「ブクマ」が壊すブログの平穏
※今回は、心のトラバとして。
はてなには、有名な「はてなブックマーク」というサービスがあります。(リンク)
ブラウザの基本機能のようにお気に入りのページを個人的にローカルに「お気に入り」に入れるのではなく、「お気に入り」をネット上で公開しみんなと共有できるソーシャルブックマークというシステムです。
ただブックマークするだけではなく、それぞれが好きに「タグ」というカテゴリー分類や一言コメントを付けることができ、誰でもそのページに「ブクマ」した人たちの人数やコメント一覧が一望できます。
特に多くの「ブクマ」を集めたページは、はてなブックマークの公式サイトの上で紹介されるようになるのですが、多くの「ブクマ」を集めたページは、まさに今ホットなページということで、このはてなブックマークの一覧をチェックする方は多く、非常に人気があります。
「ブクマ」を集めることでより多くの人たちの目に触れるようになって、それでさらに「ブクマ」が集まりやすくなって、また多くの人が来て・・・、というサイクルにハマれば、「ブクマ」は爆発的なアクセス数をもたらします。
このようなアクセス数や注目度と関連する性質から、「ブクマ数」はブログの人気のバロメーターとして見られることがあり、少なくないブロガーが「ブクマが付く」ということに憧れを持っていたり、目標にしていたりします。
「ブクマ」という津波
さて、こんな「はてなブックマーク」ですが、私自身、話題のトピックが分かるということで、定期的にチェックして重宝しています。
そして私の記事に「ブクマ」が付くと、嬉しくないといえば嘘になります。
多くの人の志向や思いを繋いで可視化できるという特徴は、インターネットの長所を活かしたサービスとして、少なからず評価もしています。
しかし、この「ブクマ」には負の側面も存在していることは否定できません。
「ブクマ」を通して押し寄せてくる人たちが、ブクマのコメント欄、そのブログに設置されているコメント欄、あるいはtwitterや自ブログでの言及などを通して、「アレコレ」コメントを投じていきます。肯定的な意見ももちろんありますが、否定的な意見がつくことも少なくありません。下手をするとほぼ罵倒に近いような言葉も目にします。
有名ブログでもなければ、コメントをする多くの方が「ブクマ」を通してそのブログを知った「一見さん」です。
そんな「匿名の他人」から急に多数の「批評」や「批判」を受ける――これが有名人でもない一般人にとって、耐性の無い経験で、非常にショックなことであるのは想像に難くないでしょう。
実際に、「ブクマ」がついた記事を書いたブロガーが精神的にダメージを受け、萎縮して自然な思いを出せなくなったり、最悪ブログを閉鎖してしまうほど追い込まれてしまったり、といったことが少なくないと言います。
私も過去に、そんな「ブクマ」の波を経験したことがあります。
もー、ほんとびっくりしました。ご存知かもしれませんけれど、いつもの調子で何気なく書いていた前回の記事がはてなブックマーク(はてブ)のホッテントリに入ってしまいま...
私は普段からブログの中で尖った意見を発信しているという自覚もあり、「批判があるかも」って毎回覚悟しながらアップをしてはいたのですが、それでもこの津波はやっぱり精神的には大きな衝撃がありました。
その後しばらくは、更新をしようとする度「またドカーンと言ったらどうしよう・・・」と不安で一杯になり、なかなか「公開ボタン」を押せなくなったりして、明らかに私は臆病になってしまっていました。
今でこそ落ち着いてはきたものの、「ブクマ」が無意識下に与えるトラウマの大きさを痛感する出来事でした。
多少、覚悟をしていてもこの有り様なのですから、特に「ブクマ」のことを意識してなかった方がこの事態に直面したなら、そのショックはほんといかほどかと思います。
しかも、全く予兆も何もなく、急に来るものですから、そのショックに構えるチャンスも与えられません。
「ブクマ」は、まさに津波のように、ブログに突然やって来て、そして大きな爪跡を残すことがあるのです。
「ブクマ」の自由
このような「ブクマ」にまつわる誹謗中傷問題は、私がその存在を知る大分前から、というよりサービス開始当初からずっと議論になっている問題のようで、ちょっと検索するだけでも色んな記事がヒットします。
面白いことにwikipediaの「はてなのサービス一覧」の項の中にさえ、「誹謗中傷問題」として紹介されています。(リンク)
しかし、今に至るまでこの問題が無くなっていないのは、「ブクマする」という行為が、基本的には個人の自由の範疇であるからでしょう。
はてな公式でもこのように書かれています。
はてなブックマークでは、任意のサイトをブックマークする、ブックマークした際にコメントを付与するといったことは、基本的にウェブの活動の範囲内であり、ブックマークサービス利用者の自由であると考えております。
そういった前提に基づき、現在はてなブックマークではブックマークのコメント一覧がサイト制作者様の意思に関わらず公開されております。
かく言う私も、確かにこれは自由の範疇であって、制限するというのは難しいかなと考えます。
どこかのページを読んで、それにコメントをする――その行為は実質的には「普通の平穏なブログのコメント欄」で行われているコメントのやり取りと何も違いませんし、あるいは、何か映画を見たり本を読んだりして自分のブログに感想を上げるのとも何も違いません。
どれも発信者の意思でネット上で公開され、誰にでもアクセスすることができる情報です。そして何かを感じ、その思いを言葉にするというのは、「言論の自由」として憲法にも保障されている基本的人権でもあります。
「ブクマ」でコメントするのも何も違いません。
――ただ、それが普通のコメント欄に比べ、異常に見やすくまとめられ、非常に集まりやすいというだけで。
このように、問題があるとはいえ、実際に多くの人が用い便利なサービスでもあるということもあり、「ブクマの自由」は守られ続けてきたのです。
先にも書いた通り、このこと自体は、私も仕方がないと思っています。
確かにそれは「自由」ですから。
でも、その一方で、時に見せるその「暴力性」は、他の人の「自由」を奪っているのではないかとも思います。
例えば「ブクマの自由」の観点から「誹謗中傷コメント」も仕方がないとする立場から、このようなことを言う人がいます。
「自分でブログ記事として全世界に公開したんだから、誰が来ようと何を言われようと仕方がないだろ。それが嫌なら日記帳にでも書いとけ」
このような観点がもたらす「不自由」について、それが今回の記事の本題になります(前置き長っ・・)。
「かもめ食堂」のように
ところで突然ですが皆さん、「かもめ食堂」という映画ご存知でしょうか?
- 出版社/メーカー: バップ
- 発売日: 2006/09/27
- メディア: DVD
- 購入: 18人 クリック: 381回
- この商品を含むブログ (1267件) を見る
私がとても好きな映画で、フィンランドで和食メインの食堂「かもめ食堂」を営むサチエが、その食堂運営を通して色んな人と交流していく姿をほのぼのとしたタッチで描いた作品です。
この中で印象的なシーンがあるんです。
縁があってその「かもめ食堂」を手伝うことになった日本から来たばかりのミドリと、店主のサチエのやり取りです(細かいところはうろ覚えですが)。
開業以来閑古鳥の「かもめ食堂」を見かねて、ミドリがサチエにフィンランドの観光のガイドブックに載せてもらってはどうかと提案します。
「だって、やっぱり人には入って欲しいじゃないですか。フィンランドまで来てやっぱり和食が食べたいなって思う日本人はいっぱいいますよ」と、ミドリ。
でも、サチエは首を横に振ります。
「ガイドブックを見てやって来る人は何か違う気がする。ここはレストランじゃなくてあくまで食堂なの。ここに行こうって張り切って来るところではなく、地元の人がフラッと通りすがりに、今日はここで食べていこうかなって、何となく入るような、そんな食堂にしたいの」
その後も看板メニューの「おにぎり」をフィンランド人にアピールしようと、ザリガニやニシンやトナカイを入れたおにぎりを提案するミドリですが、試食も失敗で、「やっぱりおにぎりはシャケ、おかか、梅じゃないと」とサチエに却下されてしまいます。
「集客」のために奔走するミドリと、あくまで「自然体」を貫くサチエ。
これらのシーンで、この2人の対照的な姿が描かれています。
私はどちらが良い悪いというものではないと思うんですよ。
飲食店の経営と言うと小さくともやはり事業ですから、ミドリのように集客や売上などにこだわる、多くの人に来てもらうことを目指す、それは当然あっていい目標ではあると思います。
でも、一方で、日本のソウルフードをココで提供してみたい、味わってもらいたい、そんなサチエのような「食事を出すこと」そのものを目標とするのも、やっぱりそれも一つでしょう。
ブログもそういうものなんじゃないかと、私は思うんです。
「アクセス数をアップさせるにはどうしたらいいか」
「ブクマが多くつくにはどうしたらいいか」
「できるだけ多くの人に俺の考えを伝えたい」
そうやって、自身のブログの「集客力」を高めるため、流行りの話題をチョイスしたり、色んなテクニックを駆使したりする、そういうブログもいいでしょう。
例えて言えば、とにかく事業を大きくして、いっぱい儲けたい、そんな大通り沿いの飲食チェーンのような感じでしょうか。
でも、
「自分の自然な思いを綴りたい」
「それが通りすがりの人の目に止まって共感してもらえたら嬉しい」
「共感してくれる人と交流したい」
そんな「自然な発信」や「自然な交流」を目指すブログもあっていいはずです。
それは例えるなら、多くの人の来客を求めず、お互いの顔が見えるような関係で地元の人同士でまったりと食事を楽しむ、路地裏の小料理店のような感じです。
「かもめ食堂」のような自然で平穏なブログを求める気持ち、それはやっぱり尊重すべき価値観だと私は思うのです。
世界に公開されてるなら仕方がない?
でも、あまり意識はされませんが、実のところ、路地裏の小料理店であっても世界に「公開」されています。
道を伝っていけば、誰でも行くことができますし、誰でも入ることができます。
飛行機やその他交通手段を用いることで、その気になれば地球の裏側に住んでる人だって訪れることは可能です。
もしそんな店がテレビや雑誌で「美味しい店」として紹介されたとすれば、どうなるでしょう?
別に隔離されている店ではなく、道は世界中とつながっているのですから、その存在や場所が認知されれば、誰だって来れるのです。
その結果、地元の常連さんが楽しむ店であったのが、「話題の店」となれば急遽大量のお客さんが来て、その平穏が失われてしまうことはありえる話です。
そういう事態を避けるために、そのような「地元の常連さんに愛される店」というのは取材を断っていることがあります。
掲載には店主の許可が必要で、勝手に取材記者が食べに来て「美味しかったから、うちの雑誌に載せておきました」では通らないようになっています。
これを勝手に取材した記者が例えば、
「店を開いて全世界から客が来れるようにしておいて、誰が来ようと、紹介されようと仕方がないだろう。それが嫌なら自宅で一人で料理作っとけ」
と言ったとすれば、それこそ非難は必至ですよね。
最近では、宇多田ヒカルさんのtweetで論議を呼んだマスコミの報道体制の話も近いです。
先日、週刊誌の記者に突撃されて「一週間家に張り着いて尾行してた」と言われ色々変な質問されたけど、なんかもう怖くて気持ち悪かったので一言も答えなかった。今までは何されても「彼らも仕事だし」と流してたけど、今回の一連のことで完全にマスコミ恐怖症になってしまった。
— 宇多田ヒカル (@utadahikaru) 2013, 9月 17
家を張られたり尾行されたりは今に始まったことじゃないししょうがないと思ってるけど、マスコミに対する気持ちが変わったのはママの出棺の時。ある程度覚悟して助手席に座ったけど、まさか報道陣が霊柩車の前に立ちはだかって出棺を妨げてまで私を撮影すると思ってなかった。死者への冒涜だよ…
— 宇多田ヒカル (@utadahikaru) 2013, 9月 18
カメラが乱暴にごつごつと窓にぶつかる音、フラッシュ、投げかけられる質問…ママだったらこんな時泣かないと思って必死に涙堪えてたけど、ほんの一分が永遠のように感じられて心の中でずっと「どいてください、どいてください」って叫んでた。
— 宇多田ヒカル (@utadahikaru) 2013, 9月 18
これらのtweetから、マスコミの報道体制に批判が集まったのは記憶に新しいところで、
「道路という世界に公開されている公衆空間に出て来ておいて、話を聞くな、写真を撮るな、というのはおかしい」
なんて声はほとんどなかったように思います(有名税という話は少しありましたが)。
このように、マスコミには「報道の自由」の濫用は世論的にもかなり厳しい目で見られています。
しかし、一方で、ネットにおいては、この「自由」の濫用は看過されやすいようなのです。
例えば、有名飲食店レビューサイト「食べログ」では、過去に勝手に店の情報を登録された店舗から「勝手に載せるな」と訴訟を受けたケースがありました。
しかし、「食べログ」側としては、公開されてる情報なのだから載せられてもしかたがないのでは、という姿勢だったようです。
「食べログでは『店舗情報を一般公開しているお店を全て掲載』する方針で運営しております。ホームページ・ショップカード・雑誌・書籍・電話帳などで店舗情報を一般公開しているお店については、店舗様のご意向に関わらず口コミが投稿される仕組みとなっておりますので、ご了承ください」
といい、公開情報は店の意図にかかわらず掲載するという方針をかかげている。
―「店舗情報勝手に載せないで」 佐賀県の飲食店が「食べログ」提訴(J-CASTニュース) - IT - livedoor ニュース
もちろんこの姿勢に関しては議論があるのですが、上のマスコミの「報道姿勢」ほどは批判一辺倒ではなく、賛否両論なところがあるようです。
公式コミュニティでも熱い議論が交わされていますが、中にはこんなコメントも。
店側が掲載拒否できる、というのはとんでもない考え方です。
食べログは、ユーザ目線のサービスです。ユーザー目線からであれば店のネガ情報は役に立ちます。だから、店側の希望は関係ありません。それよりもユーザーの役に立つかどうか、が優先するのです。出版などへメ ディアへの掲載禁止、というのも店側が主張しているだけで、法的根拠はありませんし、実際無視もされます。臭いものに蓋、という考え方はマズイです。
この雰囲気を見ても、「ネットユーザー」ベースの話の時は「マスコミ」に対してより、話のトーンが少し違うのが感じられます。
「ブクマ」が壊すブログの平穏
「ブクマ」に関しても、「ネットユーザー」ベースということで、この「食べログの自由」の問題に近い話です。
公開されているものだから、それを自由に「ブクマ」して、評価したり意見を述べたり、紹介したりしていいはず――確かにそれは正論です。
そして、実際に「集客」が目標で、「ブクマ」が付くことを望んでいるブロガーも少なくないでしょう。
ただ、その一方で、自分の自然な思いをブログに綴り、共感してくれる人とささやかに交流したい、そんな気持ちで「ブログ」を開かれている人も確かにいるのです。
そこに「ブクマ」が付くことで、その平穏を破壊してしまうことがあること。
「自由」を行使するならば、その可能性を知っていないといけないのではないでしょうか。
確かに「ネットユーザー」が1つ「ブクマ」を付けるぐらいでは、「マスコミ」ほど大きな影響力はありません。
おそらくその影響力の違いが、「マスコミ」に対しては厳しく、「ネットユーザー」には甘い空気を築いているのでしょう。
「強いもの」を縛り、「弱いもの」を守る――それ自体は非常に全うなことだと、私も思います。
しかし、集まれば「弱いもの」も「強く」なるのです。
1つの「ブクマ」では弱くとも、100の「ブクマ」では十分強いのです。
少なくとも、一つの小さな小料理店の平穏を破壊する程度には。
「ブクマ」で好きなコメントをすることは自由です。
しかし自分を含めた100の「ブクマ」が塊となって何かを壊しているとするなら、その塊の100分の1の責任があなたの「ブクマ」には含まれているのです。
ダメとは言っていません。
ネガティブなコメントをするなとは言えません。
ただ、そこに想像力を持って欲しいのです。
1つだと弱い自分の「自由」でも、それが集まって「暴力」になってしまう可能性について。
連鎖の口火を切ってしまうかもしれない可能性について。
少しでいいから、想像して欲しいのです。
路地裏の小料理屋に、常連の人を差し置いて、ウジャウジャと人だかりができている風景。
店を出た途端、店内や周囲に聞こえるような大声で「いやー不味かったな」と言う人々。
こないだ訪れた小さな店を、全国誌に勝手に載せて批評する記者。
あるいは、路地裏でまったりと開いていたはずの自分の店が、一夜にして大通り脇に移転させられているという摩訶不思議な状況。
現実の店で考えれば、それがどんなに失礼なことか、どんなに店主にとって悪夢か、分かるはずです。
それでもなお、「全世界に公開してるんだからしょうがないだろ」なんて、言えるのでしょうか?
「嫌なら日記帳にでも書いておけ」なんて言えるのでしょうか?
ささやかな店を開いて、うちの味を気に入ってくれる人に、ふらりと訪れてもらいたい、そう思う「店主の自由」は無いのでしょうか?
インターネットは、大通りの大きな店や大通りに出店したい野心的な店だけでできてるわけじゃないんです。
広告に載ってないだけで、テレビでCMしないだけで、路地裏の小さなお店の集落もあるのです。
「インターネットは世界中に公開されているのだから、批判されても仕方がない」
そう思う人は、多分、「大通り」しか見ていないんですよ。
私は思います。
相手が見えないインターネットという場だからこそ、意識して想像しないといけないのではないでしょうか。
店主の顔や、
店主の思いや、
路地裏の灯りの一つ一つにだって、誰かが泣いたり笑ったりして生きているってことを。
<関連記事>
最近の記事の中で私は「インターネットや携帯電話などのITインフラの登場で個人でもたくさんの人に意見を社会に伝えることができるようになった。だからどんどん自分の意...
⇧高速道路~路地裏まであって初めて世界はつながるという話。
⇧ブログは「公」でも「私」でもない中間的な位置という話。
桜の季節ですねー。ブログ名に「花見」が入っている通り、私はとても桜が好きで、毎年このシーズンはどこかに桜鑑賞ツアーに出かけます。桜前線予報を睨みながら、万全の作...
⇧「強い自由」が「弱い自由」を侵すジレンマの話。
きのうの続き。だいぶ前、日記の感想メールもらって、そこには「毎日何食べたかなんて詳しく書かなくていいからどこへ行ったかどんな映画見たかどんな本読んだかそういうこ...
⇧ふつうの日記、という世界があることを思い出させてくれる良記事。
■人間らしいインターネット▼F's Garage:残念なWeb論の骨子かなり興味深い記事。以下、引用。問題の原点は、昔からよく言われる「1PVの価値」を算定する...
⇧「見つけにくいものが持つ魅力」、忘れがちですよね。
- 出版社/メーカー: バップ
- 発売日: 2006/09/27
- メディア: DVD
- 購入: 18人 クリック: 381回
- この商品を含むブログ (1267件) を見る
⇧再掲。
- 出版社/メーカー: VAP,INC(VAP)(D)
- 発売日: 2008/03/19
- メディア: DVD
- 購入: 9人 クリック: 265回
- この商品を含むブログ (523件) を見る
⇧こっちも、なかなかのんびりと、たそがれていて好きです♪
P.S.
もちろん「小路」だけしか見てなくて、冷蔵庫に入ったりなど、トンデモナイことをする人たちも、それはそれで想像力が無いのかもしれません。
ただ、「大通り」の論理を振りかざすのも、想像力の無さという意味では、どっちもどっちなんじゃないでしょうかと。
私のブログはその間をつなぐ、バス通りぐらいのお店がいいかな(・ω・)