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雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

民主主義は衆愚政治になる運命?

選挙が近いですねー。

私は当日は予定が詰まっていてバタバタなのですが、一応何とか投票には滑り込めそうです。

 

投票といえば、民主主義の風物詩。私達が民主主義国家に住んでるということを最も実感できる瞬間です。

 

さて、そんな私たちが当たり前のように思っている「民主主義」というシステムについて、「衆愚政治」という問題点が主張されていることをご存知でしょうか。

 

参考記事

凡庸であれ、バカであれ。/民主主義の限界と未来のビッグブラザー - デマこいてんじゃねえ!

 

「衆愚政治」というのは、簡単に言えば「馬鹿な大衆が主権を持っているせいで国政も愚策ばかりを打ち、結局国そのものが傾いてしまう」という残念な状態を指しています。

 

「衆愚政治」を懸念する人は言います。

「賢い人というのは少数である。残りの多数派は平々凡々な大衆ばかり。そして民主主義において力を持つのはその多数派である凡人ども。政治という非常に難しい高度な知的行為を凡人が動かす。これで政治が上手く行くはずがない。だから、賢人による大衆の啓蒙や、あるいは潜在的な世論操作が必要だ」と。

 

これは何も新しい議論ではなく、古くは古代ギリシャの哲学者プラトンさんも、「こうなるから民主主義はあかんのや」と言って少数の哲学者による政治「哲人政治」を主張していたことが知られています。

全員が参政権を持つのは良くない、少数の賢い者が政治をやるべき、そういうことですね。

大衆の啓蒙や、潜在的な世論操作についても、形式上は民主主義を保っていますが、要するにやっていることは「賢い人に合わせる」ということですから、実質上「哲人政治」に他なりません。

 

――「大衆による政治」なんてダメだ、「エリートによる政治」が良いのだ

 

私たちを取り巻く、民主主義というシステムは常にそんな大きな議論の風雨にさらされているのです。

 

確かに、「お前政治やってみろ」と言われてできると思えるほど自身の賢さに自信がある方や、裏付けがある方というのはごく少数でしょう。もちろん、私も全く自信がありません。

そう考えると「そんな愚かな私たちが政治をやるなんておこがましいことで、やっぱりちゃんと賢い人に任せるべきかも」、なんて、気持ちが揺らいでしまうかもしれません。

 

ただ、私には「民主主義は衆愚政治になる運命」とはやっぱり思えないんですよね。

 

参院選という大きな選挙の直前、私たちが政治について考えるのにとても良いタイミングということで、今日はそんな「民主主義」と「衆愚政治」の関係についてボーっと考えていきましょう。

 

そもそも「衆愚政治」は「民主主義」?

前述の通り、「民主主義は衆愚政治になってしまうからダメだ」という主張があるわけですけれど、この主張に対する私の疑問は「でもさー、そもそも衆愚政治って民主主義なの?」という点です。

 

もちろん、衆愚政治が民主主義の失敗の型の一つであることは間違いないのですけれど、私がひっかかっているのは「民主主義の要素が過剰すぎるから衆愚政治になるの?むしろ不足してるからなったんじゃないの?」ということなんです。

 

例えば、ある病気にAという薬を投与していた患者さんが亡くなってしまったとして、「患者が死んだのはAという薬の過量投与のせいだ!」と断定してしまうのはおかしいじゃないですか。だって、「病気による死を防ぐのにAという薬の投与量が足りなかった」可能性もあるのですから。

 

つまり、ある「失敗の結果」が目の前に生じてしまった時に、まず確認するべきなのは「やり過ぎた」のか「やらなさ過ぎた」のか、だと思うんですよね。

だから、同じように、「衆愚政治」という失敗例を見て、私たちがまず確認するべきなのは、その重要参考人である「民主主義」さんが「やり過ぎた」のか「やらなさ過ぎた」のか、のはずです。

 

で、問題の「衆愚政治」の状況の例としてよく挙がるのが、

「一時の感情に大衆が流されて、早まった政治選択をしてしまう」

「口の上手い扇動者に大衆が騙され煽られて、その扇動者の思う壺の選択をしてしまう」

「地域や親族の利権に縛られて、合理的でない保身的な選択をしてしまう」

などです。

 

いかがでしょう。

これらは、民主主義が行き過ぎた結果でしょうか、不足の結果でしょうか。

 

「やっぱりどれも愚かな大衆が政治選択したせいなんだから、民主主義が行き過ぎなんだよ」

そうおっしゃられるでしょうか。

 

でも、ちょっと考えてみて下さい。

上の衆愚政治の例は、どれも「少数の人間あるいは、少数の概念やパワーが、多数を操作している状況」ですよね。

「何らかのイベントに対する脊髄反射的な感情」という一種の概念が「多くの人」を一気に操作したり、「扇動者」という少数の人間が「多くの人」を一気に操作したり、「地域のや親族の利権」という一種のパワーが「多くの人」を一気に操作したり、どれも「少数による多数のコントロール」です。

例えて言えば、1個のスイッチのON/OFFで100個の電球が一気についたり消えたりする、どれもそんな状況です。

「スイッチ」のような少数者が「電球」のような多数者を一律にコントロールしています。

 

この感じ、何だかデジャブじゃありませんか?

 

そう、これって、よくよく見れば、少数の「賢い人」による多数の「大衆」の操作を狙った「哲人政治」と同じ形なんですよ。

操作しているのが「賢い人」なのか「感情」なのか「扇動者」なのか「利権」なのかが違うだけで、政治選択のスタイルとしては、まるで瓜二つなんです。

 

つまりそれって、あくまで「民主主義政治」に対抗して掲げられてる、民主主義成分を削ぎ落した「哲人政治」みたいなものということですから、「民主主義を過剰に追求した結果のスタイル」とするのは、何だかおかしい話ですよね。

 

そう、だから私が思うのは「衆愚政治」はよく言われるような「民主主義をやり過ぎた結果」なんかではなくって、「民主主義の力が及ばなかった、足りなかった結果」なんじゃないかっていうことなんです。

つまり、「衆愚政治」はもはや「民主主義」ではないんですよ。

 

「賢い」って何さ?

そう聞いても、何だか狐につままれたようで納得できない方も多いと思います。

それもそのはず、「衆愚政治は民主主義成分が不足した状態」という説にはもうちょっと考察が必要ですから。

 

ということで、次に考えたいのは、当然起こりうる下記のような疑問についてです。

 

「スタイルが似ているからって、哲人政治と衆愚政治を一緒にしないで欲しい。哲人政治はあくまで『賢い人』が運営しているのであって、感情的な人間や扇動者などといった『愚か者』とは違う」

 

なんとなく、もっともなお話のように聞こえますよね。

でも、「賢い人」って簡単に言いますけれど、「賢い」って何なんでしょう?

冷静に考えてみれば、そこが不透明ですよね。

 

例えば大学受験やその他の試験を勝ち抜いた学歴エリートが「賢い人」でしょうか?

プラトンさんが言うように哲学に通じて高潔の域に達した哲学者が「賢い人」でしょうか?

過去に政治家として数々の業績を挙げた人が「賢い人」でしょうか?

それとも他にズバッと「賢い人」を選ぶ方法があるのでしょうか?

 

でも、どんなにお勉強ができる人でも、どんなに哲学に通じてる人でも、どんなに過去に業績を挙げた人でも、これからの政治において最善の結果を出せるかは分かりませんし、そもそも彼らが私利私欲のために政治を動かさない保証なんて無いんです。

 

もちろん、すごく政治の手腕が優れていて、しかも公益のために尽くす、そんな人物がこの世に居ないとは限りません。

でも、そんな「真の賢い人」を「扇動者」のような「偽の賢い人」と区別する方法はあるのでしょうか?

そもそも、誰が区別するのでしょうか?

この場合、その区別を大衆がやるわけにはいきませんよね。大衆を「愚か者」と断じた「哲人政治」なのですから。

そうすると、「賢い人」を見分ける「賢い人」が必要になるはずですが、その「賢い人」を見分ける「賢い人」を見分ける「賢い人」はどうやって見分ければいいんでしょう。

 

え、今、すでに「賢い人」って判明している人に、やってもらえばいい?

えっと、それ、その人が「賢い人」ってどうやって分かったんでしょうか?

 

・・・とまあ、もう、なんのこっちゃですよね(笑)

 

つまり、「哲人政治」のような「少数エリート」スタイルの制度を狙う場合、「賢い人」ってじゃあほんとに賢いのか、という点と、そもそも「賢い」ってのがどういうことなのかよく分からない点が、大きな問題なんです。

そしてどうやったって、それが証明できないので、選ばれし「少数」が私利私欲に走ってしまう、その可能性が否定できません。

「哲人政治」としてしばらくやってみたけど、「あ、やっぱり僕達、賢くなかったかも、ごめんね♪」なんてことになっても全然おかしくないのです。

 

結局のところ、「賢い」ということがどういうことなのかよく分からない私たちには「聖人君子」と「扇動者」を見分けるのが非常に困難で、だからこそ、同じように、「哲人政治」と「衆愚政治」を見分けることだってできないのです。

 

「民主主義」の目指すもの

さて、「少数が多数を操作する」という点で「哲人政治」と「衆愚政治」が似たようなもの、というお話をしてきました。

その上で、「衆愚政治は民主主義成分が過剰なのではなく足りない状態」という主張をするためには、「衆愚政治に足りない民主主義成分とは何か」について説明が必要ですね。

ここからは、「民主主義」の目指しているものは何なのか、「衆愚政治」との違いは何なのか、を考えていきましょう。

 

早速結論を言ってしまえば、「民主主義」の「衆愚政治」との最大の違いは、「大衆みんな一人一人が個別に政治の意思形成に参加している」という点にあります。

 

こう言うと、「『衆愚政治』でも大衆はみんな政治に参加してるじゃないか」と言われる方がいるかもしれません。

確かに、「衆愚政治」でも全員、「形式上は」政治に参加しています。

でも、実態はどうだったでしょうか。

1つのスイッチで100個の電球が一斉についたり消えたりするがごとく、一律に支配されています。

この場合、政治の意思決定に関わっているのは「電球」でしょうか。いいえ、残念ながら「スイッチ」の方ですよね。

このように「スイッチ」に一律に支配されている状況では、形式上は政治に参加しているように見えても、実質上はただの「飾り」でしかなくなってしまうのです。

 

これに対して「民主主義」の狙う「一人一人が個別に政治に参加している」というのは、「電球」一つ一つが自ら光るかどうかを決める状態を指しています。

つまり、国民全員が各々の自由意思をもって政治の意思形成に参加しているという状況が「民主主義」の思い描く理想の姿なんです。

 

「民主主義」の「賢さ」

これを聞いて、なんとなく私の言う「民主主義成分」のイメージが沸いてきたことと思います。

しかし、同時に「でもさ、たとえ一人一人が自由意思で政治に参加したところで、平均的に『愚か者』だったらやっぱりダメなんじゃないの?」という疑問も沸くのではないでしょうか。

 

これは、ものすごく大事な疑問で、何を隠そう、ココが「民主主義」の最大の醍醐味、最高にエレガントな発想の転換点、そして最重要部分です。

 

まず、対抗馬の「哲人政治」が政治を行う上での「賢さ」を何に求めたかというと、「個人の資質」に求めたわけですね。「賢い人」を代表にして「賢い政治」をやってもらおう、そう考えたのでした。

それに対して「民主主義」は「賢さ」を何に求めるかといえば、「みんなの自由意思の総体」に求めるんです。

 

ここで、この「みんなの自由意思の総体」の「賢さ」、是非イメージしてもらいたいんです。

先ほどの疑問でもあったように、「凡人が多数集まっても平凡な賢さにしかならない」、ついついそう思ってしまいますよね。

 

でも、例えば、細菌一匹と私たち人間一人が、どちらが「賢いか」と聞かれれれば、(「賢さ」の具体的な定義はできないとしても)さすがに人間の方が「賢い」と思いますよね。

では、ネズミと人ではどうでしょう。やっぱり一応は人間の方が「賢い」と言えるでしょう。

この「賢さ」の差の大きな要因は、それは「脳細胞数」の違いです。

人間の脳は大きく(脳細胞が多く)、他の動物の脳は小さい(細胞が少ない)ので「賢さ」に差が出るわけですね。

特にこの現象については、多くの方が違和感なく受け止めていることと思います。

 

でも、数がいくら多いと言ったって、所詮「細胞」は「細胞」です。脳細胞だって一個取り出してみれば、ただ電気信号を伝えるだけの単純作業しかしてない何の変哲もない「平凡な」細胞にすぎません。

細菌という単細胞生物の一匹より脳細胞が「賢い」、その可能性もあるかもしれませんが、生物個体としてかくも大きな「賢さ」の違いの源とも言い難いのも事実でしょう。

 

そう、もうお分かりの通り、このような脳細胞の増加による「賢さ」の増加という事実は、「平凡なもの」でも「多数集まれば賢くなる」、そういう現象を示しているのです。

 

「賢さ」の「ビット」を集める「民主主義」

より、「集まったものの賢さ」を実感しやすい例が「コンピューター」です。

 

コンピューターが「0」と「1」の2つの数字だけで構成される2進法で築きあげられているのはみなさんご存知のことと思います。

この「0」と「1」の1桁の2進数で表せるデータを「1ビット」と言います。16ビットとか32ビットとか64ビットとか言うあれの最小単位ですね。

これは2ビットだと2桁になるので、「00」「01」「10」「11」の4通り(2の2乗)のデータが扱えます。3ビット、4ビットと増やしていくと、8通り(2の3乗)、16通り(2の4乗)・・・と扱えるデータ数が増加していきます。

つまりnビットだと、2のn乗のデータが扱えるという法則があります。

 

では、64ビットだと、どれぐらいのデータが扱えるかといえば、

なんと、

18,446,744,073,709,551,616通り(2の64乗)

なんだそうです。

たったの64組、「0」と「1」が集まっただけで、こんな天文学的な数字になるんです。

 

コンピューターの発達がめざましく、私たちの脳でも太刀打ちできない分野が出てくる昨今ですが、そりゃ、そんな膨大なデータを扱われているのであっては、さもありなんという話です。

コンピューターの素晴らしい能力はこのような「集まったものの賢さ」に裏打ちされているのです。

 

もちろん、私たちの脳はコンピューターとは原理が違うでしょう。

しかし、私たちの祖先が脳細胞を増やして集めて「賢い脳」を進化させてきたことからも分かるように、「集まったものの賢さ」というのはコンピューターだけに留まらない、様々なものに共通の自然法則と言えます。

 

そこで、この法則を応用して、その絶大な威力を持つ「集まったものの賢さ」を利用する発想をしたのが「民主主義」なんです。

大衆一人一人が意思を発する「ビット」となって、その「みんなの自由意思の総体」を政治を進める「賢さ」とする。

それが「民主主義」の戦略なんです。

 

そう、ですから、

「凡人が多数集まっても平凡な賢さにしかならない」

そんなことはないんです。

むしろ、集まれば集まるほど、指数関数的に「賢く」なっていくんです。

その「賢さ」のパワーは強大で、「哲人政治」の言う「賢い人」なんて、おそらく歯牙にもかけないことでしょう。

 

なぜって「賢い人」なんて所詮「人間」のレベルで、「意思の総体」という高次の存在からすれば、「人間」から見た「細菌」ほどのレベルの差があるのですから。

 

「衆愚政治」にならないために

ここまで、「民主主義」というのがいかに「多数」の力を利用しているか、なぜ「多数」であることを目指しているか、を考えて来ました。

このように「民主主義」はあくまで「衆愚政治」や「哲人政治」とは「体制」や「賢さのレベル」が異なるものなのです。

 

さて、最後に、そもそもの「衆愚政治は民主主義のやり過ぎた結果か、足りなかった結果か」という疑問に戻ります。

私の言う「衆愚政治に足りない民主主義成分」というのは、先ほど例に出した「ビット」なんです。

 

「脊髄反射的な感情」や「扇動者」に私たちが踊らされて一律に同じ反応をさせられる瞬間――「スイッチ」一つでたくさんの「電球」が一斉に操作させられる瞬間――失われるものがあります。

「民主主義」の「賢さ」の源であるはずの「ビット」です。

 

例えば、ここの64ビット、つまり64桁の2進数があるとします。

本来なら、18,446,744,073,709,551,616通りの情報を表せるはずの数字ですが、1桁目の数字が「1」であれば他の63桁の数字も一斉に「1」、「0」であれば他も一斉に「0」になってしまうとします。

その時に表せる情報はどれぐらいになるかといえば、そう、恐ろしいことに、あっというまに「2通り」に減ってしまうんです。

「18,446,744,073,709,551,616通り」が、たったの「2通り」です。

それも、たった63桁やられただけでです。

 

人であれば、一人の人間が表せる意思は、2進数の一桁のような2通りじゃすみません、もっともっと「1ビット」でも情報量があるはずです。

そんな大きな潜在能力を持っている大衆が、1000人、いや100人、何かに流され一斉に同じ方向を向いたとしたら。

同じように感じ、同じように考え、同じようなことを言うようになったとしたら。

 

それで失われる「ビット」はいかほどでしょうか。

それで失われる「民主主義の賢さ」はいかほどでしょうか。

 

そんな、「民主主義」を支える根底――「自由意思」という名の「ビット」――が失われた状態、「賢さ」が失われた状態、これこそがまさに「衆愚政治」に他ならないのです。

 

「衆愚政治」が「民主主義の成れの果て」なんてとんでもありません。

むしろ、「民主主義」に力及ばず辿りつけなかったからこその「衆愚政治」なんです。

それなのに、「衆愚政治」になるのは「民主主義」だからだ、と「民主主義」が批判されるのは、「民主主義」にとって非常に不当な扱いと言えます。

 

そう、「愚かな大衆」が集まるから「衆愚政治」になるわけじゃないんです。

「大衆」が自らの「賢さ」も「愚かさ」もどちらも発揮すること無く、ただ一斉に何かに流される「飾り」になってしまう瞬間――「スイッチ」ひとつで切り替わる「電球」になってしまう瞬間――「大衆全体としての賢さ」が消え、「灯り」が消え、ただの「暗愚」になってしまうのです。

 

「衆愚政治」にならないために、私たち一人一人が自分の意思で真摯に政治に向き合い、考えて考えて考えること、そのジレンマも責任も、酸いも甘いも全部抱え込んで、抱きしめてあげる――そういうことが必要なんです。

 

それが民主主義国家に住む主権者たる私たち国民の務めなのです。

 

 

 

・・・ということで、参院選。

がんばりましょう♪

 

 

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P.S.

はい。また長くなっちゃった(´・ω・`)

しかも、ちょっと堅くて抽象的な話が多かったかもしれません、ごめんなさい。。。

 

で、本文中で流れ上、説明入れにくかったので、ここで少し補足します。

 

ええと、「理想の民主主義」というのは、超超実現難しいです。というか無理です。

というのも、私たちはやはり何かに依って生きていて完全な自由意思を持つことはできないですし、また、みんなの自由意思を正確に取りまとめる方法がないからです。

ですから、現実の民主主義は、「政党」という各々の意思の立場をある程度まとめるグループを設けたり、「多数決」という自由意思をある程度集計する方法を用いて運営されています。

これらも、実のところ「ビット」を減らす行為で「民主主義成分」を減らすものなんですが、現実仕方ないというところでの「妥協」なのです。

ただ、「民主主義」という体制を取る以上は、その持ち味や強みを活かす方がいいに決まってます。その意味では「民主主義の目指すもの」を知って、出来る限りそれを損なわないように、私たちが頑張ることには意味があると、私は思っています。

 

あと途中で「賢さ」とは何かが分からないって言ってたのに、「民主主義」が「賢い」って言えるの、という当然の疑問についてです。

これは仰る通り「民主主義が賢い」というのは厳密には証明できていません。

ただ、「人」と「人」の「賢さ」を比べて分ける「哲人政治」より、「実際人間は細胞が集まった脳という臓器を用いて『賢く』なった」という事実を応用して「人間が集まった脳のような総体は『賢い』はず」と「総体」と「人」の「賢さ」を比べる「民主主義」の方が、「人間原理」的にはそれっぽいとは言いやすいとは思います。

この場合、「賢さ」の具体的な定義をすることなく、抽象的な概念のまま上位に継承しているという感じになります。

こうして、「人間が集まったもの」がやっぱり結果的に愚かだったとすれば、それはもう要するに「人類が愚かだった」というだけの話です。その時はもう負けを認めるしかないでしょう(その場合は哲人政治でも結局ダメなはずですし)。

負けるかもしれない、それでも、人類としてこの宇宙に生まれた以上、私たちの「人類である」という原点に賭ける制度は、理にはかなっているのではないでしょうか。

 

なお、「みんなの意識総体」というのは「群衆の叡智」や「集合知」などの用語の方が一般的なのですけど、なんとなく定義の問題などがあってややこしいので、今回はあえて使わずに記事にしてみました、悪しからず。

 

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