写真が写しだすもの
私の巡回先には写真ブログさんがいっぱい登録されています。
私のブログはカテゴリー分けするとすれば文章系(しかも長い)ですが、写真をいっぱい載せてくれる写真系のブログさんもまたブログの中で一大勢力です。文章+写真の複合技の方も多くいらっしゃいます。
写真についてはド素人な私ですが、写真ブログさんの写真たちを見るのはとても好きで、いつも楽しんで拝見させていただいています。
そうしましたら、先日行われたid:keisuke9498さん達の写真ブロガーズオフ会で、なぜか私のブログの話題が出たとのことで。。。(記事)
それを聞いて、もう恥ずかしいやら光栄やら、頭のなかを色んな感情が駆け巡って、「うひゃ~、なんですとぉ((((;゚Д゚))))」と動揺を隠し切れない状態です(笑)
こんなへっぽこブログなのに、ほんとありがとうございますm(_ _)m
お返しと言っては何なのですが、せっかくですので今回は、「写真」をテーマに私なりに考えたことを綴ってみたいと思います。
(と言いましても急造したわけではなく、大分前にボーッと考えて、いつか書こうと置きっぱなしになっていた話だったので、ちょうどよかったです!)
◆
一般的に「写真」と言いますと、その言葉の中に「真」が含まれているように、「真実」や「リアル」を写しだすものというイメージが強いのかなと思います。
一部「写真と見まごうような絵を描く絵描きさん」もいらっしゃいますが、基本的にはどんなに上手いお絵描きさんでさえ、素人がその辺に売っているようなカメラで撮った写真に、その「描出のリアルさ」は負けてしまいます。
また、証拠として「写真」は裁判資料にも使えますし、学術論文でも「写真」は重要な資料として認められます。世俗的なところでは、ゴシップを載せる週刊誌でも「写真」が無いとスクープになりません。もしそのような資料が誰かが描いた絵だったら、「ほんまかいな」と信憑性や説得力が欠けてしまいます。
それはそれは実に「客観的」で「現実的」で「具体的」なもの、それが「写真」――そう認識されているのが現状でしょう。
さて、私は以前、
「アートは分からないということが分かったという話 - 雪見、月見、花見。」
この記事の中で、「抽象画は『分からない』と言われ毛嫌いされる一方で、写実画は『分かる』ので好まれる。でもその具体的なことに反発する抽象画の気持ちが現代らしいアートなのでは」というニュアンスの話をしました。
こう言ってしまうと、「写実性の権化」である「写真」なんて「アートじゃない」と言っているように思われかねないので、いつかちゃんと語ろうと思っていました。
ということで、今回ビシっと言っておきます。
「写真」だってやっぱり「アート」です。
だって、「写真」も一般的に思われているほど「写実性の権化」ではないからです。
◆
上で、「写実画は『分かる』ので好まれる」という話がありました。
確かに抽象画は「分かりにくい」です。それに比べれば写実画は何の絵かは分かるので、一瞬「分かりやすい」ような気はします。
でも、「何の絵か」が分かっているからといって、私たちは「写実画」を本当に「分かっている」と言えるのでしょうか?
同様に、一見、現実をキレーにそのまま写し出しているように見える「写真」だって本当に「分かっている」でしょうか?
例えば「富士山」の写真を撮っている方が居て、その方が写しているのは「富士山」でしょうか。
その写真を見て「富士山ですね」って分かってもらえたら、その写真を完璧に味わってもらえたとなるでしょうか。
そうではないですよね。
だって、その方が写し出したいのは多分、「富士山」って名詞ではないんです。
きっと本当に写し出したいのは、「富士山の◯◯なところ」や「△△な富士山」とか、「富士山と□□が組み合わされることで生み出す☆☆な感じ」とか、そういう形容詞的な部分も含めたものです。
例えば「綺麗な富士山」とか「富士山の綺麗さ」とかの句の中での「綺麗」の部分も含めての「富士山」です。
言い換えれば、「自分が富士山をどう感じたか」とか、「富士山がどう自分を感じさせてくれたか」とか、そういう自分の感情、感触、感覚、気持ちも込めての「富士山」です。
例えば、愛情や感謝を示すのに、普段私たちはプレゼントを渡しますよね。
でも、その時に本当に示したいのは「プレゼント」ではなく、「そのプレゼントに込めた気持ち」じゃないですか。
それと一緒で、気持ちを何とかカタチにしたい、そんな人間の本能的な表現欲が、やっぱり「写真」にもあるんです。
形容詞って名詞が無いと成立しません。だから形容詞を表すために、名詞代わりとして対象物を用いて写真を撮るんです。
写真の中でも抽象的な作品では、その「形容詞色」が強いけれど、その時の対象物「名詞」だって、ただの媒介物ではありません。
やっぱり、「想い」という「形容詞」を込めるほどの「名詞」が、撮影者にとって、どうでもいい存在のはずはありません。
写真は「形容詞」を表すためのモノでもあるけれど、同時にきっと「名詞」になる対象物に対しての撮影者からの「プレゼント」でもあるのです。
◆
「形容詞」を表したいと言っても、大抵の場合、その感触に合う適切な言葉なんて無いので、容易に言葉で言い表せるものではありません。
私たちも普段「あーもー、とりあえず一回見てみてよ!すごいから!」と、「何かを見た感動」を言葉で表現しきれずに「とりあえず見て」と言わざるを得ない時がありますよね。
そんな中、写真家の方々は言葉でなく写真の撮り方で、その形容詞を表すことに挑みます。
そう、写真の撮り方。
コレ。
写真が「客観的」で「現実的」で「具体的」なものと思われている時、多分見落とされている点がココです。
写真は「真実」を写すものなんだから、誰がどう撮っても「真実」が「写る」。
なぜかそう思われてしまっているのだろうと思います。
でも、そんなはずないじゃないですか。
私たちが絵を描く時、同じモノや場所を対象にしていても、全然絵の見え方が違いますよね。それは人によって描き方が違うからです。
同じように、写真だって撮り方で当然その見え方は変わってきます。
当たり前のようですが、このことが案外忘れられているのではないかと私は思うのです。
カメラなんていっぱいあります。色んな種類があります。
レンズだっていっぱいあります。色んな種類があります。
シャッタースピード、絞り、感度、色んな設定があります。
フィルターやエフェクトをかけて、色んな変化をつけることもできます。
これだけでなく、素人の私が知らないようなもっともっと多くの機器やその多様な使い方や設定もあるでしょう。
これらの撮り方がちょっと違うだけで写真が変わる、これはみんな冷静に考えてみれば分かっているはずです。
しかし、たとえ機器や設定が同じだったとしても、写真は同じにはなりません。
例えば日時や季節――写真を撮る方々は早朝出かけたり深夜に出かけたり、毎年春を待ってみたりします。それもやっぱりその時にしか写せないものがあるからです。
そして、場所・角度――風景写真を撮る方々は自分の望む角度を目指して場所の選定に余念がありません。どこにでも出かけますし、色んな方角からアプローチを図ります。それもやっぱりその場所・その角度でしか写せないものがあるからです。
そして、対象物の配置や光源――静物写真を撮られる方は、その魅力が引き出せるように対象物の配置や光源にも気を払われていることでしょう。それもやっぱりその位置関係次第で写るものが変わるからです。
そして、対象者とのコミュニケーション――人の写真を撮られる方は、対象の方に話かけたりします。モデルさんの写真の現場でもコミュニケーションを取りながら撮影されるようですし、一般的に誰でもやるような「はい、チーズ」だってコミュニケーションです。面白いことを言って笑わせようとする方もいます。それもやっぱり、その人の表情や感情も、写真に写るからです。その表情が「写るその人」の魅力をも動かすからです。
さて、人によって時によって場所によって、機器の設定も違えば、撮り方も違う。
そんな中で、写真が「真実を写す」って、何なのでしょう。
「真実」って何なのでしょう。そんなもの本当にあるんでしょうか?
いいえ、そんな共通するような真実なんて無いんですよ。
あると言えるとすれば、写真家が何とかして写したい「その対象物のイメージや魅力」でしょう。
でも、それは確かにあるけど、つかめない、そんな存在です。
決して簡単に写すことができるものではありません。
それは言うなれば、ただの「名詞」ではない「形容詞+名詞」です。
その「形容詞+名詞」はそれぞれその写真家の頭の中にしかない、世界で唯一のもの。だけど、人の数だけ無数に多様に存在しています。
そう、それは自分しか持っていません。
その各個人でそれぞれ違うイメージに、各個人が迫るというのは、ものすごく孤独で、そして難しい行為です。
そんな中で、写真家の方々はイメージに何とか近づこうと、無限にある「撮り方」の中から試行錯誤を繰り返すのです。諦めずに何度でも微調整を繰り返すのです。
それも、ひとえにその「自分だけに、自分だから、見えているもの」をカタチにしたいから。
完璧にはその想いをカタチにすることはできないかもしれないけれど、少しでもソレに近づきたいから。
「写真」で挑むことに決めたから。
だから、決して彼らは「写ってればいい」なんて、思わないでしょう。
だから、私たちのような素人が諦めてしまったような、「どうやって写すか」を出来る限り追求するのでしょう。
一見すると彼らは「同じもの」を飽きもせず、大量に撮ってるようにみえるかもしれません。そう思ってしまえば「写真」というものが「共通の一つの真実」を写し出しているように認識してしまうのかもしれません。
でも、撮影者の彼らからしてみれば、どれ一つとして同じ写真はやっぱりありませんし、どれも大事な挑戦や感謝の気持ちの足跡に他ならないのです。
◆
「写真」って、英語では"picture"や"photograph"ですよね。
でもこの"pict"や"graph"って日本語で言えば「描く」とか、「書く」って意味です。
ええ、だから「写真」はあくまで光を使って「人が描いたもの」という意味なんですよ。
そう考えてみれば、見えてきませんか?
日本語の「写真」って言葉も、その言葉のメインの意味は「真」の方じゃないって。
多分、「真が写る」――そう解釈してしまうから、「真」が主役になってしまうんです。
でも違いますよね。あくまでこれは「人が描いたもの」、「人が写したもの」なんです。
だから「写ルンです」じゃありません。「写スンです」なんですよ。
「写真」は「真が写る」ではなく「真を写す」という意味で、「真」の方ではなく、「写す」という動詞にこそ、その本質があるんです。
「写す」という人が人として、意思を持って行う行為である――それが「写真」という言葉の意味なんですよ、きっと。
そして"art"という英語。
"artificial"という単語が「人工的」と訳されることからお分かりの通り、"art"という言葉には「技術」とかそういう「人工」という意味が込められています。日本語の「芸術」だって「美術」だって、「術」ですよね。
なので、私は人の行為や意思が含まれたものは全部"art"なんだと思うんです。
だからもちろん「真を写す」という「写真」は、ただの「リアル」ではなく、やっぱり「アート」なんですよ。
考えてみれば、私のような素人でさえ、何かを写す時に自然に対象物が写真の枠内に入るように撮ろうとします。
人の頭がかぶったら「うわ、邪魔」って思いますし、はみ出たりブレたりしたら「あ、失敗した」って思います。
そう、この広い世界の中から、そんなに小さな枠を切り出そうと言うのですから、どうやったって「人の意思」がそこに働きます。
私たちは意識的にせよ無意識的にせよ、何らかの思いを持って「世界を切り出して」いるのです。
客観的とされる証拠写真でさえ「その証拠の客観的な特徴をしっかりとらえよう」という人間の主観的な意思が働いています。
だから私は証拠写真にさえ、アートを感じたっていいと思うんです。
それぐらい、世界にはアートが満ち溢れてますし、私たちがみんなアートを持っているんだって、私は思っています。
だから、その「アート」の存在に気づかなかったり、無視してしまったりすることが、すごく悲しいです。
抽象画が「分からない」と思われてしまうのと同様に、写実画が「分かる」と思われてしまうのも、「写真」が客観的って思われてしまうのも、もしかするとこれほど寂しいことはないんじゃないかなって思います。
最後に、以前書いた私の記事から引用して終わります。
――でも、美術の授業が終わっても、大事にしてもらいたいことがある。それは何かを"美し い"と思う気持ちだ。何だっていいんだ。その辺に咲いている花でも、店の食器でも、何だって。何かこの色いいなとか、この形いいなとか、そう思えることが 大事なんだ。世界は綺麗なものでいっぱいだ。でも見ようとしないと、案外見えないものなんだ。綺麗なものを見つけて、その時に"綺麗だな"って思えること、これが美術だ。それをこれからの人生、忘れないで欲しい。
What a Beautiful World - 雪見、月見、花見。
――キレイな彫刻に感動するのも、その彫刻がキレイだから感動してるんじゃなくて、作者が間違いなく自分の意志で彫り進めて、しかも結果もキレイだから感動するんです。
ただキレイだからじゃないんですよ、背景にたくさんの人の願いが、みんなが生きて生きて生きているときの意志の理想像が現れた、そんな奇跡の象徴だからなんです。
P.S.
・・・と、ド素人の癖に大口叩いちゃってすみません(^_^;)
なので罰ゲームとして、私のつたない写真もUPしてみます。。(ドキドキ)
以前、私が密かに桜ツアーに行った時の写真です。
⇧これは、keisukeさんばりの「窓景」で(笑)
⇧飛び出す夜桜♪
はい、お目汚し、失礼しましたm(_ _)m
また、写真ブロガーの皆様におかれましては、時々ご指導ご鞭撻賜れましたら♪