺麗なお嫁さんになりたい!」などと答えるそうです。

「結婚するのが普通」という感覚は、子どもにも普及しているのです。

さすがに幼い彼らが統計データを見て、「結婚するのが普通」と知ったはずはありません。

でも、「結婚するのが普通」と既に感じているのです。

 

そう、統計を見る前から、私たちは既に「結婚するのが普通」って思っているのです。

まあ、そりゃ、「結婚」の統計データを確認して、「あ、結婚する方が普通なんだな」って初めて合点がいくって人は、そう多くはないですよね。

「結婚するのが普通」って思ってた上で、統計データを見かけて「ま、こんなものかな」と理解するのが関の山ではないでしょうか。

 

同じように、「仕事をすること」や「子どもを産むこと」だって、わざわざデータを調べてみて理解したものではなく、成長するうちにいつの間にか私たちの意識の中に「普通のこと」として刷り込まれているのです。

 

では、どうしてそれを「普通」に思うようになるかと言えば、多くの人に当てはまる一番大きな要因が「親の存在」です。

 

子どもが子どもとしてそこに存在している以上、まずほとんどの場合、親は結婚していて子どもを産んだことがあり、また子育てをできるぐらいには仕事をしています。

理論上、子どもとして生まれてみたら、「保護者は独身で子どもを産んだことがない(父親でもない)、そして無職」という確率はひどく低いものになります。なぜなら、結婚したことがなく、子どもを作ったことがなく、定職が無い人は、子どもが「降って湧いてくるもの」でない以上、「子どもを育てる」という状況にほとんど縁が無いからです。

 

となると、子どもにとっての「親」の結婚率や出産率は、社会全体でのそれより大きくなります。

たとえば、極端な話、1万人に1人の女性しか子どもを産まない世界(出産率0.01%)だったとしても、子どもからしたら「母親が子どもを産んだことがある確率(出産率)」は100%ですよね(現代では代理母などのテクニックもありますが・・・)。

 

子どもの「世界」は狭いです。

幼児期は多くを「家庭」で過ごし、そこが「世界」です。

学童期になって学校に行くようになって「世界」が広くなっても、遊び相手は「子どもたち」、多くは「親が結婚して子どもを産んで働いている家庭」で育った、そんな「子どもたち」です。新しく登場した大人も「先生として働いている人たち」です。

 

つまり、子どもが子どもとして育っている間は、やたら「結婚している人」「子どもを産んだことがある人」「働いている人」にばかり遭遇する環境に置かれているのです。

「もちろん独身の人」や、「子どもを持たない人」、「働いてない人」に出会うことが皆無ということはないでしょう。でも、「両親」という強力な関係性の人物の存在や、多くの友達の親御さんがそうでないという「数の暴力」で、彼らの存在感は薄められてしまいます。

 

私たちが「蛇口をひねれば水が出る」と信じているのは何故でしょう。

それは「蛇口をひねったら水が出る」という経験を何度も繰り返したからです。

何度も同じことを経験すればそれは「当たり前」になります。「蛇口をひねったら水が出るのが普通」になります。

そうなると、もはや「蛇口をひねって水が出ないこと」に遭遇しても、「この水道がおかしい」になりますが、もしも逆に初めから「蛇口をひねっても何も出ないこと」を何度も経験させられていれば、それが「普通」になるでしょう。

 

それと同じです。

子どもの時期に、自然と「結婚している人」「子どもを産んだことがある人」「働いている人」にばかりに触れることになる結果、私たちにとってそれが「普通」になるのです。

 

「普通」になれない時

つまり、「普通」というのは、「統計データ」などを見て理解した結果私たちの中に取り込まれるものではなく、「自分が接した周りの人の平均」として自然に生まれるものと言えるでしょう(特に関係が近い人を加点する「加重平均」のような感じでしょうか)。

「自分の周りの世界」を代表する価値観が、自分の思う「世間の普通」になるわけです。

 

ここで注意が必要なのが、「自分の普通」と「世間の普通」は分けて考えることです。

時々、「自分が普通で、社会が間違ってる!」と言う人がいますが、これは「普通」かどうかではなく、正確には、「自分の普通」が正しくて「世間の普通」は間違っている、という善悪の観点の話になっています。

「世間の普通」と「私が思う正しいこと」を対立させているので、これはこれで「世間の普通」というものを自分の中に持ってはいるのですね。

 

今回は「普通になれなくて生きづらい人」をテーマにしたいので、そんな私のような天邪鬼っ子は置いておいて、冒頭の記事のような「自分の普通」が「世間の普通」と一致している人、つまり「世間の普通であること」が「私が思う正しい姿」になっている人について考えてみます。

 

多くの人にとって「結婚」や「出産」や「就職」が「普通」になるのは、子どもとして育ってきた環境にそれらの要素が多いためと言いました。

で、その子どもが晴れて大人になった時、彼ら・彼女らにとってそれが「普通」かどうかと言うと、そうではない厳しい現実が待ち受けます。

 

先程も書いたように、子どもにとっての「親」の結婚率や出産率は、社会全体でのそれより基本的には大きくなります。

つまり、「自分の周りの世界の普通」すなわち「自分の思う世間の普通」は、社会全体の「真の普通」と違っています。

「子どもの親」にとっては「普通」でも、「大人一般」にとっては「普通」でなくてもおかしくないのです。

さきほどの極論で言えば、母親の姿ばかり見て育った結果、大人になれば子どもを産むのが「普通」と思いこんで社会に出てみたら、実は1万人に1人しか子どもを産まない社会であってもおかしくないのと同じです(これは、さすがに社会に出るまでにどこかで気づいて欲しいですが・・・)。

 

なぜ、こんなことになるかと言えば、結局のところ、「自分の周りの世界」というのは「社会全体の縮図」ではなく、どうしても偏ってしまうからです。

 

私たちの住む場所や、周りの人たち、その他様々な環境因子というのは、別に社会の無数の要素の中からクジ引きをしてランダムにピックアップされたわけではありません。

「富裕層」の周りの人たちは「富裕層の人」に偏ったり、「貧困層」の周りの人たちは「貧困層の人」に偏ったり、神様はわざわざ「あなたが平均的に色んな人と逢えますように」ってランダムに周りの人を配置してくれません。

「親が政治家セット」とか「親が医者セット」とか「親が教師セット」とか「親がヤクザセット」とか「親が生活保護セット」とか「親がいないセット」とか、とても「社会の縮図」とは言えない「偏ったセット環境」で用意してくれます。

 

それは仕方がないことです。

でも、その結果、私たちの「普通」も、社会の「普通」から自然に偏ってしまうのです。

 

だから、「結婚が普通」と思っていたけれど、世の中には「結婚できない(しない)人もいる」ことが、子どもの頃から育ってきた「家庭セット」から出てきてみて初めて分かることになるのです。

「子どもを持っている親」にとって「結婚は普通」だったけれど、まだ「子どもを持っていない私」にとっては「結婚は普通ではない」のです(※つまり、標本と母集団が実はうまく対応できてないわけです)。

 

もちろん、さすがに「社会の結婚率は100%」と思って成長する人はいないでしょう。周りにも独身の叔父さん叔母さんがいることがあったり、テレビや本などでもそういう情報は入ってくるでしょうから。

しかし、100%とまではいかなくても、無意識の内に「結婚するのが普通」と「高い見積もり」を出してしまっていれば、それよりも低い期待値の社会に出た時に、失望する方が出るのは避けられないのです。

 

この「期待値の落差」が「普通」の呪縛の残酷なところです。

普通に「普通になりたい」と思っても、理論上、普通は全員は「普通になれない」のですから。

 

「普通」と付き合う方法

「普通」に縛られてしまう価値観は「結婚観」だけにとどまらず、「仕事」やその他無数にあります。

するとその「期待値の落差」がどんどん積み重なって、さらに「普通」になれなくなっていきます。

サイコロは「1~6」しか出ないと思っていたら、実はそのサイコロは8面体で、何度も何度も振っているうちに、時々、出ないはずで、出したくもなかった「7」や「8」が出てしまう、そんな感じです。

運が良い人はそれでも「1~6」の「普通」の目を出して勝ち逃げできるかもしれません。

しかし、いくらかの人、もしかすると少なくない人が、悲しいことですが、まさかの「7」や「8」が出て絶望し、自分を責めてしまうのです。

 

さて、そんなこんなの「普通」の呪縛の恐ろしさを踏まえて、私なりに「普通」との上手い付き合い方を考えてみたので、ご紹介してみます。

 

①「変人」になる

わ、怒らないで!(笑)

 

いえ、ほんと、これでも半分ぐらいは真面目に言ってるんです。半分かい・・

 

先程も少し書きましたが、「自分の思う普通(正しさ)」と「(自分の認識する)世間の普通」というのは実は分けることが可能です。

「世間の普通であることが正しいこと」と思う必要は無いわけです。つまり、「変になってもいい」って思うことさえできれば、「普通」じゃなくなっても辛くないのです。

 

そう、「変人」になれば解決です!

 

「それができれば苦労しないんじゃ、ドアホ!」って声が多数聞こえるので、それ以外の対策は次項以降でちゃんと書きます(^_^;)

 

でも、ひとつちゃんとここで言っておきたいのは「完全な変人」になると、それはそれで大変ということです。

 

多少、社会全体から見ると偏っているとはいっても、成長する過程で色んな人と出会って培ってきた「普通」は、長時間かけてかなり多くの人をサンプルにしてきただけあって、やっぱりそれなりには「普通」です。

それにことごとく「反対の行動」を取るのは、あまりオススメできません。

 

「普通」というのは多くの人が行うだけあって、他人や環境や制度や社会の空気がそれをサポートしてくれるので、(結果はどうあれ)進む上では一応整備された道にはなっていて、燃費は良いことが多いです。

「普通じゃないこと」は、前例が少なかったり、支えてくれる仲間や環境があまりなく、道なき道を行くことになり、それなりに気合いと努力が要ります。ものによっては下手すると犯罪になっちゃう「反普通」もあるでしょう。

だから、何でもかんでも「反普通」しちゃうような「完全な変人」になると労力は半端ありません(それに犯罪はダメです)。

 

なのでオススメは半分ぐらい「変人」になることです。

「結婚なんてしなくていい!」とか決めつけずに、「結婚するのもしないのもそれぞれいいけど、とりあえず『普通』の結婚の可能性を残すコースで進んでみよう」などと、「普通」にこだわらないまでも乗っかってみる。

「結婚するべき」と「結婚しないべき」のちょうど中間というか、そんなフワフワした立ち位置です。

もちろん、特に自分のこだわりのある領域があれば、「普通」に限らず、「自分の道」を行くのが良いと思います。

ただ、あんまりこだわりがない領域であれば、「普通」に乗っかっておく、そんな意識です。

 

一応乗っかるので、「結婚するのもしないのもどっちでもいいんだー」とはあまり言わず、「結婚したい気持ちはあるんだけど」と対外的には言っておきつつ、内心では「あんまりこだわってない状態を保つ」のが良いでしょう。その場合、もし「普通に結婚できなかった」としても、「ま、いいか、結婚しない人生もまたよろし」になることが可能です。

 

私は個人的には、これがすごく良い状態だと思うんですよね。

だって、「結婚するのが普通だと思ったからあなたと結婚する」とか、「子ども産むのが普通だと思ったからあなたを産んだ」とか、「仕事をするのが普通だと思ったから働いてみた」とか、何か違和感なんです。

 

「それって、結婚するのが普通じゃなかったら、結婚しなかったってこと?」って思ってしまって。

そんなので「愛してます」とか「働くのはやりがいがあります」って何だか、「あなたはどこにいるの?」「あなたの意思は本当にそこにあるの?」って思ってしまって。

 

逆に「何でもかんでも反対する」っていうのも、結局それは「普通」にこだわりすぎてて、「反対したいから反対してる」のようで、「その人の意思」が感じられないし。

 

だから、あんまり肯定方向、反対方向どちら向きにも「普通」にこだわらない、一応「基準の道」として参考にはするけど、なるべく自分で決める、こだわりたいところにこだわる、そんな「半変人」がちょうどいいのかなって、私は思うのです。

 

「結婚してもしなくてもよかったけど、あなたと会えて結婚したいなと思ったから結婚した」

私としては、そんなんがいいかなーと。

 

②「真の普通」を追求する

わー、脱線しましたね(^_^;)

ということで、次は「変人」になれない人用の対策です。

 

「やっぱり、私は普通でありたい!」そんな人にオススメは、「真の普通」の追求です。

「普通」を求めるからには思う存分追い求めていただきます。

 

とりあえずは、まず、今、自分が抱いている「普通」が本当に「普通」かどうか、チェックしなくてはいけません。

その「普通」はどうやって培われてきましたか?

 

え、「今まで生きてきて色んな人と会って話をしたり、本を読んだり、テレビを見たり、色んなところに行ったり、様々な豊富な経験を通して、普通の感覚を手に入れた」ですって?

 

うーん、でも、そうは言っても、

例えば、日本の人、全員と会ってないですよね?さらに言うと、世界の人は?

出版されてる本、全部読んでないですよね?

テレビも全部見てないですよね?

豊富な経験といっても全ての仕事を体験したりしてないですよね?全ての町に行きました?

 

そうやって、社会の全てを知ってないのに、なんで「普通が分かる」って言えるのでしょうか?

おかしいですよね?(・ω・)

 

 

・・・まあ、ちょっと意地悪でしたが、でも、そういうことなんです。

 

先程から何度も書いていますが、自分の抱く「普通」は、「自分の見聞きした、認知できた世界」の中の「普通」です。

自分が世界の全てを認知できてない限り、それは「真の普通」ではないのです。

 

もちろん、「そんな広大な話でなく、自分の周りの世界の普通で十分」って、そう言う方もいるでしょう。

でも、今まさに「普通になれなくて苦しんでいる状態」と言うなら、上で書いたような「期待値の落差」にはまっていて、実はあなたは「その世界からはみ出した」可能性が高いのです。つまり、従うべき「普通」が他にある世界(0.01%の出生率)に既に踏み出しているのに、以前の世界の「普通」の幻想(100%の出生率)を追いかけているのかもしれないのです。

 

私たちは生きていく中で、日々「私たちの世界」は更新されていき、小さくなったり大きくなったりしています。そして、その都度、本当は「私たちの世界の普通」も変化していっています。

「普通を求めていたのに、自分が普通で無くなった」と苦しむようになった時、確認しないといけないのは、どこかで自分の中に抱いている「世界の普通のイメージ」を更新するのをやめていないかということです。

「世界」の形が日々変わっているのに、それに合わせて自分の抱く「普通」を変えなければ、そりゃ行き違いが出るに決まっています。

子どもの頃、周りが「親」ばかりだったからといって、「親になるのが当たり前」と思えば、いつしか「親ばかりが集まってない世界」に足を踏み入れた時、何かがズレてしまうように。

 

「普通でありたい」そう思うなら、「昔の世界の普通」にこだわる必要はありません。むしろ、それはもはや「今のあなたの世界」ではきっと「普通」でないのです。

 

幸い、世界の「真の普通」を追求するには、本当は全員にまで会わなくてもいい方法があります。

それは、この社会に居る人を、なるべくランダムにピックアップすることです。

統計学的には、全員に会わずとも、ランダムにピックアップした上で、それなりの人数に会えば、そこそこ「全員に会ったような感覚」には近づけるのです。

しかも、人は皆それぞれの「周りの世界」を通じてそれぞれの「普通(周囲世界の平均)」を抱えて生きているので、そんな色んな人の「普通」を感じて回れば、かなり「世界の縮図(平均の平均)」に近いものが得られると言えます(中心極限定理)。

 

でも、ランダムに会うのは大変です。

私たちはどうしたって会いやすい人に会うのですから。

ボーっとしてたら、それは偏ってばっかりで、全然ランダムに近づけません。

 

だから、普段会わないような人に会いに行きましょう。

普段やらないようなことをやりましょう。

普段行かないようなところに行きましょう。

普段読まないような本を読みましょう。

 

いけ好かないあの人とも話をして、興味が持てなかった分野も勉強して、魅力を感じてなかった町に旅に出ましょう。

 

それが「真の普通」の探求者です、「世界の縮図」を求める旅人です。

 

それを「自分探し」と揶揄する人もいるかもしれません。

でも、それは適度に放っておきましょう。

 

「普通でありたい」あなたにとって「世界の普通」は「自分の普通」なのですから、あなたの「世界」が広がれば、その度にあなたも確かに変わっているのです。

 

そうして、「世界」を更新し続けていれば、「普通」を書き換え続けていれば、「私は普通じゃない」なんて悩むことはなくなります。

 

まだまだ「真の普通」に到達していないあなたは、これからも色んな人に会って、色んなことをして、色んなところに行かないとといけないから、悩んでる暇などないのですから。

 

③「普通」の先手を取る

とまあ、①②と紹介したのですが、いかがでしょうか。

でも、「普通」でありたい人も、そうでない人も、こうやって考えてみると「普通ってナンジャラホイ」って思えてきたのではないでしょうか。

 

ただ、ちょっと上の2つは空想的というか、抽象的というか、現実感が薄いので、納得いかない方も多いことでしょう。

というわけで、③では、もうちょっと現実的な手法を紹介――する予定でしたが、すでにとっても長い記事(既に9000字)になったので、これはまた今度別記事でやることにします(^_^;)

 

またいつかお楽しみに♪

 

 

「普通」でもなく、「普通」でなくもなく

強引にまとめに入ります(汗)

 

はてさて、こうして見ると「普通」って、変な存在です。

 

これほどまでに私たちを惑わしたり、苦しめたりして、凄い存在感があるのに、いざ触れようとすると実体が無いような。

どこにも無くて、どこにでもあるような。

 

先ほど、「普通」を求めて、「世界」を旅させる話をちょっと挙げましたけれど、実のところは「普通」というものは多分「世界」には無いのでしょう。

 

それは、やっぱり私たち一人一人の心の中に在るのです。

 

だから、どこにでもついてきて、何を考えてる時もしゃしゃり出てきます。

 

鬱陶しい、でも、無くてもいいとは思いません。

 

私たちが立つ時に大地という足場が必要なように、「普通」という重力場は私たちの思考には必要なものなのだと思います。

 

「普通と比べて何が違う」

「普通と比べてどう違う」

「普通と比べてなぜ違う」

 

そうやって考える私たちは、「普通」という核が無ければ、思考は発散して、おそらく何もまとまりません。

だから、「普通」の感覚は必要不可欠なのです。

 

ただ、その「違う」ってことを、重く感じすぎないことが大事なのだと思います。

 

私がよく言うセリフですが、「違う」というのは"different"――「違っている」であって、"wrong"――「間違っている」ではないのです。

 

 

重力は私たちが生きていくのに必要です。

 

でも、それを重力の枷として自分を縛る必要はありません。

 

空を飛びたいと思えば、私たちは飛んでいいのです。

 

「普通」が辛いなら、時には「変人」でいいじゃないですか。

 

 

 

 

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⇧私の適当論ではなく、もっとしっかりした「普通論」の考察はこちらで(^_^;)

 

 

P.S.

・・・ええと、なんでこんなに長くなったの(´・ω・`)

私自身分からない、気づいたらこんなことに。。。

 

ええと、③は、ちょうどいつか書こうと取っておいた他のテーマと被ってて、別記事でもいいかなーと思ってた箇所だったので、延期させていただきました(笑)

忘れた頃にやるかも?

 

本記事では「結婚」の話を主体に進めてますが、便宜上当てはめただけで、みなさんが思う何かに適宜置き換えて読んでいただいてかまいません。

 

あと、もちろんですが、生まれ育ったのが目に見えて「普通の家庭」と違っていた方というのも少なくない人数いらっしゃると思います。そういった方の、「世界観」、「普通観」は多分また違ったものになると思います。

ただある程度、「子ども社会」に同化できた多くの人にとっては、いわゆる「普通」が刷り込まれやすいかなと、そういう例え話ですので、あしからず・・・。