高度に発達した編集は創作と区別がつかない
話題の
「文章を「書ける人」と「書けない人」のちがい - デマこいてんじゃねえ!」
を読んで。
文章を書くという仕事は、ゼロを1にする作業だと思われがちだ。
(中略)
しかし実際には、文章を書くというのは100を1にする作業だ
と始まるこの記事は、文章を書くことにおける事前の知識のインプットの重要性について述べられている、id:rootportさんの相変わらず素晴らしい高度な洞察に満ちた名文でした(もう、悔しいですね、上手すぎて)。
実際、名作家さんには非常に膨大な取材やインプットをされる方が多いようです。
例えばid:yumejitsugen1さん一押しの横山秀夫氏の「64」という小説も、
その一作をもって世にでるほどの傑作短編を書くまでに、記者生活12年とフリーランスの7年、合計19年。
そして、この「64」を書くためだけに、7年。
(中略)
「影の季節」が、とてつもなく重厚で、大きな絵をもった傑作長編「64」として生まれ変わるために、14年。
と、非常に長い時間と多大な労力をかけ、綿密な取材や緻密な考察を背景にようやく生み出された一冊であったようです。
また、「図書館戦争」で有名な作家、有川浩氏も、どれかの本のあとがきで、
「書く前にものすごく取材をします。そうすると、人間ついつい得た知識を全部書きだしたくなっちゃうのですが、それを全部出さずにバッサリと本当に必要な一部分だけを小説に込めるんです。そのほうがかえってリアルになると思うんです」
と、まさに「100を1にする」そのままのお話を書いてらっしゃった記憶があります(ちょっとうろおぼえですが)。
このように、rootportさんの言うインプットの重要性と「100を1にするのが文章を書くことだ」という主張はやはり非常に核心をついたお話のように思います。
◆
しかし、一方でこのような反論も見られました。
「100→1」の文章術は書き手というより編集のそれだ。
(中略)
だって「0→1」ができない人間が100の素材を集めて1まで圧縮したところで、それはただ中身がスカスカになった骨抜きの「1」にしかならない。
「100を1にする」なんてただの編集であって、書き手には外部の素材だけでなく、結局自分の世界も盛り込んだ「0を1にする」能力が必要なんだと、そういう主張です。
時間軸は前後するのですが、id:creep07さんも、たまたま先日同じような疑問を呈されていて、
たしかにその記事と全く同じものがまだ存在していなければそれを「新しい」と「呼ぶこと」はできる。
しかし自分の言葉が全く無いものや、既存の知識を編集しまとめただけのものが本当の意味で「新しい」と言えるだろうか。
独創的だと言えるだろうか。
創作だと言えるだろうか。
と、果たして編集は創作と言えるのか、そう問いかけてらっしゃいます。
このように見てみると、「100を1にする」のと「0を1にする」のと、あるいは編集と創作と、それぞれ対立しているようで、何だかよく分からなくなってくるかもしれません。
でも、これはみんな実は同じ事を言っているのではないでしょうか。
「100を1にする」と「0を1にする」は、対立しているのではなく、そして独立しているものでもなく、実は同じ行為を違う側面から見つめただけなのでは、と私は思うのです。
◆
一見、別の話のようですが、この記事も最近話題になっていました。
ただし、ただしですよ。そういう「常識とは違う新しいこと」をやろうとする99%以上は失敗している気がするのですよね。(中略)
ということで、普通に成功したければセオリーや型を大事にして、先輩のことをしっかりと聞き、基本的な部分をきちんと抑えた上で、本当に大事な核の部分のみで革新的なことを試すのがいいんじゃないかと思うのです。
この記事では、むやみに「新しいこと」を追い求めず、「既存のセオリー」をしっかり把握した上で、新しいことに挑戦する重要性を述べられています。
これは起業の話ですが、これもどうでしょう、「100を1にする」の話ではないでしょうか?
そして、また別のこちらの記事。
現在は、オリジナル性を競うのではなく、過去の歴史で蓄積されたナレッジを如何に的確に、適切に、スピーディに実施していくかの戦いなのかと思っております
「競合サイトの真似だけでは、競合サイトを追い越せない!!」じゃぁ、どのように差別化を図るの? - webディレクターのネタ帳
こちらの記事も、独創性ではなく、既存のセオリーを如何に適切に実施していくかが大事であると述べられています。
やはり、これもまた「100を1にする」話かなと思いそうなところですが、この記事にはもうひとつ大事なポイントが述べられています。
具体例としてはメンズファッション+に関しても、戦術部分は確かに「amazon」と同じかもしれません。しかし、「理念」「戦略」「KPI」の部分で、おのずと他社と違いが生まれてきます。(中略)
このように、理念、戦略、KPI設定がまったく違うため、全く同じ「ECサイト」というものをやっていても、機能やサービス、分析手法において、オリジナル性を追求しなくても、同じ機能やサービスであっても、まったく違うものがアウトプットされていくということ風に考えております。
「競合サイトの真似だけでは、競合サイトを追い越せない!!」じゃぁ、どのように差別化を図るの? - webディレクターのネタ帳
つまり、戦術部分が既知のものであっても、戦略という、その組み合わせ方や用い方が違うために、オリジナルが生まれてくるということです。
そうなんです。
こここそが、私の考える「100を1にすること」と「0を1にすること」の合流地点なんです。
◆
私は以前、こんなことを書きました。
私たちの意見は、全て「他人の意見」や「他人からの影響」を材料にしていて、決して「自分由来のもの」など存在しえないのです。
ちょっとした暴論ですが、考えてもみて下さい。
私たちが意見を述べる時に用いる言葉、それ自体、私たちが「他の人の用い方」を見て学んで、真似て使うようになったものですよね。
だから日本語を使う人が多い日本人は日本語をしゃべるようになるし、英語圏の人は英語をしゃべるようになります。
そんな人からの借り物を使っていて、オリジナルですか?
造語だってそうです。
「アベノミクス」だって、結局は「安倍総理」と「エコノミクス」という既存の単語を組み合わせただけの代物です。純粋なオリジナルでは無いですよね?
言葉で文章を紡ぐ以上、純粋な意味でのオリジナルな意見なんて私たちには無いんです。
結局は、いつだって私たちは「100を1にする」ばかりなのです。
(過去記事の再掲図)
しかし、一方で私たちは「創作」というものが存在していることも確かに感じています。
既存の知識や単語を寄せ集めただけに見えない、どう見ても「0から1を生み出している」ような魔法を感じる作品に誰しも出会います。時に大きく心を揺さぶられます。世界がグンと広がって、今急に目が覚めたかのように新鮮な気持ちにさせてもらえることがあります。
なぜでしょう。既存のものや既存の単語を集めて編集しているだけなのに、どうしてそこに「独創性」が生まれるのでしょう。
その疑問に対する私の答えはコレでした。
素材の由来を気にするからいけないんです。
ちゃんと、この世界であなたの中にしかない唯一無二のものがありますよね。
それは、「他人の意見」という素材の組み合わせ方です。
なぜ私たちは自分の意見を主張するべきなのか - 雪見、月見、花見。
(過去記事の再掲図)
そう、素材はどうやったって借り物です。だから、それを用いて作った文章は確かに「100を1にした」ものでしょう。ある意味ではパクリなのかもしれません。
ですが、その借り物をどう組み合わせるか、どの要素をどう使ったか、その組み合わせ方法、これは往々にして世界で唯一の存在です。
今までに無かった組み合わせを生み出した、まさに「0から1を生み出す」行動なのです。
つまり、「100をどうやって1にするか」この「どうやって」の部分こそが「0から1を作る」「独創性」なのです。
例えば、ショートショートで有名な作家の星新一さんは、アイディアを生み出すために皆が知っているような単語をカードにたくさん書いて、ごちゃまぜにして、パッと取り出した2つの単語の組み合わせで話を考えたと言います。
また例えば、ドラえもんの作者藤子不二雄さんも、ドラえもんというキャラクターの元はたまたま見かけた「どら猫」と「ダルマ(人形だったかも・・?)」のイメージを合体させたものなんだそうです。
両名ともに、非常に独創的な作品群で有名ですが、その発想の元になるものはあくまで「誰もが知っている素材」です。
それがなぜ独創的になりえるかと言えば、その組み合わせ方が「独創的」だからにほかならないのです。
◆
振り返ってみれば、私たちが住むこの世界では、単純かつ有限な素材を組み合わせることで無数の存在を生み出している例は多くあります。
例えば、私たちの遺伝情報を司るDNA。
このDNAの素材はG、A、T、Cの4種類の塩基しかありません。
しかし、この4種類の文字だけでも、長い列を組んで組み合わせれば、そのパターンはほぼ無限です。
この4種類の文字を組み合わせることで作るべきアミノ酸を指定し、そのアミノ酸の配列もさらに指定することで、私たちの生存にかかせない無数のタンパク質が生み出されます。
たった4文字のアルファベットからなる設計図ですが、そのパターンは大変多彩です。
でも、あくまでこれもただ「組み合わせた」だけです。
生物でなくとも、有機化合物だって、ほぼH、O、C、Nという少数精鋭の元素で構成されていますが、その無数のバリエーションは枚挙に暇がありません。
また無機化合物だって、せいぜいが素材は周期表に載ってる程度です。誰だってちょっと本気を出せば元素を全部数えられます。しかし、その化合物の数は膨大すぎてそれを数えられる人はいません。
ただちょっと「組み合わせた」だけでです。
音楽だってそうでしょう。
ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ、あとはちょっとシャープやフラットをつけるぐらい。
構成要素としては非常に単純なものです。
しかし、それを並べて組み合わせたものが、どんなにパワーがあるか、どんなに無数のメロディーがあるか、私たちはもう身にしみて知っているはずです。
絵画でもそうです。
世界のどんな名画も、多分世界で唯一の色の絵の具を用いて描かれたわけではありません。私たちの誰もが画材店に行けば手に入るような、有限個の絵の具のセットで描かれているはずです。
有限個の絵の具でも、組み合わせれば、その色彩はもう無限です。
芸術家たちはその中で、自分のイメージに沿う「唯一無二の色」を求めて日々格闘しているのです。何故それが格闘するほど大変かと言えば、やっぱりそれは組み合わせは無限にあるからです。
たとえ、それがたった3原色という少ない色の組み合わせであっても、そこには無限の宇宙が広がっていて、その中で一つの色をつかもうとすること、これが困難でないはずがありません。
◆
だから、文章もそうなんですよ。
有限個の文字と単語、そして背景知識や文化や考え方も基本的には人からの貰い物です。
全ては既知のもの。
しかし、その組み合わせは無限大です。
だからこそ、その組み合わせに「創造性」が生じるのです。
なので、文字を覚えて間もなくて、ほとんど知識の無いはずの子どもたちでも、時に素晴らしい文章を紡ぐことがあります。
それは、どんなに持ってる素材が少なかったとしても、その組み合わせは無限だからです。
そこに誰も見たことのない組み合わせを生み出し「創造」することは全然不思議ではありません。
逆に、豊富な知識や情報を用いた文章でも、「独創性」が感じられないこともあるでしょう。
でも、それは素材がダメなのではなくて、おそらく残念ながら「組み合わせ方」が「寄せ集め」か「平凡」だったからです。
例えば、私たちが料理をする時、買い物直後あるいはテレビクッキングの冒頭のように、その食材だけただ並べた状態は、別に美味しそうでもないし、非常に凡庸な姿です。いくら新鮮で多彩で高級な食材を取り揃えていても、それだけでは「独創的」とは呼べませんよね。ただの「寄せ集め」です。
あるいはクックブックに載っているようなオーソドックスなやり方に倣って調理しても、美味しいは美味しいでしょうが、それはあくまで「平凡な料理」に映ってしまうでしょう。
もちろん、塩の量が1mg違ったり、火にかける時間が1ms違ったり、世の中何事もイレギュラーは絶対に含まれますから、その最終的な全体像は確かに絶対に同じにならず唯一無二ですが、その「組み合わせ方」に独創性が無ければ、「創作」ではなく「編集」にしか見えないのです。
そんな中、仮に素人と同じ食材を使っていたとしても、その「味」に差を出すのが「料理人」です。その「味」の差を生み出したものは、もちろん調理過程という素材の「組み合わせ方」です。
そして、もちろん本来的には「料理人」は食材選びにもこだわっています。
ですから、考えていただければお分かりの通り、「使える素材が増えること」はそれだけ単純に「組み合わせ方」が増えることも意味しています。
キャベツを知らない人が、ロールキャベツを作ることはできないですし、豚肉を知らないひとがトンカツを作ることはできませんよね。
このように、素材を集めることは、限られた素材の中で組み合わせを考えるのと、また違った無限の組み合わせを生み出すことができます。
だからその無限の組み合わせの深淵にさらに挑むという意味で、素材集めもやっぱり創作の大事な作業なんです。
食材を選び調理する。
本を読み、取材をし、話を聞き、そしてここまで生きてきて、文章を書く。
これらの作業の中には、素材を集めて厳選するという「100を1にすること」もそれをどう組み合わせるかやどう調理するかという「0を1にすること」も、混然一体として含まれていて分離不可能なものなのです。
つまり、「既知の素材あるいはセオリーを大事にしなさい」ということと、「新しいこと(組み合わせ)を生み出す」ということは背反でも対立するものでもなく、むしろ同一で共存していて、不可分なものなのです。
◆
一杯のすまし汁は、無色透明ですが、その中に私たちは芳醇な昆布や鰹の風味を味わうことができます。
どう見ても、そこに昆布や鰹節が突き刺さっているわけでもなく、もはや影も形も無くなってしまっているのに、確かにそこに昆布や鰹は居るのです。それを私たちは感じ取ることができます。
見えないのに見える。
居ないのに感じられる。
これはただ、昆布や鰹節を横に並べてお湯をかけただけでは起きない現象です。
そのように、生の素材を目前に並べられて「見えるよね?感じるよね?」と言われても、私たちは「はあ、まあそうですね」としか言うことはできません。
「ただの昆布と鰹節のお湯かけ」と、「すまし汁」の間の違い、これが編集と創作の違いなんだと私は思います。
昆布や鰹節から美味しいすまし汁の出汁をとるように、
「どうやって素材を殺しながら、そして同時に活かすのか」
が、多分編集と創作を分かつところで。
そして、これこそが「100を1にしつつ、かつ0を1にすること」に他なりません。
「高度に発達した科学は魔法と区別がつかない」
と述べたのは、アーサー・C・クラークでしたか。
多分これと同じで、文章も、
「高度に発達した編集は創作と区別がつかない」
のです。
もし、ある文章が「編集」にしか見えないものであったら、それは多分「100を1にしつつ、かつ0を1にすること」がまだ高度に発達できてないだけなんです。
でも、肩を落とす必要はありません。
そんな「編集」の格闘の行く末に「創作」はちゃーんと待ってるんです。
きっとね。
P.S.
まあ、そういう私の文章が一番グジャグジャなのですが!(そして相変わらずの長さ・・)
一応、今回は「組み合わせ」の話ということで、パッチワーク張りに目一杯引用してみました。
引用させていただいた皆様方、失礼をお詫びいたしますm(_ _)m
それにしても引用文タグの調子が悪くて文型がガタガタしてます。。
申し訳ないですが、何だか直りません(´・ω・`)コマッタ