雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

「はい、論破。」はディベートではない

気づいたら6月も終わりかけ。

流石にそろそろ更新したいなーと思っていたところ、こんな記事が上がっていました。

 

「はい論破。」は誰も幸せにしない:日経ビジネスオンライン「はい論破。」は誰も幸せにしない:日経ビジネスオンライン
 
心理学博士の榎本博明さんに対するインタビュー記事ですが、この中で榎本さんは、ディベートに象徴される相手の意見を論破する欧米流の対立型コミュニケーションに対し、日本人の相手の気持ちを思いやる融和型コミュニケーションを置き、後者の重要性を説かれています。
 
なかなか興味深いお話でした。
 
私も「論破」というものには以前から少し思うところがありまして、ちょうど良い機会なので、今日は「ディベート」と「論破」について書いてみようと思います。
 
 

論破宣言という敗北

榎本さんは記事の中で「論破」的な自己主張の強いコミュニケーションで社会が殺伐としていることを憂いていますが、これは私も共感できるところです。
 
実は、私のブログでも過去にそのような「論破志向」なコメントが付く経験がありました。
私の記事に対する反論をひとしきり述べた後に、「さあ、もう反論できないでしょう?」という締めの言葉を付ける、そんなコメントでした。
 
批判をいただくのはいいのです。
私も賛否が分かれる記事を多く挙げている自覚はありますので、反論があるのは当然だと思います。
自分と違う立場からの意見は勉強にもなります。
だから批判はいいんです。
 
ただ、最後の言葉は何なのでしょう。
批判することそのものには必要がない要素ですよね。
「反論できないだろうから、俺の勝ちだ」と言いたげな高圧的なセリフで、受ける側にとってはやはり嫌な気分です。
 
そういった論破志向の彼らは、多分そのように言うことからして、論理的であること、ディベートに強いことを自負されているのだと思います。
でも、それならば「はい、論破。俺の勝ち」的な勝利宣言は本来ありえないはずなのです。
 
なぜなら、ディベートにおける勝敗の決定は、あくまで論者ではなく第三者が決めるものだからです。それもそのはず、片方の論者が勝手に勝利宣言を出して良いのなら、どちらの論者も自分の勝利を主張してしまいますから。
 
それなのに、一方的に反論をし、相手の反論のターンを待つ前に勝手に「論破した」と決め付け勝利宣言を出すことは、それこそ客観的な論理を欠いた主観的な主張です。どちらかというと、そんなことを自ら言った時点で敗北と判定されてもおかしくないと思います。
現在W杯で盛り上がっているサッカーと同じです。判定するのは第三者の審判であって、プレイヤーではないのです。
 

 

 ディベートする空気

また、榎本さんは記事の中で欧米流のディベートをするならまずディベートをする風土を確立するべきと述べられています。これも私が非常に共感するところです。

 

再びブログでの例を挙げますと、時々ですけれど一般の日記を書いているようなブログあるいはせいぜいエッセイ的に思いを綴ったブログに対し、「言葉の定義が間違ってる」「論理がとんでる」「客観的な根拠が無い」などというようなコメントが付くことがあります。

 

個々に見ると確かに、元ブログの記事に論理的な厳密さが欠けていて、その意味ではそれらが適切な指摘である場合は少なくありません。物事を批判的に吟味することは科学的な態度として正しい姿勢ではあります。

 

ですが。

 

それはただの日記なんですよ。

学術論文じゃないんです。

それなのに、そこに論理的厳密さを求めてディベートをふっかけて良いものでしょうか?

 

学術論文は、学術的正確さを追求するという暗黙の了解があるからこそ、論理性を問われます。

通常のディベートも、お互いに「論理的な議論をしよう」という了解があるからこそ成り立っています。

だから、相手が「論理的な議論をすること」に同意をしていないのにディベートに引きずり込むのはマナー違反なのです。

サッカーに参加しているつもりがないのに、いきなりサッカーボールが飛んできたら普通は困りますよね。

 

とはいえ、間違いを指摘することはやはり必要な場面もあるでしょう。

ただ、前回の記事にも書いたように、人は理屈だけで動くものではないのですから、無理にロジカルな話やディベートに乗せようとしても、かえって拒否反応が出てその間違いの指摘が伝わらない結果となりえます。

 

ですから、逆説的ですが、論理的なディベートをするためには、ディベートをする空気かどうかを読むこと、ディベートをする空気を作ること、といった非論理的なステップが必要なんです。

 

 

ディベート ≠ 対立

このように見ていくと、「論破」という言葉を象徴としている榎本さんのディベート観も、正直なところディベートを悪く見すぎているように思います。

 

上に書いたように、無闇に論破を図るのも、空気を無視して殺伐とした議論をふっかけるのも、本来のディベートではありません。

公正中立な第三者に判断を仰ぎ、ちゃんとした双方合意のルールのもと議論を展開するのがディベートなんです。

 

ディベートに慣れた欧米の方々では、さっきまで意見を対立させ激論を交わしていた二人が、その後普通に仲良くランチに行ったり、趣味の話で普通に盛り上がったりするのが日常なんだそうです。

これも、欧米の方々はディベートはディベートで、人格そのものの対立ではないことをよく理解されているからでしょう。

 

だからもし日本人がディベートをすると殺伐としてしまうのだとすれば、ただそれは多分日本人がディベートをよく理解しておらず、またそのスキルがまだ成熟していないだけではないでしょうか。

 

 

ディベートはやはり論理という人類の強力な武器を活用するのに有用な活動の一つです。

 

相手の気持ちを汲み取り、相手を尊重するのが日本人の長所だとすれば、ならばこそ欧米の方々の長所であるディベート文化にも敬意を払い、理解していくようも努めていけるはず――

 

そう私は思います。

 

 

 

<参考記事>

「コミュニケーション能力」を要求するディスコミュニケーション社会

 

 

 

P.S.

元気です~。

プライベートプロジェクトが忙しくて、なかなか更新できず、すみません・・・。

夏頃には落ち着きますので;;

 

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