アートは分からないということが分かったという話
有名ブロガーのちきりんさんは、最近やたらと「アート」推しです。
「アート」という言い方こそされないものの、「創造性」だの、「クリエイティビティー」だの、というアート系の能力の必要性は、他の場所でも主張されているのを最近しばしば目にします。
その辺りを考えると、「アート」推しは最近のトレンドで、どうやらちきりんさんだけが言っているというわけでもないのでしょう。
かく言う私も、「アート」大事、と思っている「アート」推し一派なのですが、残念ながら憧ればかりで、とてもとても「アート」能力はありません。
手先は大変に不器用で、学生時代の図工や美術の点数は言わずもがな(もう少しがんばりましょう)。
絵も当然苦手で、せいぜいが親戚の子どもに書くためのアンパンマンを歪んだ丸で描くぐらいです。(がんばってアンパンマンを書いても「他のも書いてー♪」という無邪気な一言で毎度撃沈です)
技術だけでなく、人生的にはちきりんさんの言葉を借りれば「ロジック」系統ばかりやってきたので、「アート」の素養や基礎などの知識的な部分も全然知りません・・・(/ω\)
そんな私が「アート」推し、なんて言うのもおこがましいのかもしれませんが、でも、「アート」能力が無いなりに、「アート」を見るのは実は好きなんです。
特に好きなのは現代アートと言うんでしょうか(?)、抽象画とかが置いてあるゾーンで、なんやよくわからない、◯とか□とかだけあるような絵とか、なんかよく分からない直方体みたいなのがちょっと曲がってるみたいなオブジェとか、ああいう感じのです。
で、極めつけに題名が「無題」だったりする類の感じ(笑)
ああいうのを前にして「おー、なんか、これはなんかやな!」と、内心はしゃぐのが私はとても好きなのです。
◆
そんな私がブログを書き始めて出会ったのがid:aniram-czechさん。
彼女は芸術系大学院を卒業されたという由緒正しいアート系の念能力者で、ブログもその豊富な知識と経験を基に様々なアートを紹介してくれていて、とっても面白いです。
もう、「アート」に憧れている私から見れば神様みたいなもので、いつも記事を大変楽しみに拝見しています。
で、そんなid:aniram-czechさんが以前こんなことを書かれていたことがあります。
「現代アートってよくわからない」という意見をたまに聞きます。
現代アートを学んだ者としては、そーいうのを聞くと、「あなたってよくわからないわ。私たち距離をおきましょう」って言われた気分になり、ちょっぴりさみしく思ったりもします。そこを1歩ふみこえてきてほしいのに…みたいな。
ときどき、彼らの作品を前にして、「わからない」とおっしゃる人がいます。
しかし、私は生まれてこのかた、自分が覚えている限りにおいて、
アートを見て「わからない」と思ったことは、一度もありません。
「わからない」という体験をしたことのない私にとっては、
「わからない」という人が、いったい何をどう「わからない」のかが、逆にわかりません。ただ、「わからない」とおっしゃる人を見ていて思うのは、アートを高尚なものだと考えすぎているのでは? ということ。
つまり、「現代アートはよくわからない」として敬遠されがちな実情があるようなのです。
先ほども書きました通り、私は素人ながらも現代アート系の「わからない」作品の方が好きなものですから、このid:aniram-czechさんの嘆きを読んで「えー、みんなそんなに現代アート好きじゃないんだー」としばし考え込んだのを覚えています。
確かに、振り返ってみれば、抽象的な現代アートのゾーンより、写実的な近代画のゾーンの方がいつも混んでいる気がしますし、最近何かでも人気があるのは後者という記述を見かけました。
何が描いてあるか「わかる」絵の方が親しみやすいというのは現実なのでしょう。
そのような現実を目の当たりにしても、「わかるアート」が人気があるという事実に、何となく釈然としなかった私は、時折この「わかる」「わからない」アート問題を考えていました。
で、最近ようやく見えてきたことがあります。
それは、やっぱり「アートは分からないものなのでは?」ということです。
◆
私が特に引っかかっていたのは、今の人たちが「現代アートは分からないけど、近代美術は分かる」というなら、近代に生きてた人たちにとっての「近代美術」、つまり彼らにとっての「現代アート」はそもそも「分かるもの」だったの? という疑問でした。
その疑問を解く鍵になったのも、やはりid:aniram-czechさんの記事でした。
それが、だんだんギリシャ彫刻のような均整のとれた理想的肉体を目指すようになり、ルネサンスにそのピークをむかえ、以降は次第に、「ヌード」をはなれ、より生々しい「ネイキッド」の裸体像へ変遷していきます。
(図略)下 の画像へ行けば行くほど、「きわどい」感じになっていっているのが、お分かりいただけるかと思います。これはもちろん、キリスト教の宗教上の理由から、神 話などから主題をとってこないと裸が描けなかった中世から、そのような制約が近代~現代に進むつれてなくなっていくというのが、大きな理由の1つです。
これで私はハッとしたんです。
理想的な裸から、徐々に生々しい裸を描くようになっていく芸術家たちの変遷を見ていると、「俺たちは目の前のものをリアルに描きたいんだ!」という彼らの想い、エネルギーを感じませんか?
そう、今でこそ絵を描くと言えば「目の前のものを忠実に描く」が基本かもしれません。でも、きっと昔はそれは当たり前ではなかったのです。
神様が司る世界を描くのだから、「綺麗で」「整っていて」「清らかな」「理想像」であることがアートに求められた、当時はそんな時代だったのではないでしょうか?
「目の前のものを忠実に描く」ことの方が常識外れだったり、罰当たりだったり、「よく分からない」とされた時代だったのではないでしょうか?
これは私がよく引き合いに出す科学分野でのガリレオ・ガリレイの地動説の話とも非常に似通っている構図です。
ガリレオ・ガリレイの「ほら、望遠鏡で見ると実際こういう風に惑星が動いているから、ちゃんと説明するには地動説じゃないと」と「目の前のリアル」を重視した主張に対し、教会側はこう返します。
「地球が中心じゃないようなそんな美しくない世界を神が造られるはずがない。神は常に完璧なものをお創りになられるはずである。だからこそ、天動説が正しいのだ」
現代から見ればビックリするほどの理想論です。しかし、そんな理想論が強かったのが当時の社会でした。
先ほどのヌードの変遷や、この「科学分野」での状況を見れば、「目の前に起きていること」より「理想的な世界」を重視することがアートにおいても常識だった時代があっても全く不思議ではないでしょう。
すると、どうなるかと言いますと、
当時の宗教世界を信奉する人たちからすれば、写実的で生々しい描写の絵はとても常識では受け入れがたかった可能性も十分にあるのではと思うのです。
つまり、近代に生きてた人たちにとっても、彼らにとっての「現代アート」はやはり前衛的で「分からないもの」であったと考えられるのです。
しかし、その上で、あくまでその常識外の「リアル」方向に、社会の制約を振りきって突き進んでいったのが、その時代のアートだったのではないでしょうか。
◆
もちろん、このあたりの議論は、アート能力ゼロの素人である私の乱暴な分析、想像の産物なので、私自身正直「ほんまかいな」というところもあるのですが、とりあえずこの仮説をもとに現代アートの状況を見てみると、非常に興味深いことが見えてきます。
さて、先ほどからお示ししているように、今、現代アートの抽象的な絵やオブジェが「分からない」と忌避され、近代などでの写実的な絵が「分かる」として好まれるという状況があるようです。
ここで考えたいのは、ではなぜ現代アートは抽象的な方向に進んでいるのかということです。
先ほどまで見たように、むしろ近代では「想像の世界」から着実に「リアルな世界」に進んでいたのに、なぜ現代では「リアルな世界」すなわち「具体的な世界」を捨て「抽象的な世界」に針路を変えてしまったのでしょうか。
これは、アートは「制約からの脱却」だ、というのがその答えなのだろうと思います。月並みですが、しかし大事な答えなのだと思います。
人間にとって、最も自由なものは精神だと言われるように、各自の心の中の声だけは、外の何者も直接いじることはできません。
芸術家のように魂を表現する人たちが、その自由な精神から社会の制約を振り払った作品を追求しようとすることは不思議ではないでしょう。
つまり、近代美術が宗教の掲げる理想世界の制約から脱却を図ろうとしたように、おそらく現代アートも現代世界の制約からの脱却を図っているのです。
ということは、現代アートの性質を見て、それを逆転させればなんと現代世界の制約が見えてくるのではないでしょうか?
そう、だから抽象的であることが特徴の現代アートが体現しているのは――「リアル」や「写実」や「具体的」や「有意義」などの現代世界の制約からの脱却なのです。
他の記事でも度々書いているのですが、工業化・商業化がトコトンまで突き進んだ現代社会は「意味があること」や「役に立つこと」や、「効率的であること」、「論理的であること」、「価値があること」などにこだわりすぎている社会です。
でも、私たちはずっとそんな社会の中にいるせいで、おそらくあまりこのことを実感することがありません。
そんな社会を写す鏡が、「アート」なのです。
「アート」を見れば社会も見えてくるのです。
鏡を見て私たちが普段身だしなみをするように、「アート」を見れば社会の身だしなみだって可能なのです。
こんなすごい能力を持つ存在はなかなかありません。
もし、そんな「アート」が「分からない」のであれば、それこそ、あなたがドップリと社会の中に染みこんでしまっている証拠かもしれません。
◆
抽象的な現代アートが苦手とされて写実的な作品が好まれるという現象や、「現代アート」を見てつぶやかれる「分からない」というセリフは、怖いほどこの社会を象徴していると思います。
そもそも、なぜ「分かる」「分からない」なのでしょう。
その分類の仕方こそが、「理屈」にこだわりすぎているこの社会の悪癖なのではないでしょうか?
アートは理解するものなのでしょうか?
そうじゃなくて、感じるものですよね、やっぱり。
何が描いてあるか分からなくたって、私たちは何かを感じられますよね。
理解する必要は無いんですよ。
「分かる」とか「分からない」とかの理屈抜きに、体感できるものごとというのは、ほんとに特にこの社会では少なくなってしまっています。
だからこそ、この体験は、貴重で、楽しくて、感動するのでしょう。
それが美術鑑賞の醍醐味なんだと私は思うのです。
さて、冒頭で述べたように、最近「アート」の能力が求められてきている気運も高まっているようです。
でも、それならば、現代アートこそ大事にしないといけないのでは、私はそう思うのです(写実絵ももちろんダメってことは無いですけどね!)。
最後に引用で終わります。
社会はアートを変えることができません。どんな四六時中見張っていようと、思想統制をしようと、人間は、アーティストは必ず“ふ ざけたがる”。きついブラックジョークで、自分たちを抑圧しているものを笑ってやりたくなるのです。
では、現代アートは何を笑っているのか。
・・・もう、お気付きですよね?
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P.S.
えぇ、とりあえず、チェコさんすみません!!
ド素人論ですが、どうしても書きたくなってしまってウズウズして、数日悩んだあげく、やっぱり書いちゃいました。。。
どうにも、私は専門外のことにも首突っ込みたくなる悪い癖がございまして・・・、ええ、もう、何も知らない癖にこんなお馬鹿な分析してる人もいるんだな、ぐらいに、どうぞお手柔らかに、ええ・・・m(__)m