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雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

いじめ、道徳、法律、正義

社会

 

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photo credit: ilkin. via photo pin cc

 

 

目には目を、歯には歯を、・・・いじめにはいじめを?

最近、大津の関係でいじめの問題が取りざたされています。

非常に痛ましい事件で、加害者側の罪は十分に問いただされるべきでしょう。

 

ただ、その追及において、どうしても個人的に気に入らないことがあるんです。

 

それは、ネット上で盛り上がっている、加害者(疑い)の実名を含む個人情報を調べ晒しあげる行為です。

 

 

気持ちはわかるんです。

 

 

加害者は(本当に加害者であれば)、非常にひどい犯罪行為をしたわけですし、怒りを禁じえません。

義憤にかられ、奴らを懲らしめてやりたい、そう思うのは分かります。

 

 

でも、懲らしめる方法はそれでいいんですか?

下手をすると、名誉毀損罪などの法律に引っかかっていますし。

下手をすると、本当の加害者じゃないかもしれません。

 

 

 

――あいつらは悪い奴らなんだから、何をされても文句言えないだろう?

ほんとうに、そうですか?

 

 

 

だって、そのやり方こそが、「いじめ」の型、そのものですよ?

 

 

 

 

見えないルールの暴力

いじめられる子とはどういう存在でしょうか。

 

誤解を恐れずに言えば、それは

「悪い奴」

なんです。

 

もちろん、私がいじめの被害者は悪いと思っているわけではありません。

落ち度があるとも思っていません。

いじめられるべき存在と思っていません。

 

ただ、その「クラス」という狭く閉鎖されたコミュニティにおいては、彼は間違いなく「悪い奴」として扱われたということなんです。

 

その理由は何だったのか分かりません。

ちょっと誰かの気に障る発言をしたのかもしれません。

ちょっと大人しい子だったのかもしれません。

ちょっと外見的に個性があったのかもしれません。

ただ、彼の何かがそのクラスの「なんかむかつく」という「見えないルール」にひっかかってしまったんです。

 

例えばその「見えないルール」は「大人しい奴って、根暗でキモイから何をやっても良い」などという、恐ろしいものであったりするんです。

外の世界では到底許されないそんなルールも、ローカルルールとしてはあっさり成立することがあります。

だから、彼はそのクラスでは「ルールにひっかかった悪い奴」で、その「悪い奴」を懲らしめるのはあくまで「正義」に基づいた行動なんです。

 

 

「正義」だから、歯止めが効かないし、直接の加害者でない傍観者の人からも止めにくいんです。

「悪」に歯向かうのは意外と簡単です。だってそれは善いことだから。

「正義」に歯向かうのは非常に困難です。だってそれは悪いことだから。

 

 

この「見えないルール」の問題点は内容というより、その

 権力者から見て、感情的に「むかつく」ものを「悪」と定めてしまう

という成立方法にあります。

 

 

ちなみに、この「見えないルール」は別名「空気」とも呼ばれています。

 

 

 

見えないルールの暴走

 「見えないルール」が強いコミュニティでは何が起こるのでしょうか。

 

例えば、極端に「見えないルール」が強い状況の一例として、王様や独裁者など1人の人が非常に強い権力を握っている国が挙げられます。

その ような国では王様の気分次第で、簡単に誰かの首が文字通り飛んでしまいます。

「ちょっと非礼を働いた」

「ちょっとミスをした」

「何となく目についた」

そんな些細な理由でも、王様が「この者の首を撥ねよ」と言えば、それは実行されます。

歴史上も、多くのそういった事例が残されていますし、現代においても、一部の地域ではまだ行われていることでしょう。

酷い話であるのですが、そのようなコミュニティにおいては間違いなく彼こそが「正義」ですし「ルール」なのです。

その「ルール」に抵触した者は問答無用で「悪い奴」なんです。

 

 「見えないルール」の特徴は、先ほども挙げた

  「権力者に嫌われた」→「悪い」→「制裁」

 と、単なる感情的判断を、善悪の判断や制裁に持ち込む構造にあります。

 

そして、困ったことに、

 どういう条件を満たしていれば「嫌われる」のか「嫌われない」のか、

 決まってないので、事前には分からない

のです。

 

だからコミュニティに所属している人々は、悪者になって処罰されないためには、際限無く「彼」のご機嫌取りをする他ありません。

時には率先して「彼の気まぐれ」を支持したり賞賛することもあるでしょう。

そうすることで、より一層「彼」の権力は肥大し、「見えないルール」は強化されていきます。

 

「見えないルール」の強いコミュニティでは、こうして「権力者」の暴力が正当化されていきます。

権力の暴走、すなわち感情的な暴力を止めることができない社会になっていきます。

 

 

この「権力者」は、先ほどの専制国家などでは「王様」があたります。

いじめのあったクラスではこれが「いじめグループ」になり、

そして今の日本の社会では「怒れる道徳的な大衆」にあたるのです。

 

 

 

見える法律、見えない道徳

私たちの社会には「見えるルール」である法律があります。

法律は何のためにあるのでしょうか。

 

 「悪い人を取り締まるため」

 

漠然とした解答としてはこのようになるでしょう。

しかし、私は正確にはこれは

 

 「理性的に悪い人を取り締まるため」

 

だと思っています。

 

法律という「見えるルール」を定めることによって、どういう条件を満たしていれば「悪い(制裁される)」のか「悪くない(制裁されない)」のかが、事前に分かるようになります。

法律という明確な条件を守っていれば「気まぐれな制裁」を受けることはないとすれば、権力者の顔色を伺う必要性が薄くなり、ようやく人々は自分のやりたいように、好きなように行動することができるのです。

法律は、人々を「見えないルール」から解放し、「自由」を担保するのです。

 

法律のこの人々の自由を確保するという機能を守るために、重要なことがあります。

 

それは、

 「法律に定めた以外の制裁(暴力)は認めない」

という姿勢の徹底です。

 

せっかく「見えるルール」を決めたのに「見えないルール」も機能していたら、「見えるルール」の意味は無くなってしまいます。

 

だから、仮にも法治国家を名乗るのであれば、「見えないルール」を許してはいけないんです。

たとえ、それが「道徳」であっても――

 

 

 

正義の鉄槌は青白く冷たく輝く

「見えないルール」の恐ろしさは、「むかつく」といったネガティブな感情を「暴力」に直結させる機能にあります。

この点では、いじめも、冒頭で挙げたような「道徳」という錦の御旗に基づく制裁(私刑)も、残念ながら所詮同じ穴のムジナです。

いずれも「むかつくから排除する」という感情的な行動でしかありません。

 

いじめの被害者の弔い合戦に、「いじめの型」で挑んで勝ったとしても、それは本当の勝利と言えるでしょうか?

私にはそうは思えません。

「いじめ」に「いじめ」で反撃したら、私たちは「いじめ」に勝てなくなってしまいます。

 

 「見えないルール」による暴力を、「見えるルール」で裁く。

 

本当に勝つには、これしかありません。

これでしか、「いじめを絶対に許さない」という社会からのメッセージが嘘になってしまいます。

 

 

「むかつくから排除したくなる」

気持ちは分かります。

でも私たちは感情的な彼らとは違うんです。

そこで感情にまかせて暴力に訴えることはしないんです。

そうでしょう?

 

 

「むかつく人の存在を認めること」

それが法の精神で、私たちの理性の現れなんです。

これこそが、人と獣を分かつところで、

これこそが、私たちと彼らを分かつところなんです。

 

 

ただただ、冷静に理性的に法律で定められた捜査や手続きを踏んで行きましょう。

そして、有罪が証明されたら、そこで「暴力」とは違う本当の「正義の力」というものを見せてあげればいいんです。

自分たちが何をしてしまったのか、思い知らせてあげればいいんです。

 

 

まず、筋を通す――

これが私たちの闘い方です。

 

 

 

 

正義の鉄槌は赤くたぎった熱情の中ではなく、

あくまで、

冷静、非情に、そして正確に、機械的に、振り下ろす

のです。

 

案外これも十分怖いものですよ?

 

 

 

 

 

 

 

P.S.

ちょっと解説不足もあるので、道徳と法律の話は、また別の機会にも書きたいなと思っています(道徳をないがしろにするというわけではないのですー)。

 

 

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