「世界」と「世界」がぶつかる時
最近、話題の「冷蔵庫tweet騒動」。
皆様もおそらくご存知の通り、コンビニや飲食店などのアルバイトの人たちが、食用の冷蔵庫の中に入ってみたり、食品をかじってみたりした「悪ふざけ」の写真をtwitterでアップして、「けしからん」ということでネット上で拡散・炎上、結果、店舗が謝罪し、当該アルバイトも処分されるハメに、という一連の類型事件のことを指しています。
(例:ローソンのアイス用冷蔵庫に入る男性写真が流出!不衛生だと炎上(秒刊サンデー) - IT - livedoor ニュース)
この騒動について、各方で秀逸な記事をいくつも拝見して、私も我慢ならず便乗してちょっと書いてみようかなと思います。
秀逸な記事の皆様
話の前提として、まずこの御三方のご意見の流れを勝手ながらまとめてさせていただきます(既読の方はさらりと飛ばして下さい)。
こちらの皆様に共通する重要な指摘は、twitterなどのネットサービスが発達したから「おバカな人たち」が出現したのではなくて、もともとネットが発達する以前から社会の中に確かに存在していたそのような「おバカな人たちの悪ふざけ」が、今日に至ってネットを通じて「可視化されるようになった」だけ、というものです。
つまり、「今までなかったものが生まれたのではなく、世間に見えてなかったものが見えてきただけ」、そういう指摘です。
だからこそ、「最近はおバカな人が多くなった」という認識は正しくなくて、店長さんが「うちらの世界」と呼称した「おバカな人たちの世界」がネットを通して目に入るようになってきたというのがより正確ではないかと、そういう考察です。
そしてまたもう一つの重要な指摘が、「世間」が今まで見えてなかった「おバカな人たちの世界」との初の接触に戸惑いと怒りを覚えているのと同時に、「おバカな人たちの世界」の人たち「うちら」からとっても、「世間」という「世界」は今まで「存在していなかった世界」であったという指摘です。
彼らには「インターネット」という概念がよくわからない。よく言われることだが、たとえばTwitterならTwitterという「個別のアプリケーショ ンがある」というのが彼らの感覚である(LINEは使ってないんでよくわからん)。実際にはそれは、インターネットの仕組みの内部で動いているサービスな のだが、ここでSNSと「うちら」の結託が起こる。SNS=うちらとなるわけだ。なんとなくは「インターネット全体」という外部があることは知っていて も、それが「うちら」に積極的に介入してくることは考えない。もしそれが容喙してきた場合、彼らの理屈に従えば「うちらなにも悪いことしてないのになに勝 手に干渉してくんの」ということになる。ましてネットの場合、リアルとは違い「外部」は完全に可視範囲の外にある。おそらく彼らにしてみれば不意打ちの感 覚が強いだろう。
ネットで犯罪告白して炎上したDQNたちはインターネットがわかってないって批判もされてるけど、そもそもインターネットなんて誰も教えてくれない世界だから。
「低学歴の世界」って言葉は、すごいうまくいいあらわした言葉だと思った。
でもそこに属してるのは、低学歴の子供たちだけじゃないから。
「低学歴の大人」や「子供を低学歴にする大人」が作ってる世界に育った子供たちが低学歴になる。
常識をおしえてもらえなかった子供たちが、その子供たちだけの常識作る。
つまり、「冷蔵庫に入らない」、「食べ物の上に寝っ転がらない」「食べ物をおもちゃにしない」、そんな「常識」は「世間」にとって当たり前であっても、「うちらの世界」では聞いたこともない、誰も教えてくれない、誰も守ってないルールでしかない、そんな「世間の常識」に無関係に「うちらの常識」で動く、そんな「閉じた世界」が確かに存在するのではないか、と。
そんな「うちらの常識」で動く人間からすれば、外部の「世間」がやいのやいのと騒ぎ立てるのは「うちらは何も悪いことしてないのに」と受け入れられない話なのです。
特にひきこもり女子さんは、その内部にいる人間として、生々しい「閉じた世界」の実情を訴えられています。
結局、「世間」も「うちらの世界」もお互いにお互いの存在を知らず、最近になってようやく「出会う」ようになった、そして衝突した――そういうことではないかと、御三方は述べていらっしゃいます。
私もこの皆様の記事でハッとさせられました。
当初は私も単純に「おバカな人たちがいるなぁ」と憤っていましたが、今回の騒動が「世界」と「世界」との衝突であることにようやく気づいたのです。
一度そう気づけば、色々な考えが頭の中に浮かんできます。
そして、どうにも書かないといけない気分になってしまいました。
前置きが長くなりましたけれど、今日はそんな「世界と世界の衝突」というのはどういう状態なのか、この「衝突」に対して私たちはどうしていったらいいのか、ボーっと考えた話になります。
「常識的な世間」と「うちらの世界」どっちが正しい?
先ほど憤っていたと言っていたのでお分かりの通り、私自身、食べ物を粗末にするような一連の「悪ふざけ」には不快感を覚える人間です。
これらのニュースに対しては私に限らずそんな「常識的な人たち」から様々な批判が相次いでいます。
「教育がなってない」
「非常識なクズどもは社会的に制裁しろ」
「逮捕しろ」
ちょっと一瞥しただけで、そんな怒号のような過激で厳しいコメントがひしめいていました。
これらの意見は、私からすれば同意見のはずでした。
でも、これらの厳しいコメント見ている時、なぜだか私の中で胸がざわつくのを感じたのです。
――そう、私は不快感を覚えていたのです。
「悪ふざけ」にだけでなく、これらの厳しい「とても常識的な」コメントに対しても。
不快感の理由はすぐに分かりました。
それは、「常識的な人たち」が「自分たちの常識が正しい」と無条件に思い込んでいるように見えたのと、そして、なぜだか妙に「偉そう」だからです。
もちろん、まず「悪ふざけ」をした「うちらの世界」の住人たちの方こそ、自分たちの常識は無条件に正しいものと思い込んでいますし、そして「外部」からの予想外の干渉に「何が悪いの?馬鹿じゃないの?」と偉そうな態度で対抗しています。
しかし、そんな彼らに対して「常識的な世間」の方も、同じように「自分たちの常識」を振りかざして「相手を馬鹿にする態度」で接しているのを見て、私は思わずにいられませんでした。
彼らが悪いことについては個人的には同感なんだけど、その態度はやりすぎじゃない?
なぜ「世間の常識」の方が正しくて、なぜ「彼らの常識」が間違っていると断定できるの?
「彼らの世界」も「閉じた世界」かもしれないけれど、「常識的な世間」も「彼らの世界」のような「他の常識」の存在を認めず、「我々の常識」をただ再生産しているだけなら、結局同じような「閉じた世界」なんじゃないの?
なぜ「我々」が正義で、「うちら」が悪とそんなに言い切れるの?
それって思ったほど当たり前じゃないんじゃないの?
と。
この点は、私に限らず店長さんも引っかかる点だったらしく、
さて、俺は考える。俺の常識、社会の常識のほうがまちがっていて、彼らの「うちら」感のほうが正しいという可能性をだ。
と文中で述べています。
「どちらの世界が正しいのか」
この命題に対して、私の結論はコレです。
――どちらも「正しくない」、ただ、時に「強者」と「弱者」が生まれるだけ。
「世界」と「世界」がぶつかる時
さて、視点を冷蔵庫から離して、ちょっと一気に壮大な話になります(このブログではよくあること・・・)。
このような「世界」と「世界」の衝突の事例というのは、歴史を振り返ってみれば同じような事例がけっこうある、と私は考えています。
例えば、私たち日本人にとって、馴染み深いものの一つが「捕鯨問題」です。
昭和時代までは大衆の食文化として食卓や給食に普通に出ていたという「鯨肉」ですが、最近ではとんと姿を見ることはありません(私もほとんど見たことはありません)。
これには国際的な「鯨保護」の世論から、捕鯨の規制がどんどん厳しくなり、結局日本では「商業捕鯨」が中止になったという経緯があります。
絶滅が危惧されているという鯨ですから、確かに必要であれば保護も必要なところでしょう。
しかし、一応現在でも許されているはずの「調査捕鯨」も、一度行えば、「反捕鯨派」から凄まじいバッシングがあります。
鯨数の管理や生態系保護などの現実的な観点からのバッシングも多い一方で、「鯨は知能が高い動物だから殺すなんてひどい」というどちらかといえば感覚的な意見があります。
これは非常に興味深いポイントです。
念のため申し上げておきますが、私は捕鯨推進派ではありません。むしろ、逆に鯨が増えすぎない限りは無理に捕鯨する必要もないかなぁと、漠然と思っているぐらいの人間です。
ただ、先ほどのような「鯨を殺すなんて悪である」というような言い分には、ちょっとひっかかるものを感じざるを得ません。
想像してみて下さい。長らく食文化として、鯨を捕って、食していた人々が、遠くからきた外国人に「鯨を殺すなんて我々の常識では考えられない。ひどい民族だ」と糾弾されるわけです。
そんなこと言われたって、自分たちからすれば「鯨を食べること」はひどく当たり前のこと。それを「外部」からいきなり「お前らは残虐なことをする野蛮人だ」と責められれば「いったい鯨を食べることの何が悪いんだ?」と言い返したくもなるというものでしょう。
もし、鯨で実感がわかなければ、「ウナギ」で考えてみて下さい。
今や希少となったウナギですから、「ウナギの絶滅を防ぐため」ということで保護が決まったとすれば、まあしかたがないかなとも思えるでしょう。
しかし、そうではなく「ウナギを食べるなんて残虐で野蛮な行為だ」として外国から責め立てられたらどうでしょう。
「いや、そんなこと言われたって、ウナギを食べるのは日本の文化だし、それにそんなに悪いこと?」と反論したくもなるでしょう。
「食鯨が当たり前の人がその行為を悪と決めつけられる」のもそれと同じ理不尽な感覚なんです。
もうお分かりの通り、これは結局「鯨を食べるのが当たり前の世界」と「鯨を殺すなんて考えられない世界」の衝突なんです。「こちらの常識」と「あちらの常識」が完全に食い違っていて、お互いが自らの「常識」を主張しあっている、そういう形です。
どちらもがどちらも「自分の常識」が正しいと思っていて、「相手の常識」が間違っていると考えています。
さて、そんな時に、「どちらが正しい」なんて果たして決められるのでしょうか?
「正しい常識」はなく、「正しいとされる常識」があるだけ
私の想像ですが、上の例では、
「その民族の固有の食文化なのだから、当然、鯨を食べるのもウナギを食べるのも非難されることではない。外国は外から自分たちの常識を押し付けるべきではない」
そう考える方がおそらく多いのではないかと思います。
ではそのような方は、これらはどう考えられるでしょうか。
・食犬文化
・食猿文化
・食人文化
犬は韓国などで食文化として食べられています。
猿は脳みそを出す中国料理で有名ですね。
人は世界各地で宗教儀式的な意味合いで食べられるところがあるとか・・・。
すみません、刺激が強いですよね。
書いた私もちょっとダメなんです、これ。。。
でも、私たちがクラっと来てしまうこれらについても(クラっと来なかった人はごめんなさい;)、おそらく「当たり前」な人々が世の中にいます。
だから先ほどのように外部の私たちの常識を押し付けるべきでないとするなら、彼らについても「それ残酷でしょ」と言えないことになるのです。
批判するにしても、「絶滅する恐れがー」とか「生態系がー」など現実的な側面からのアプローチからにするべきで、「それは残虐だ」という感覚的な側面からでは「常識の押し付け」になってしまいます。
しかし、残念ながら、私たちはそんなに「理性的」ではありません。
いかに私たちが現実的側面からでなく、感情的な側面から判断を左右させているかが分かる好例が「サメ」です。
今朝まで知らなかったが、じつは、サメの多くの種類が絶滅の危機に瀕しているらしい。
(中略)
クジラは、愛すべき存在だ。
頭がいいし、弱いものを助けたりするところを、目撃されている。
仲間を助けるだけでなく、違う種類のクジラの子供をシャチの攻撃から救ったりするし、アザラシを同じくシャチから救ったところを目撃されたこともある。
だから、保護の気運は広がりやすい。
それに比べ、サメは海の殺し屋だ。
が、サメだって、ほとんどの場合、人間様を餌と考えているわけじゃないし、何年もかけて育ち、ほんの少しの子供しか産まない、生命力・繁殖力の弱い生き物なのだ。
愛してやるのが難しくても、せめて、広い海において、その生態系を健康に保つ役割をしていてもらうほうが、人間様にとっても良いことなのだ。
詳細はICHIROYAさんのブログを読んでいただくとして。
同じ絶滅の危機だとしても、
「鯨は愛らしい」、だから保護する。
「サメは憎たらしい」、だから保護しない。
やっぱり、そういう感情的な傾向が私たちにあるのは否定できないようなのです。
さあ、ここまで見てきていかがでしょう。
一体、「常識」って何でしょう?
果たして「正しい常識」なんてあるのでしょうか?
私は思います。
そんな「正しい常識」なんてないんです。
「常識」なんて、数式や何かで論理的に証明されるような理性的・絶対的なものでは決してありません。
それぞれがそれぞれの「世界」の中で「感情的に受け入れられていること」を「常識」として「正しいとされているだけ」なんですよ。
逆に、それぞれにとってはそれぞれの「常識」が正しいわけで、その意味では「どの常識も正しい」とも言えるかもしれません。
「常識」が「常識」を征服する
どの「常識」も正しくない、あるいはどの「常識」も正しい、と言っても、先ほどの捕鯨問題を巡る話のように「常識」と「常識」が完全に相反するものになってしまう場合があります。
そのような時に起こることの一つが「征服」です。
「常識」というのは「正しい」「正しくない」はありませんが、「強い」と「弱い」はあります。
例えば、捕鯨問題においても、食鯨文化が廃れたのは、「鯨を食べるべきではない」という「常識」が「食鯨文化」という「常識」に押し負けたからです。
これは、前者が強くて、後者が弱い「常識」だったということになります。
あるいはもっと現実的に、現在の大河ドラマ「八重の桜」でもおなじみの、明治維新期の「倒幕派」と「幕府派」の内戦でもいいでしょう。
「幕府を守るべき」という旧来の「常識」と、「幕府を打ち倒すべき」という新しい「常識」が戦い、結果「倒幕派」が勝利しました。
これも「倒幕」という「常識」の方が「守幕(?)」という「常識」より強かったための「征服」です。
これらの「征服」は文字通り「征服」で、「征服した側の常識」がまさしく「社会常識」すなわち「社会正義」となるので、その「世界」の中ではもはや「敗者側の常識」は「悪」になってしまいます。
勝てば官軍、負ければ賊軍。
ほんとそういうことですね。
「常識」と「常識」が共存する時
とはいえ、異なる「常識」が存在していた時に、いつも戦いになり「征服」が起こるわけではありません。
その一つの状態が、「寛容」です。
それぞれ自分の「常識」を保ちつつも、お互いの「常識」も尊重しあう、そんな状況です。
「食鯨」の例で言えば、
「自分は鯨を食べるけれども、それを残酷だと感じる人もいるのも知ったので、なるべく控えるよ」
「私は鯨を食べるのは残酷だと思うし絶対食べないけれど、それを文化として持っている方がいるのも知ったので、少しだけなら許そうかな」
のように、それぞれが相手の「常識」に少しずつ寛容になる状態です。
もう一つは「融和」です。
「常識」同士を対立させることなく、それぞれの「常識」と「常識」を融合させて、「新しい常識」を築いた状態です。
「ヘレニズム文化」や「和洋折衷」などが例になるでしょうか。
「寛容」・「融和」とそれぞれ、なかなか良い状態――のように思えますけど、やはり難点もあります。
「寛容」は何だかんだでお互い「我慢」しなくてはいけないので、双方ともにストレスがたまります。「常識」が異なりすぎたり、接触頻度が高すぎたりすると、フラストレーションが暴発して、結局争いになり「征服」が起こることがあります。
これはお互いの忍耐力や、パワーバランスの均衡など、様々な条件のバランスや各々の努力の上で、なんとか成り立つ状態と言えます。
「融和」も結局、融合し難いほど「常識」が相反していればどうにもできません。
なかなか上手くいかないものですが、実は一つ、お互いの努力があまり要らない共存の状態があります。
それが「分離」(あるいは「不可知」)です。
それぞれ相手の「常識」と接触しなければ、または相手の「常識」を知らなければ、「自分の常識」だけ見ていればいいので、ストレスフリーで過ごせる、そんな状態です。
こう言うと「何言ってんのさ、出会って知り合ってしまって衝突するから困るって話やんかー」と言われるかもしれません。
――そう、「だから困る」んですよ。
「分離」の状態が崩壊する時
実は、「分離」という共存状態は珍しくない、というよりむしろとてもポピュラーな状態です。
例えば、各国の成り立ちがある程度、民族や文化圏を基に区分けされているのは、なるべく「常識」同士を「分離」して不要な衝突を避けるためと言えます。
もちろん多文化・多民族国家も存在し、不幸な場合は内戦の火種になっている場合もありますが、それなりに上手くやっている国では、「チャイナタウン」や「リトルイタリー」など国の中あるいは町の中でそれぞれの民族が住む町を区分けして、国内で上手く「分離」しています。
それだけ「分離」というのが、皆にとって楽で困らない方法であるということでしょう。多くの場合、この「分離」に「寛容」や「融和」の要素をいくらか加えて、お互いバランスをとって共存しています。
でも実は他に、最もストレスフリーな「分離」状態があります。
それは「天然の分離」です。
つまり自然な「不可知」です。
例えば、この宇宙に私たち「地球人」の他に「宇宙人」が居るとして、私たちはその宇宙人の文化や「常識」をまだ知りません。逆に「宇宙人」も私たち「地球人」の「常識」を知らないことは十分考えられるでしょう(反対意見もありそうですが・・)。
その場合、互いの「常識」がどんなに異なっていたり矛盾したりしていても、「宇宙人」の「常識」に私たちが思い悩むこともないですし、「宇宙人」が私たちの「常識」に思い悩むこともない、非常に楽な状態です。
これが「天然の分離」です。
しかし、残念ながら、この「天然の分離」は最もストレスフリーな状態でありながら、最も危険な状態でもあるのです。
「天然の分離」は、そこに「分離」が保たれていることさえ、お互いに知ることができません。だから、何かの気まぐれや、文明の発展による拡張によって、ある日「分離」を乗り越えてしまう場合があります。
ある日突然、「世界」同士が出会うのです。
この時――「天然の分離」が崩壊した時――多くの場合、「征服」が起きてしまうんです。
「天然の分離」の崩壊と、一方的な「征服」
「インディペンデンス・デイ」や「アバター」などの、「世界」同士の邂逅と衝突を描いたSF映画に想いを馳せる必要もなく、私たちは歴史上にその「征服」の事例を知っています。
近代に至るまで、大西洋という天然の堀に隔てられ、アメリカ大陸のインカ帝国とヨーロッパ諸国は、互いの「常識」を知らない「天然の分離」状態で、自然に「共存」していました。
しかし、16世紀スペインのピサロがインカ帝国にたどり着き、そしてこれをあっさりと「征服」します。
ええ、ほんとに「あっさり」と。
ピサロ達が、この「違う世界」に接した時に「寛容」や「融和」を考えなかったかのかは分かりません。
ただ、彼らは「征服」を選び、それを実行した。そういうことです。
そして、これはおそらくポピュラーな「選択」なのでしょう。
「天然の分離」の崩壊の際は、どちらかの「世界」の住人がその「分離」を乗り越えるわけです。
お互いになかなか越えられなかったからこそ「天然の分離」であったわけで、それを乗り越えるには、それなりの努力や文明の発展が必要です。
インカ帝国の場合では、大西洋を越える遠洋航海の技術が不可欠でした。
タイミング良く、お互いが同じように文明を発達させて、いっせーのーでで同時に乗り越えればそのパワーバランスは拮抗するのかもしれません。
しかし、地理・環境も違い、お互いにお互いを知らない状態で、そんな都合の良いことはあまりなく、基本的には文明が発展した側が「分離」を乗り越えます。
だから、「分離」を越えた側は「圧倒的なパワー」を誇ります。
そんな彼らが「違う世界」の「自分たちにとっては間違って見える常識」に触れた場合、どうなるでしょう。
「こいつらはただの野蛮人。俺達の方が正しい。世の常識というものを教えてやろう」
まあこうなりますよね。
なにせ「越えた側」は圧倒的なパワーがあるので、「寛容」や「融和」のように、めんどくさいことや我慢をする必要は無いからです。
そして自らの方の文明の方が優れているという根拠から、その「常識」に対する自尊心も高いでしょう。
「天然の分離」の崩壊の時は、得てしてそのようなパワーバランスが偏った状態であるために、「征服」――それもとても一方的な――が起こりやすい、だから「最も危険な状態」なのです。
何を隠そう、先ほどの2つの映画も、宇宙空間を越えて相手の惑星にたどり着いた側が圧倒的な軍事力を持っている、そういう設定ですよね?
外なる世界、内なる世界
さて、すみません、何だか世界や宇宙や過去や未来を駆け巡る長旅をしましたが、ようやくコンビニの冷蔵庫に話を戻します。(汗)
今までの話を踏まえた上で、今回の冷蔵庫騒動に非常に特徴的な現象は「内なる世界」との遭遇であったことです。それも「世間」から「天然の分離」をされていた「内なる世界」です。
「外なる世界」との遭遇というのは分かりやすい現象です。先ほどのインカ帝国との出会いのような「新大陸での文明の発見」とか、映画のような「宇宙人の侵略」とか、私たちの「外の世界」と出会う状態です。
現代に至って、私たちは案外と「外の世界」には自分たちの「常識」と違う「常識」を持っている人たちが居ることを理解しています。何だかんだで、近代のピサロ達よりも「征服」よりは「寛容」「融和」を図るようになってきたと言えるでしょう。
例えば「宇宙人」がある日降り立ってきたとしたら、いきなりミサイルを撃ちこんだりせず、「まず対話してみよう!」となりますよね(映画だと死亡フラグですが・・・)。
しかし、そんな「外の世界」を理解しうる寛容な心を持った私たちも、案外足元はおろそかだったりするのです。
・・・いえ、むしろ「外」に目を向けているせいで、「内」が見えなくなっていると言えるかもしれません。
交通網の発達や、IT技術の発展で、地球は狭く、近くなりました。
そうした中、グローバル化の名の下に、各国間での「寛容」や「融和」が主張され、日本人なら「日本人」として一塊に扱われることが増えています。
その結果、何となく「日本人」という均質な存在があるような気がしてしまいます、そして「日本人の常識」という統一された「常識」があるような気がしてしまいます。
しかし、「日本人」は「日本人」として一塊ではありません。
中には1億2千万人以上の「個人」が存在して、それぞれがそれぞれの「常識」を持っています。それらの「常識」はツブツブのままだったり、時にはダマになったりしていて、決して均質なものではありません。
ただ、肉眼的にパッと見で一番大きく見えるのが「世間の常識」という大ダマなだけなんです。
そんな中小のダマ、小さな「内なる世界」たちが、どうしていままで存在できていたかと言えば、「寛容」で保たれていた部分もあり、そして「分離」で保たれていた部分もあるんです。
望遠鏡が発達して遠い宇宙の星々が観察できるようになった頃、一方で顕微鏡も発達して微小な世界も観察できるようになりました。
それと同じです。
IT技術の発達で世界が近く、狭くなったと同時に、その技術の発展は実は「微小な世界」をも私たちに晒すことになったのです。
今まででは技術的に小さすぎて見えなかった――「天然の分離」されていた「内なる小さな世界」を。
「征服」?「寛容」?「融和」?「分離」?
「天然の分離」が崩壊した時、それは最も危険な時と言いました。
しかも、相手は「内なる世界」。「外なる世界」への耐性がついていた私たちは、多分この「内なる世界」には慣れていませんでした。
特に(ほぼ)単民族国家で内部の「分離」状態をあまり意識することがない、そしてそれだけに何でも「一丸となって」とか「みんな一緒に」とか「空気を読んで」など、均質化することを求めやすい「日本人の常識」からすると、おそらく寝耳の水の話です。
また、「分離」を破る技術を発展させたのも、そして社会の権力を握っているのも、無論、「常識的な世間」の側です。
「うちらの世界」の彼らは、目の前にいきなり「分離」を越える「道路」が引かれたから、何気なく(ノコノコ)出てきただけです。
そして、以前より「目が見える」ようになった私たちからすれば、彼らが彼らの小粒な「常識」を振りかざすせいで、ツルツルだったはずの「世界」がどうもちょっとザラザラしていて、何とも不快で。
だから、条件は揃ってるんです。
「常識的な世間」という圧倒的な力を誇る「強い世界」が「うちらの世界」という微小な「内なる世界」を「征服」するための好条件が。
「こいつらはただの野蛮人。俺達の方が正しい。世の常識というものを教えてやろう」
そう思うための好条件が。
私たちは今、試されているのではないでしょうか。
私たちが異なる「世界」に出くわした時、どうするのか。
そして、どうするのかの選択肢を、私たちが握っている、そんな状態で。
「征服」するのか。「寛容」するのか。「融和」するのか。「分離」するのか。
正解は無いでしょう。
でも、もう私たちは分かっているはずなんです。
「征服」するにしても、私たちの「常識」が決して絶対的な正義ではないこと。
ただ、私たちはたまたまパワーがある「常識」の側に育っただけなのだということ。
「征服」することは、結局はたまたま多数派なだけの私たちのエゴを、押し付けているだけだということ。
「食べ物を粗末にするのは楽しいじゃん」というエゴを、私たちの「食べ物を粗末にするなんてけしからん」というエゴで押しつぶすだけなのだということ。
どっちもどっちだということ。
重ねて言いますが、私は「食べ物の入った冷蔵庫に入ったり」「客に出す食品をかじったり」という行為には不快感を覚えます。
ただ、それが彼らの「常識」でしかない、彼らの「世界」でしかない、そう知ってしまった時、彼らに悪気がないと知ってしまった時、ただ「征服」するというのも、何だか嫌な気持ちがするんです。
「寛容」になることも、「融和」することも、「分離」することも、難しいかもしれない。
それでも、私たちが絶対に正しい、そう思って、晒しあげて、罵倒して、厳罰を与えて、そうやって「征服」することは、何かが違う、そう思うんですよ。
「征服」するにしても、絶対的な正しさの下でではなく、ジレンマに悩みに悩んで苦渋の決断として下したい。
これは「正義」ではなくて「エゴ」なんだって、罪悪感を噛み締めながら鉄槌を振り下ろしたい。
「征服するなら同じ事じゃないか」
そう、みんなは笑うかもしれないけれど、
でも、この覚悟や志がなくて、何がグローバル化だって、そう思うんですよ。
あんなに多様な「世界」を相手にして尊重しようと言う口で、弱小な「内なる世界」は何の迷いもなく消し去れと言うなんて、何だか納得行かないんですよ。
馬鹿かもしれない。
愚かかもしれない。
「常識はずれ」かもしれない。
でも、これが私の「常識」で、そして「エゴ」なんですよ。
文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)
- 作者: ジャレド・ダイアモンド,倉骨彰
- 出版社/メーカー: 草思社
- 発売日: 2012/02/02
- メディア: 文庫
- 購入: 27人 クリック: 421回
- この商品を含むブログ (147件) を見る
P.S.
はい、極めて長いですね。。。
すみません、カッとしてつい。。。
もし最後まで読まれた方いたら、お疲れ様でした。ありがとうございます(;´Д`)
ちょっと追記。
とまあ、結局のところ、「うちら」の人たちの最大の盲点は、「うちらの世界」と思っていた「コンビニ」や「チェーン店」は平時は「うちらの世界」でも、有事となれば「世間」につながっていてあっという間に「世間様の世界」になってしまうことでしょうか。
地元で溜まり場になるような、お客さんもみんな「うちら側」であるような個人商店みたいなところであれば、こんなに炎上したり、処罰されたりもしなかったのかなぁなんて。
あと、「教育」や「啓蒙」について書き忘れてましたが、これは武力を使うような過激な方法ではないものの、「こちらの常識」を与えるという意味では、実質的には、(時に「寛容」や「融和」も取り込める)緩やかな「征服」になるのかなぁと思います。