雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

人を殺す覚悟

突然ですが、みなさんは人を殺したことはありますか?

 

もちろん、私は無いです。少なくとも直接的には。

おそらく、皆さんのほとんども殺した経験は無いんじゃないかと思います。

 

そんな私たちがナイフでも銃でも渡されて、誰かを殺せと言われたとします。

どうでしょう。殺せますか?

 

私は多分できません。

そして、多くの皆さんもきっと殺すことには躊躇を覚えることでしょう。

 

もし殺せる可能性があるとすれば、個人的にものすごくその人に恨みがある場合でしょうか。

でも、その場合も、いざ殺すとなる段には非常に高い高い心理的なハードルがあるでしょう。

 

私たちは基本的には、人を殺すことに嫌悪感を抱きます。

誰かが人を殺したとか、殺そうとしているという話を聞けば顔をしかめます。

直接的な殺人でなくてさえ、人為的な過失で人が死んでしまったり、親のネグレクトで子どもが衰弱死してしまったり、そんな人が人を死に至らしめるような事態は許せないし、怒りを覚えます。

 

「殺せ」と言われても、「殺そう」と思っても、そう簡単には実行できないのが私たちです。

人が「人を殺そう」と思っていたり、人が「人を殺した」と言っていたりすれば、そう簡単に許せないのが私たちです。

 

普通ならね。

 

 

運命のボタン

「運命のボタン」という映画があります。

 

運命のボタン [Blu-ray]

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ある夫婦の元に、「押したら1億円もらえるボタン」が届きます。

しかし、そのボタンを押した場合は「世界に住む見知らぬ誰かが死ぬ」という副作用があります。

知らない人とはいえ誰かを殺すことになるという恐ろしい話から、最初はやはり躊躇していた夫婦でしたが、目の前の金銭的な困窮から次第にその誘惑に耐えられなくなり・・・。

 

かいつまんでいえば、こんなストーリーです。

星新一さんのショートショートのような寓話的な設定の創作ですが、このお話は観た人あるいはあらすじを聞いただけの人にも、「あなたならどうするか?」という命題を突きつけます。

 

「私なら押さない」――そう言うだけなら簡単です。

しかし、そんな人でも、少しだけ心にひっかからないでしょうか。

ちょっとは「押してしまうかもしれない」、そんな誘惑を感じないでしょうか。

 

私も正直なところ、いざとなれば本当に押さないか自信がありません。

そんなパワーがこのボタンにはあります。

 

おそらく私のように潜在的に「押すかどうか」で悩んでしまう人が多いからこそ、このお話がお話として成り立っているとも言えます。誰もが「こんなの押さないに決まってる」と思う話では、お話にならないでしょうから。

 

では、なぜ私たちは「このボタンを押すかどうか」悩むのでしょう。

あんなに「殺す」のが嫌いな私たちなのに、何故悩むのでしょう。

 

それは以下に挙げるボタンの2つの特徴が私たちの「嫌悪感」を薄めてしまうからではないでしょうか。

 

①行うことは「ボタンを押す」だけなので、刺したり撃ったりという直接的に人を殺す動作ではないこと

②死ぬのは「見知らぬ誰か」という設定なので、相手が目の前で死なないし、自分の周りで死ぬ人がでるわけでもないこと

 

そう、このボタンは、たとえそれを押すことで人が死んだとしても、直接手を下した感触もなく、その結果が突きつけられることもありません。人を殺しても、全く誰からも責められることもなく、自分の生活を今まで通り変わらず続けていけてしまいます。

目の前で誰も死なないので、「ほんとは誰も死んでないんじゃないか」そう自分に言い聞かせて正当化することも可能です。

 

ですから、このボタンは、

 

殺す実感がないのであれば、人は人を殺しうるかもしれない。

 

そう考えさせるボタンなのです。

 

もちろん、この話は創作です。

ですが、程度の差こそあれ、私たちがこのお話を聞いて悩んでしまう時点で、「殺す実感が無ければ殺人への嫌悪感が薄れる」という人の性質が炙りだされているのではないかと、私は思うのです。

 

 

(参考)実感が無ければ人を殺しやすくなるのは、現代の戦場でも遠隔兵器の普及で露わになっています。でも、やはりそれで殺人への罪悪感がゼロになるわけでもないようで。。。

 

「今俺たち殺したの子どもじゃないか?」と彼は隣の男に訊いた。

「ああ、たぶん子どもだ」と答えるパイロット。

「あれは子どもだったのか?」―ふたりは画面のチャットの窓にこう入力してみた。

すると誰か見知らぬ人物、この世界のどこかで彼らの攻撃を見守っていた軍司令部の誰かが答えた。「いや、あれは犬だ」

ふたりはもう一度そのシーンを録画で見直してみた。二本足なのに犬か?

ドローンを遠隔操縦するパイロットふたりの悲しい会話 : ギズモード・ジャパン

 

 

アイヒマン実験

 今度は実話ですが、俗にアイヒマン実験と呼ばれる有名な実験があります(ミルグラム実験)。

 第二次大戦時にナチス統治下で大量のユダヤ人を虐殺したゲシュタポ所属のアドルフ・アイヒマンが、どんなに傲慢で残虐な人物かと思いきや、「私は命令に従っていただけで」と弱々しく主張するただの臆病な管理職のおっさんだったという逸話から、この実験の俗称がついています。(何せ、彼の海外逃亡した先で足がついた経緯は、奥さんに結婚記念日で花束を買ったこと、という冗談のような普通の人間っぷりだったそうですから)

 

このアイヒマン実験の内容は有名ですが、私なりにかいつまんで説明しますと、

 

・体罰の教育効果を調べる実験と称して、被験者を集めます。

・くじ引きで被験者には教師役があたるように細工をしておき、生徒役には仕掛け人がなります。(ややこしいですが、「生徒役」は実験を行う側の協力者で、被験者が「実験を行う役」になるわけです)

・「生徒役」が問題の解答を間違えると、「教師役」が「生徒役」に電気ショックを与えるルールと伝えられます。

・「生徒役」が間違えるたびに、「教師役」にはショックを強くしてもらいます。(そのショックがどれだけ強いものかも事前に教えます)

・「生徒役」はショックを与えられる際、(本当は電気が流れていないので)演技で苦しむ振りをします。その様子を「教師役」も目の当たりにします。

・「生徒役」はわざと問題を間違え続けます。

・「教師役」がショックを与えるのを躊躇した場合、実験のスタッフから「実験のためですから続けて下さい、責任は私たちがとりますから」とあくまで強制ではない範囲で、実験の継続を促します。

・それで「教師役」がどこまでショックを上げるのかを確かめるのが実験の目的です。

 

こんな感じです。

 

さて、この実験の結果は過半数の被験者が「教師役」として最大のショックまで与えたという恐ろしいものだったそうです。被験者は、ただ募集で集まった普通の人々であり、その強いショックが人体に傷害を与えるかもしれないことを事前に知らされ、目の前で苦しんでいる「生徒役」がいるにもかかわらずです。

 

このセンセーショナルな結果から、この実験は一躍有名となりました。

 

では、なぜ、普通の人がこんなにも残酷なことができたのでしょう?

 

それは以下に挙げるこの実験の2つの特徴が人々の「嫌悪感」を薄めてしまうからではないでしょうか。

 

①あくまで実験の範疇であるとスタッフから正当化されていること

②実行する自分に責任がないことが明言されていること

 

つまり、「みんなも大丈夫って言ってるし」「自分が悪いんじゃないんだし」「偉い人の命令に従っているだけだし」と自分の行為を正当化できる状態では、人は案外残虐になれてしまうということなのです。

 

この実験は、もちろん昔の実験ですし、私たち自身が被験者になったわけではありません。

「俺はそんなことしない」と言うこともできるでしょう。

 

ですが、少なくともこの実験からは、「正当化される理由さえあれば残虐行為への嫌悪感が薄れる」という人の性質が炙りだされているのではないかと、私は思うのです。

 

(参考)行為が正当化されれば人は人を殺せるというのは、日本の死刑制度を見ても分かります。でも、やはりそれで殺人への罪悪感がゼロになるわけでもないようで。。。

 

現在の日本での絞首台は死刑執行人がボタンを押すことで作動する仕組みとなっているが、このとき作動ボタンとダミーのボタン2つの計3つのボタンを用意 し、3人の執行人が同時にそれぞれのボタンを押すこととなっている。死刑執行人の精神的負担をいくらかでも軽減するための配慮とされる

絞首台 - Wikipedia

 

 

私たちは人を殺せる

 さて、このように「運命のボタン」や「アイヒマン実験」のような話を見ていると、ある結論に行き着きます。

 

それは、

 

「殺す実感が無い状態で、しかもその行為が正当化されていて、自分に責任がふりかからないのであれば、人は容易に人を殺せるのではないか」

 

という可能性です。

そこに、「自分に利益がある」という要素が加われば、なおさらそうでしょう。

 

冒頭で、私たちは人を殺すことに嫌悪感を覚えるという話を書きましたが、それはあくまで「人を刺したり撃ったりという人を殺したという実感を伴う行為」かつ「自分の責任が問われるかもしれない状態」かつ「別に自分に利益がないから」、嫌がっているだけなのかもしれないのです。

 

参考例にあげた、遠隔操作で人を殺す兵士や、死刑判決に基づき人を殺す刑務官も、なぜ罪悪感を覚えるかといえば、まだ「自分は人を殺す役割」という自覚があるからで、もしそれすら無くなれば――彼らが「人を殺していること」に自覚することがなければ――おそらく容易に兵器のボタンや、死刑執行のボタンを押すことできるはずです。

 

そう、条件さえ整えば、人は人を殺しうるのです。

それも、全く罪悪感を抱くこと無しに。

それがたとえ、全く普通で平凡で平均的で標準的な人であったとしても。

 

 

人を殺す覚悟ありますか?

さて、私がなぜ、「人を殺す」とか「残虐な行為」などの、こんな楽しくもない重苦しい話をしているかと言いますと。

 

東京新聞:生活保護 申請厳格化で閣議決定:政治(TOKYO Web)

 

ニュースなどでも報じられている通り、先日、生活保護法の改正が閣議決定され、生活保護を受けるハードルが上がることになりそうだからです。

この改正により、当然生活保護を受けられない人が出やすくなるとして、既に様々なところで、この改正に反対する声が上がっています。

 

(参考)事実上、利用できない制度へと変わる!?生活保護法「改正」案の驚くべき内容 ――政策ウォッチ編・第24回|生活保護のリアル みわよしこ|ダイヤモンド・オンライン

 

しかし一方で、ネット上の反応を見ていると、

「不正受給している奴らをこらしめろ」

「生活保護は恥ずかしいことだということから自覚させないと」

などの、この改正に賛成する意見も多く見られます。

そもそも、提案している政治家の方々はもちろん、改正に賛成しているのでしょう。

 

 

ええまあ。

 

改正に賛成するのは自由です。

不正受給が問題なのも確かです。

 

でもね。

 

これは、当然、人が死ぬかもしれない改正だってこと、本当に自覚してるんでしょうか?

 

 

そりゃそうですよね、生活保護はもともと生きるか死ぬかギリギリの人が受けるための制度です。そのハードルを上げたら、誰かが死んでもおかしくないのは、当然の理屈です。

既に現制度でさえ餓死者が出てることが言われているのに、この改正の影響で人が誰も死なないと思うのは、さすがに楽観的すぎると言えるでしょう。

 

 

え?

それぐらい分かってる、でも、そんなに死ぬ人は出ないだろうって?

 

 

・・・あのさ、「そんなに」って何?

意味分かってます?

 

あのね、簡単に「そんなに」って言うけれど、それ「少なくとも1人以上は死ぬ」って意味ですよ?

人殺すことを認めたってことですよ?

そんな人の命に対して、「そんなに」って、どれだけ軽い言葉なのさ?

 

結局、それって、「人を殺すこと」の実感を持ててないだけなんじゃないんですか?

「ボタンをただ押す」みたいに、「ただ改正案に賛成」してるんじゃないですか?

 

 

 

え?

でも、不正受給を正すためだって?

 

 

・・・へぇ、「正すため」ねぇ。

正しいことだから人が死んでもいいって言うんですか?

 

で、なにそれ。

なに勝手に目的だけ挙げて「正しいことをしてる」みたいに言ってるんですか?

目的が正しければ、副作用はどうだっていいってことですか?

 

そんなの、アイヒマン的に「これが正義の鉄槌だ」とか「みんなもそう言ってる」みたいにただ自分の行為を正当化して綺麗にしようとしてるだけでしょう。

結局、それって、「電気ショック」を正当化して、自分の責任を逃れようとしてるだけなんじゃないですか?

 

 

 

繰り返しますけれど、改正案に賛成するのは自由です。

賛成するな、なんて私は言いません。

 

 

マックス・ヴェーバーも言っていましたけれど、政治というのは結局のところ「暴力」です。

どんなに民主的な社会であっても、国民の意見が決して満場一致にならない以上、誰かが誰かに強制するしかありません。

強制する以上、これは「暴力」に他なりません。しかしもちろん、「合法的な暴力」ではありますが。

そんな「暴力」を扱うことだからこそ、ちゃんと議論して、ちゃんと考えて、そしてその結果に責任と覚悟をもって臨むべきだと私は思うんです。

正義という名の暴力は、それぐらい重いものなんだって、そう思うんですよ。

 

 

だから、賛成するなら――その合法的な暴力行為に加担するなら、その行為にちゃんと自覚と責任を感じて欲しいんです。

「人を殺すかもしれない改正に賛成」するなら、当然「人を殺す覚悟」を持って堂々と主張して欲しいんです。

 

なんとなく不正受給者がむかつくとか、

俺たちの税金を無駄遣いされているようで嫌とか、

そんな反射的な感情からだけではなく、

「この改正で人が死ぬ。でもそれだけの価値がこの改正にあるんだ」って、ちゃんと心底思った上で言って欲しいんです。

 

この改正に価値があるって思いたいがために「人が死ぬかもしれない」という事実を軽視するのではなく、考えぬいた末に本当に貴い人命を費やす価値がある改正だと確信してから賛成して欲しいんです。

自分が人を殺すと自覚してから賛成して欲しいんです。

 

 

殺す自覚も無いのに人を殺し、しかもその人を殺す行為を全面的に「いいことをしている」かのように信じ何の罪悪感も抱いていないような顔をしているのは、私には我慢できないんですよ。

 

 

 

・・・さて、ということで、ここまでのお話を踏まえた上で、お尋ねします。

 

 

あなたには人を殺す覚悟ありますか?

 

 

ナイフや銃を持たされたところできっと何もできない臆病なあなたでも、人を殺しうることはあるのです。

実感や責任感や罪悪感を抱かずに、あなたは、私たちは、人を殺せるのです。そして、今までもきっと気づかぬうちに殺してきたのです。

国民主権ということ、私たちが自らで政治を行うということは、いくら社会の中では合法的で正義であるとしても、実質上は私たちが「暴力」という武器を振るい誰かを傷つけ、時に殺すことに他ならないのです。

 

でも、その実感ありますか?

自覚ありましたか?

 

 

 

・・・だから、ほんとお願いします。

 

せめて、ちゃんと覚悟を決めてから、「ボタン」を押しませんか。

 

もちろん、それだけで、私たちが本当に赦されるかどうか、亡くなる方が救われるかは分かりません。

殺す側の自己満足かもしれません。

 

でも、ただ、せめてその覚悟や誠意ぐらいはあって欲しい、私はそう思うのです。

 

 

 

 

(最後におまけ)

関係あるようで無いのですが、漫画「ブラックジャック」からの印象深い一コマを。病院を占拠したテロリストに対しての医師ブラックジャックのセリフ。

 

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人の命を守るのは難しいけれど、人を殺すのは案外容易なんですよ。。。

 

 

 

P.S.

実のとこ、何かについて「何もしない」という選択をしたときですら、実質的には、人は「人が死ぬこと」を容認していている場合もあります。

そういう意味では、改正派の方々だけが罪深いわけではなく、私を含めみんなが罪深いということなのですが、でも、いくらなんでも無邪気に「改正しろ!」とはしゃいでしまうのは、私にはちょっと許せなかったのですよ。。。

やっぱりこれは、あくまでいやらしいほどグロテスクな「人命の選別」なんです。決して綺麗事ではないのです。

辛いけれど、でも、だからこそ、ちゃんと考えないとと思うんです。