ボツ記事お片づけ
わーい。
実は、私の上半期の一大プロジェクトが無事この度成功裏に終わりまして、久々に一段落した感じになった今日このごろです。
もう疲れたー。もうがんばれないー。
そんな燃え尽き症候群の中、もう腑抜けでグダグダな雪見がお送りしています。
ええ、勘が良い方は気づかれたかもしれませんが、このブログ、4月頃から急に記事数が減ってますよね、そういうことなんです(涙)
それも、3月にたまたまヒット記事が出たこともあり、ついつい張り切って無理して書いたりして、あの頃から時々何かに追い込まれた感じになってたりしてました。いけませんね。
最近はようやくマイペースで書けるようになってきましたし、これからもなるべく自分のペースを守って書いていきたいなーと思ってます。
というわけで、今後ともよろしくお願いしますm(_ _)m
さて、今日はちょうどそんな後片付けな気分なので、ちょっとブログの「下書き記事」を開けてみたら――
ええ、あるんです。
溜まってるんです。
「ボツ記事」たちが。(笑)
今日はちょうど良い片付け日和ということで、そんな「ボツ記事」たちをご紹介して供養しようと思います♪
ボツ記事①「試験は試される」―約1年前
私たちは生まれてこの方、散々テストを受けさせられます。
残っていたダイイングメッセージはこれだけ。
え、この一行だけ・・・?(^_^;)
ええと、これは確か、「私たちは散々試験受けさせられるけど、実は試験の方こそ試されてるんじゃないの?」という視点の話にするはずだったと思います。
試験というのは例えば「数学ができる人」と「数学ができない人」を選り分けるためにあるわけですが、試験の質が悪いと「本当は数学ができる人」が低得点になって、「本当は数学ができない人」が高得点になることが起こりえます。極端な話、採点に使う模範解答が全部間違ってたり、問題自体が「証明できないものを証明しろ」と要求してたり、そんな場合は、「本当は数学ができない人」の方が低得点に成り得ますよね。
だから、試験はいっぱいあるけど、試験の結果を鵜呑みにしないで、本当にその試験が妥当だったか、こそがもっと試験されるべきなんじゃないでしょうか――そんなお話の予定でした(笑)
結局書いてないのは何故か分からないのですが、話が盛り上がらなさそうだったからですかねぇ・・・(´・ω・`)
ボツ記事②「著作権ルネッサンス」――約340日前
これはちゃんとした「書きかけ中断」です。載せませんけれど、3000字越えたあたりでギブアップしてますね(^_^;)
著作権改正法案が施行されるとかの頃で、ネット上でばらまかれやすい音楽や動画、あるいは小説や漫画などの著作権の今後を考える記事の予定でした。
確か、私が言いたかったのは、「デジタルデータの複製はもはや容易になってしまったのだから、もっと違う形の集金形式にするべきでは」という点でした。
具体的には、一曲いくらとか、一映画いくらとかで、「見る権利」「聴く権利」を買う形式は諦めて、ファンが「そのアーティストの未来の作品に投資する」という形を提唱しています。近世ルネッサンス時代のイタリアのように芸術家にはパトロンが付いてどんどん創作してもらうような形式ですね。パトロンとして養う代わり、その作品は投資家のもの、というわけです。
ルネッサンス期では「メディチ家のもの」とかですが、現代のルネッサンスでは「私たちのもの」になるわけですね。
完成した作品は万人にタダで公開されますが、みんながみんなタダで見るばかりで誰もアーティストに投資しないと、そのアーティストが次の作品を作るのを辞めてしまうかもしれない、そんな駆け引きです。「この人の次の作品が楽しみ」とか「この話の続きが気になる!」とかあれば、ぜひ投資しないといけません。
この形式は、先払いだからこそ、かえって私たちが「本当に作品を大事にしているか」「本当に芸術が好きなのか」「本当に創作者に感謝しているか」が試されるのです。
これで誰も払わないなら、「所詮、私たちはその程度の文化レベルだった」ということで、諦めましょ~。
――そんな話の予定でした(笑)
ちなみに、結局、本文中で「著作権コンテンツの歴史」を何故か振り返り始めたことで、本題から離れていって収集がつかなくなって、諦めた模様です(^_^;)
にゃはは。
ボツ記事③「人生は一脚でなく三脚で立とう!」――約220日前
「“世界はここだけじゃない”と知っていることは、救いになる」
そうそう、これは確か、id:aniram-czechさんの
先日、『ボクらの時代』という、日曜朝7時からやっているフジテレビのトーク番組を見ていたとき。前後の文脈は割愛しますが、小説家の西加奈子さんが、こんな主旨のことを...
この記事のお言葉をきっかけに書き始めた記事ですね。
あと、こちらも↓
「自己愛モノカルチャー経済」と「自己愛のリスクヘッジ」
で、だいたい5000字弱のところで力尽きております(^_^;)
予定されてた主旨はシンプルで、チェコさんに倣って「生きていく上で1つの価値観に専念してしまうのは危険」というものでした。
例えば、「24時間365日働き続け会社に奉仕する企業戦士」とか「専業主婦で常に家庭のことだけ考えてる」とか、一つの価値観にだけ頼ってしまうと、「倒産」「定年」とか「空の巣症候群」とか、その足場がぐらついたり無くなった時に急に弱ってしまいます。そのぐらつく感じはまるで「一脚」で立っているようで。
「一脚」は現実にも自立が難しく、手でしっかり支えるように、「一脚な生き方」だと、その価値観が脅かされた時に、ついつい必死でその脚にしがみつく他なくなります。下手をすると周りを傷つけてでも守ったり、卑怯なことをしてでも切り抜けようとする場合もあるでしょう。「それしか道がない」そう思っているなら仕方がないことです。
でも、いくつかの価値観。「仕事」を複数持つとか、「仕事」だけでなく「趣味」も同じぐらい打ち込むとか、「家庭」だけでなく「仕事」も同じぐらい打ち込むとか、複数の価値観を持って「脚」を増やせばバランスがよくなるはずなのです。
ある「脚」の調子が良くなくても、一時的に他の「脚」に経済的あるいは心理的に体重が移せるようになっていれば、倒れないで「脚の治療」に専念することができます。周りを理不尽に傷つけることもないでしょう。
そんな理想のバランスが多分3つ価値観で立つぐらいで、それがタイトルの「三脚で立とう!」の意味になります。現実のカメラも三脚が安定しますしね!
なお、脚があんまり多すぎると今度はきっと一本一本が「短く」「細く」なってしまい、それはそれで弱くなりバランスは取りにくくなるでしょう。
・・・という予定のこの記事は何故か前置きだけで約5000字だったので、気が遠くなって書くのを止めた模様です(^_^;)
ボツ記事④「学生気分が抜けてない」――約1ヶ月前
これは最近なので覚えてます(笑)
約3000字超えのところで、投げ出しました(^_^;)
「学生気分が抜けてない」って言葉が嫌い――そのためだけの記事でした。
この言葉で批判されてる「学生」って、そもそも面白おかしく生きてるようないわば「楽生(がくせい)」であって、学問を探求してる「学生」じゃないってところがおかしいというのが一つ。
学問をするはずの大学の役割を「就職予備校」や「人生のモラトリアム機関」に変えたのは、そもそもあなた方「社会人様」でしょーが。よくもまあいけしゃあしゃあと、そんな口が叩けるなぁと、まずこれで十分怒り心頭です(-_-;)
そして、「気分が抜けてない」って「社会人様」は言いますけれど、「社会人様」たちの行動パターンこそ、ある「気分」が抜けてませんよねと。
それは――「受験生気分」
「お客様」など他人の基準の採点結果に一喜一憂して、人を「学歴」や「資格」などの肩書で見て、「正解」が決まってると思い込んで、短期的な目標につながらないものは「無駄」だと言い切って、我慢して我慢して努力することだけを美徳とする――そんな「受験生時代」そのままで。
だいたい、いつまでも「受験生気分」だから、英語力UPのために「TOEFL必修化」とか「道徳の教科化」とか言い出すわけで。
「2位じゃダメなんですか」とか言い出すわけで。
ほんと、なんでも「試験」や「順位」で良いと思ってません?
そろそろ「科学者気分」とか「芸術家気分」とか必要だと思いますよー。
・・・と、そんなグチグチしたことを書こうとしてましたが、怒りのあまりオーバーヒート、ショート回路になりまして、途中で燃え尽きております(^_^;)
ボツ記事⑤「好きなことを仕事にする」――約1ヶ月前
最後のボツ記事です。これも最近ですね。
これは1000字弱で止めてます。
書き始めてみると、思ったより、ちょっと考えがまとまってなかったというか・・・。
主旨は、「好きなことを仕事にする」って素敵だけど、それにこだわり過ぎると良くないんじゃないかなー、というものでした。
確かに、本人が楽しいと思えることをやってるだけで自然と収入が入る状況なら、すごく理想的な良い状態です。
でも、ハイリターンにはハイリスクが付き物の世の摂理。残念ながらこれは、うまくいかなくなってしまった時に、「楽しい」を取るか「お金」を取るかの究極の2者選択を強制的に迫られてしまう恐ろしいポジションでもあります。
「楽しい」を取ればそれはただの「趣味」になって、
「お金」を取ればそれはただの「仕事」になる。
⇧書いてない記事の引用という荒業(・ω・)
このお話は、ちょうど今日行われた、ちきりんさんの「ソーシャルブックリーディング」というイベントでの私のtweet発言に、私の気持ちが表れているので、横着してそれを貼ります。
恐ろしいことに「今やってる仕事は好きなことのはず」って自己洗脳しちゃう人もいますよね・・・。 RT @InsideCHIKIRIN 「好きなことを仕事にするべき」と、「好きなことは仕事にはしないべき」、あと、「好きなことを仕事にしたいと考えて模索を続ける行動」につい #SBRC2
— 雪見 (@snowy_moon) 2013, 9月 14
好きなことを仕事にしてもいいけれど、大事なのはいつの間にか「好きなこと」と「仕事」の間に乖離が出てきた時に、きっぱりとその働き方を見直せるか、ですよね。月日が経てば「好きなこと」も変わるし、「仕事の内容」だって変わらざるをえないのですから。#SBRC2
— 雪見 (@snowy_moon) 2013, 9月 14
そう、「好きなことを仕事にできてる自分はすごい!」って一度そういう成功体験をしてしまうと、「好きなこと」と「仕事の内容」の間の何かがズレていっていても「好きなことを仕事にしている」と無理に思い込もうとする傾向があるんじゃないかなー、って私は感じるのです。
例えば「子供の頃から憧れだった職業に着いた人」なんかにありがちです。しかも高い競争率をくぐり抜けてたりすると、なおさら。
働き始めてふと感じる「違和感」を抑えつけて、「いやいや、憧れのあの仕事なんだから」って自分に言い聞かせて。
どんな仕事や職業にも、理不尽なことや矛盾してること、おかしいことや辛いこと、嫌いなところや許せないことがあって当然なのですけれど、「好きなことを仕事にする」というスローガンそのものを大事にしすぎてしまうと、その「違和感」を無視するようになっちゃうんですよね。
「違和感」を意識的には抑えつけていても、実は無意識下では心理の矛盾にどんどん追い込まれていって、ある時ドカーンと行っちゃう、そんな悲劇がやっぱり世の中にはあるんですよ。
どこかで、「好きなこと」と「仕事」は違ってもいいって、割り切れたら良かったんでしょうけれど、案外周りも「仕事は当然好きだよね?」な空気を醸し出してるので、これがなかなか難しいんですよね。
そんなこんなで、「好きなことを仕事にする」って良いことだけど、それにこだわると怖いのかなーって、素朴にそう思ったお話です。
・・・あれ、ボツ記事なのに、案外、上手くまとまってしまいました(笑)
ま、いっか♪
では、以上、ボツ記事シリーズでした!
ちょっとは供養できたかなー?(・∀・)
- 作者: ちきりん
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2013/06/12
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (50件) を見る
P.S.
チャチャッとボツ記事たちを紹介して笑い飛ばすはずが、何気に長くなりましたね・・・。
解説しすぎたかもしれません(^_^;)
でも、ブログも家と同じで定期的に片づけしないとね~♪