雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

私たちの社会を賽の河原にしないために

 

ちっちゃなころから、不思議でした。

 

 

学校で歴史の勉強をします。教科書の最後は「現代」になっていますが、けっこう最近のことまで載っています。子どもながらに何か聞いたことあるお話だなーなんて思いつつも、私は、それを最初は何も思わず流していました。

一方、家に「まんが日本の歴史」みたいな歴史の勉強の本がありました。それを読むと最後はやっぱり「現代」だったのですけれど、何だかちょっと少し前で時が止まってしまっているのです。そう、これは年長だった従兄弟の家からのお下がりで、少し古いものだったのです。

更に家の本棚にもっと古めかしい歴史の本が置いてありました。父が学生の時から持っていただろう古いその本もやっぱり最後は「現代」だったのですけれど、それは私にとってはすでに「昔の出来事」でした。

 

次第に歴史以外でもこのことに気が付きます。

どんな学問でも日進月歩ですぐに新しい知識や技術が出てきていて、教科書や学ぶ内容もそれに応じて新しくなって、そして延々と増えているのです。

 

 

なので、ちっちゃなころから、不思議でした。

 

 

日に日に勉強が増えていくなら、ずーっとずーっと未来の子どもたちは勉強がいつになってもおわんないんじゃないのかなぁ

学校も10年生とか20年生とかなっちゃうのかなぁ

なんだかそれってかわいそうだなぁ

あ、でも逆にお父さんとお母さんに比べると自分たちは損してるのかなぁ

 

 

そんなことを、私は無邪気に感じていましたが、とくに誰にも言い出さず胸にしまいこんだままでした。

 

 

 

        ◆

 

 

仕事の新人時代というか下積み時代というのは、どこも同じようなものでしょうか。

新人というだけで、下っ端というだけで、雑用やら何やら面倒くさいことがアレコレ回ってきます。

しかし、色々先輩や上司に教えてもらわないと何もできない私たちは、逆らえるはずもなく仕方なくそれに我慢して頑張ります。

同期とも「ほんと雑用ばっかりでしんどいね」って、いつも愚痴っていました。

 

そうやって新人同士慰めあって多少の理不尽は何とかこなしていたのですが、どうしても許せない仕打ちもありました。

 

仕事で分からないところがあって、先輩に聞いた時に、

 「それぐらい自分で何とかしろ。俺もそうやって自分でやってきたんだ」

などと特にアドバイスをもらえず門前払いされることが時々あるのです。

確かに時には私に甘えが無かったとは言えません、でもいつもそんな態度の先輩は要するに最初から後輩に教える気がないのでしょう。

ちょっと打算的な考えではありますけれど、教えてもらわないと何もできない私たちは、だからこそ雑用をがんばっていたところもあるのです。

先輩が教えてくれなければ、私たちはただの雑用係です。

教えてくれないのに何でそんなに偉そうなんでしょう。

ほんとうに腹がたって、腹がたって、同期とも「あいつ全然教えてくれない、最悪」などと、いつも陰口を叩いていました。

 

 

 

さて、今回の話はその教えてくれない先輩をけなす話ではありません。

また少し年月が経って、私が驚いたことが本題です。

 

 

 

        ◆

 

 

まだまだペーペーではあるのですが、新人時代というところからは少し抜けだして、仕事もちょっと板についてきました。

そして、私にもついに後輩が入って、簡単なことは指導する立場になったのです。

 

 

そんなある日のこと。

ある後輩が私につつと寄って小声で訴えてきたんです。

 

 「困ってます。◯◯先輩が何も教えてくれないんです」

 

私は本当に驚きました。

 

この◯◯先輩こそ、一緒に愚痴りあった私の同期だったからです。

 

 

他の後輩からもさり気なく情報を収集すると、それは単なる恨みつらみではなく、やはり本当のことのようでした。

新人と一緒に担当になった仕事も「あんたは手ぇ出さんといて」というような暗黙のプレッシャーをかけて、さっさと自分のペースで片付けてしまっているようなのです。

 

私としては一緒にあのひどい仕打ちを慰め合った同志だっただけに、複雑な気持ちでいっぱいでした。

 

どういうことか知りたい。。。

でも、直接こういう話を本人に聞くのは気がひけました。

だから、本当はここから紆余曲折があるのですが、一応何とか少しその◯◯に、このことについて彼女の意見を聞く機会がありました。

つまるところ、彼女の言い分はこういうことのようです。

 

 

 「だって私たちの時も苦労したじゃん?

 あの子らにもそれぐらいやってもらわないと」

 

 

歴史は繰り返すということでしょうか。

 

 先輩から受けた仕打ちは、後輩にも返す

 

確かに、私にもそういう気持ちが無いとは言えません。

後輩が時々楽そうにしているのを見るとついつい「昔はもっとしんどかったんだよ、ほんと今は楽でいいよね」なんて愚にもつかない皮肉を言ってしまうことがあります。

でも、これはやっぱり良くないことだろうと思うのです。

 

 

       ◆

 

 

何かを学ぶ時、何かを習得する時、先輩の役割は何でしょうか。

 

例えば先輩が何も後輩に指導をしなければどうなるでしょうか。

後輩は自力で学ばなければなりません。

つまり、後輩は、その先輩の同じ頃と、同じ苦労をすることになります。

でも、それではいけないんです。

 

 

だって、後輩が先輩と同じ苦労を同じようにしていては、社会全体としては何も前に進まなくなってしまうのです。

 

 

後輩が先輩と同じ苦労を要求されると、先輩より先に進むには先輩より更にふんばって一歩前に進む必要があります。

何歩かはそれでも進むこともあるかもしれません。

でも、社会の知識が増えて増えて行くのに追いつかず、いずれ全員がその途中で力尽きてしまう時が来るでしょう。

それはしかも未来と戦って力尽きるので無く、過去の中で力尽きてしまうんです。

誰かが解明した事実の「途中」でおしまい。

なんと虚しいことでしょうか。

 

 

そう、これはまさに私が小さい頃感じた不思議そのものです。

それがそのまま実現してしまうんです。

延々と増え続ける「学ぶべきこと」に勝てずに夢半ばで力尽きる未来の後輩達の挫折の物語。

そんなたかだか子どもの想像話程度の悪夢が実現してしまうんです。

 

 

 

では、どうしたらよいのでしょう。

 

「学ぶべきこと」が増えていくのですから、後輩にそれを乗り越えて先にすすんでもらうには、既に分かっている「学ぶべきこと」は効率的に学ばせなければなりません。

そこにこそ先輩が後輩を指導する意義があります。

つまり、後輩に対する先輩の役割は「後輩に楽に自分に追いつかせること」です。

決して自分と同じ苦労をさせたり、時間をかけさせてはいけません。

自分が学んだことを「どうすればもっと簡単に習得してもらえるか」「どうすればもっと早く習得してもらえるか」、これらが後輩指導において重要な視点になります。

そうすることで、後輩が私たちに容易に追いついて、そして、追いぬくことができるのです。

 

 

これを実行するには、先ほどの私のジレンマや、私の同期の変貌、そして私の憎き先輩の態度などを見ていただければお分かりの通り、感情面での高いハードルがあります。

 

 自分がやった苦労を後輩が楽にすっ飛ばし、

 そして自分が後輩の背中を見送らないといけなくなる。

 

まるで自分を踏み台に捧げるようなもので、これは感情的にはなかなか苦痛を伴うことです。

 

でもこの感情に負けて

 

 「私たちも昔苦労したんだから、あんた達も苦労しなさい」

 

などと言ってしまえば、それで社会の進歩の道は途絶えます。

 

 

それは何かを着実に積み上げて大きな建物をつくるような進歩する社会ではなく、一定時間が経つ度に積んだ石を崩される「賽の河原」のようなものです。

そして石を崩す鬼が私だったり、あなただったりする社会です。

 

 

私はそんなのは嫌です。

後輩が楽をするのも、やっぱり少し悔しいですけど、そんな繰り返し社会なんて夢が無さすぎます。

 

 

 

 だから我慢しませんか?

 ちゃんと指導しませんか?

 

 

 後輩には早く追いついてもらわないといけないんです。

 そして私たちよりもっと先に行ってもらわないといけないんです。

 

 

 私たちが苦労して苦労して何とか切り開いた地点まで道を作ってあげましょう。

 道路を舗装してあげましょう。

 鉄道を通してあげましょう。

 彼らを早く呼んであげましょう。

 

 

 

時にあなたのもとにたどり着いた後輩が何気なく言うかもしれません。

 

 「なーんだ、あっという間にここまで来ちゃった、けっこう簡単だったな」

 

そこで「昔はここは山道でな、最近の若者は苦労を知らないね」などとどうでもよい昔話をする必要はありません。

笑顔でそっとささやいてあげましょう。

 

 

 あなた達がここまで楽に来れたことは私たちの誇り。

 来てくれてありがとう。

 さあ、ここからはあなた達の番。

 

 

 

 

ふと気づくと、彼らの目の前には道はもう無く、うっそうとした森が広がってるばかり。何者をも拒む気配があります。

でも、彼らは目の前の森と対照的な今まで通ってきた綺麗に舗装されている道を振り返ってきっと感じるはずです。

 

 

 自分たちがここまで楽に来られたのはどういうことだったのか。

 先輩たちの仕事が何だったのか。

 そして自分たちがこれから何をするべきか。

 

 

 

目の前の森は確かに未開の地ではありますが、ただ何かを繰り返すだけの賽の河原なんかより、遥かに希望に満ちています。

そして何より未来があるのです。

 

 

じきに感謝と決意を胸に彼らは森の中に入るでしょう。

そしていつしかそこにも道ができるでしょう。

 

彼らが後輩への気持ちを失わない限り。

 

 

 

 

・・・まだまだ私たちは進んでいきます。