雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

人の嫌がる仕事をすすんでやりなさい

世の中には「ほとんどの人はやりたがらないけど、誰かがやらないといけない仕事」というものがあります。

いわゆる3K(キツイ、汚い、危険)などと呼ばれる要素がその特徴に挙げられます(ちなみに、厳しい・帰れないなどを加えたバージョンもあるそうです)。

 

具体例はあえて挙げませんが、このような仕事は、社会の中の職業としてだけでなく、職場の中で分担される仕事だったり、学校での役回りだったり、また下手をすると家庭の中でも見られたり、と様々なコミュニティに存在しています。

おそらく、ここで例を挙げずとも、皆さんもそれぞれ何となくイメージが沸くことと思います。

 

この「誰もやりたがらない仕事」が「誰もする必要がない仕事」なら良いなのですが、あくまで「誰かがやらないといけない仕事」なわけですから、「誰がやるのか」が大問題になります。

私も人生を振り返ってみても、「誰がやるか」で大揉めに揉めて大騒動になった経験は幾度と無くありましたし、今でさえそれに巻き込まれていないといえば嘘になるレベルです。

きっと、誰にとっても非常に身近な問題だろうと思います。

 

さて、私はいつものごとく何となくこの問題をボーッと考えていた時に、この問題の解決策は幾つかにパターン分けされるかなぁと思いついたので、今回はそれをご紹介してみたいと思います。

 

 

  ◆

 

①高い報酬を出す(市場原理解決)

まず1つ目は、「嫌なことをしてもらう分、報酬を出す」という解決策です。

「誰もやりたくない仕事」は供給が乏しくなるので、その結果、需要が供給を上回り、その価格が上昇する――という、市場原理に基づいた解決策です。

「高い報酬があるならやってもいいか」と、「誰もやりたくない仕事」を「やってもいいよ」と言ってくれる人の登場を狙う作戦です。

 

②高い名誉を与える(聖職解決)

次に挙がるのが、「嫌なことをしてもらう分、尊敬する」という解決策です。

「誰もやりたくない仕事」をあえて引き受けてくれる人は、みんなのために自分を犠牲にしてくれるなんて尊い人なんだということで、敬い、しっかり感謝する――そんな、名誉に基づいた解決策です。

 

③分配する(平等的解決)

次が、「嫌なことはみんなで平等に分担しよう」という解決策です。

「誰もやりたくない仕事」だけどみんなの責任ということで、みんなで均等に分かちあおう――そんな平等原理に基づいた解決策です。

 

④くじ引きする(確率的解決)

先の③に近いのですが、ちょっと違うのが次の「嫌なことはクジでハズレを引いた人がやることにしよう」という解決策です。

「誰もやりたくない仕事」はみんなの責任だけど、平等にハズレを引くリスクは背負いつつ、やる人はハズレの人一人――という解決策です。その仕事がうまく③のように平等に分割出来ない場合に使われることも多いです。

 

 

 ◆

 

 

さて、ここまでの解決策は、皆さんからしても「まあ、そんなもんだよね」と思われることでしょう。

私も、これらの解決策なら、まあまあ妥当なんじゃないかなーと思います。

 

しかし、私が何となく世の中を見て思うのは、これらの解決策の理念はけっこうあっさりと破られているのではないかということです。

 

例えば①の市場原理解決は、みんな、案外恩知らずで、その人にお金を出したがりません。最初、出していたとしてもだんだん値切ったりしてきます。そう実はみんなこのお金による解決策を避けています。

また②の聖職解決も、最初こそ感謝していた人たちも、慣れてくるといつしか「やってもらって当たり前」という態度を見せたりします。そこには尊敬も感謝もありません。

③や④の分配・くじ引き解決も、しぶしぶその平等に乗っかったように見せつつ、自分の持分を手抜きしたり、ハズレをひいた後に逃げたり、自分が当たらないようクジそのものに細工をしたりします。これもそういう意味でしっかり理念が守られていることは少ない印象があります。

 

 

さて、では、このように①~④の解決策が避けられた時、どのような解決策がとられるでしょう。

 

恐ろしいことですが、一部で以下のような解決策がとられているという現実があります。

 

 

  ◆

 

 

⑤だます(詐欺解決)

これは、例えば「今後の勉強になる」とか「成長につながる」とか「やりがいがある」など、その仕事をすることですごいメリットがあることを強調してその「誰もやりたがらない仕事」に自ら就かせる――いわば詐欺解決です。

もちろん、仕事を通して全く得るものが無いことは少ないでしょう。むしろ、色々なことを学べることの方が多いです。

しかし、この場合は、その実際以上に、その仕事の価値を強調・誇張していることが特徴です。

これは、自分からその仕事をやってくれるわけですから、あとで気がついたとしても、一種の自己責任です。このことが騙す側の罪悪感を薄れさせるためか、しばしば見られる人気のある解決策です。

こうして罠にはめることで、お金を渡すこともなく、むやみに敬うこともなく、「誰もやりたくない仕事」をやってくれる者を呼ぶことができるのです。もし、騙されていることに気づいて、空きができたとしても、また代わりのカモを探せばいいのですから、簡単ですよね。

 

⑥追い込む(脅迫/強迫解決)

これは⑤よりもさらに本人の意思の自由を責め立てる方法です。

この一つの例が、他の仕事の選択肢を全て奪っておいて、その「誰もやりたがらない仕事」をやらないと食べていけなくなる状況に追い込む――そんな貧困につけこんだ解決策です。兵糧攻めと言ったら分かりやすいかもしれません。

そりゃ、餓死することに比べたら、「誰もがやりたがらない仕事」であってもやるしかないですよね。

「嫌なら別に働いてもらわなくてもいいけど?その場合死んじゃうかもしれないけどね~」という、本人の自由意思を追い込み、生物としての本能を揺さぶるこの解決策は、実質上ほとんど脅迫と変わらないものです。

 

また、私が何度も問題視しているように、この社会における「働かざるもの食うべからず」という強迫観念は非常に根強く、「労働信仰」とさえ言える状況です。

ですから、この「追い込み」は「本当に今にも餓死しそうな人」や「その日暮らしの生活の人」だけでなく「将来餓死することに不安を感じる人」や「仕事しない自分が許せない人」にも効果があるのが特徴です。

本来は、納得のいかない仕事の待遇なら、労働契約しなくていいはずなのですが、例えば、新卒の一括採用に逃れたら「もうおしまい」「仕事をしないなんて人間失格」というような構造にすることで、本来そこまで追い込まれなくていい人たちも心理的に追い込み、大量かつ安価な「誰もやりたがらない仕事」の担い手を産み出すことに成功しています。

一応この社会には、働かなくても生活保護があるわけですが、「生活保護を受ける者は社会のお荷物だ」などと、ちゃっかりそちらの選択肢を貶めることも忘れません(②の逆ですね)。

本当にタチが悪いです。

 

 

⑦奴隷にする(身分解決)

そして、究極的に本人の自由意思を無視するのが、この解決策です。

「この汚らわしい仕事はお前のような卑しい身分の者がやることになっている」と、人を奴隷扱いにする――身分解決です。

古代ギリシャからアメリカ初期、江戸時代など、歴史上、このような奴隷制や身分制による解決策の例は数多く見られます。

現代に入って、そのようなおおっぴらな身分制こそ無くなりましたが、残念ながら私は実質上はまだこの「解決策」は生きていると考えています。

例えば、「この仕事は新入りがやることになってる」とか「これは女がやる仕事だ」など、そういうの未だにありますよね?

そしてもちろん、その仕事をこなしたとしても、①のように報酬が入ることもなければ、②のように褒められることもありません。ただただ、安価でけなされながら「誰もがやりたがらない仕事」をやらされるのです。

ここまでくると、もはや⑤の詐欺解決や⑥の貧困解決でさえ薄っすらと認めていた、本人の自由意思を完全に無視したやり口です。

しかし、こんな恐ろしい解決策さえ、やはりまだこの社会には存在しているのです。

 

 

 

少し大げさに書いたところはありますが、やはり少なからず⑤~⑦のような、「自分はやりたくないけど、お金も出したくないから、弱い立場のものにやらせる」という傲慢な解決策が存在している、そう私は感じます。

皆様はいかがでしょうか。

 

私たちは憲法に謳われているように、人が人として尊厳を持って生きていけるそんな社会であるためには、出来る限り⑤~⑦のような解決策はやめ、①~④であるように努めないといけないのだと、私は思います。

 

 

  ◆

 

 

学校で昔「人の嫌がる仕事をすすんでやりなさい」という指導を受けた覚えがあります。

これは多分、先生からすると「人の嫌がる仕事をすすんでやる人は偉い」という②の「高い名誉を与える」の解決策であったのだろうと思います。

その意図も非常に分かるのですが、だからこそ、この元々の言い方は少しマズイところがないでしょうか。

 

それは「すすんで」と「やりなさい」という2つの語句の間の矛盾です。

つまり、これは「ボランティアを強制する」というような、不思議な言い回しになっているのではないかと思うのです。

これがマズイのは、これを上手く「ボランティアをやる人は偉い」という方向に受け止めてもらえればいいのですけれど、「ボランティアをやるのは当然」とか「ボランティアを(半ば強制的に)やらせるのもアリ」のように受け止められると、一気に⑤~⑦の方向性に向かってしまうことです。

だから、私は「人の嫌がる仕事をすすんでやりなさい」という言い回しはあまり好きではありません。

 

まあ、親や先生方からすれば、すごく言ってしまいたいところかもしれませんけれど、おそらく、「誰もがやりたがらない仕事」というのは「やりなさい」と言ってはいけない類の代物なのです。

「誰にも言われなくてもやる」からこそ②のように「尊い」のであって、そこに誰かが「やれ」と言ってしえば、その瞬間に、その「尊さの成立条件」を吹き飛ばしてしまいます。言われてからやっても、先生などの大人の評価欲しさにやったかのように見えてしまい、下手をするとむしろ名誉が損なわれることさえあるでしょう。

「誰もやりたくないこと」を「やれ」と言うのは、何気なく、人の自由意思を貶めている発言なのです。

 

こう言うと、「やれ」と言われる前にやらないから悪い、と仰る方もいるでしょうが、そもそもが「誰もやりたくない仕事」なのですから、それは仕方が無いのです。

それに、「やりたくない」という気持ちだって、人の自由意思で、大事にすべきことのはずです。

大人も実際「嫌なことはちゃんと嫌と言いなさい」という指導をしている時がありますしね。

 

大事なことは、この世に「誰もがやりたがらないけど誰かがやらないといけない仕事」が存在することを皆で認識・共有して、その上で「どのような解決策を採るべきなのか」皆で話合うことではないでしょうか。

しっかりと、恐ろしいものも含め、どのようなパターンの解決策が存在しているのか、採り得るのか、考えたり話し合ったりする機会が無いから、無意識のうちに⑤~⑦のような策に手を出してしまうのではないでしょうか(それが、加害者側であれ、被害者側であれ)。

そこを、「仕事はすすんでやるのが当然」のようにして、「誰もがやりたがらないけど誰かがやらないといけない仕事」なんて存在しないとごまかすから、きっとおかしくなるのです。

 

 

だから、私は「人の嫌がる仕事をすすんでやりなさい」とは言いません。

「誰もが嫌がる仕事を誰がやるか決める方法をそれぞれ考えよう」としか言えません。

誰がやるか決める方法が決まらないなら、誰かがやらないといけない仕事を誰もやらないだけの話ですから。

それで困るのはみんなです。その結果起きる悲劇だってみんなの責任です。

だからこそ、考えるのもみんななんです。

 

「私が」でも「誰かが」でもなく、「みんなが」どうするか、これはそういう問題なんだと思うんです。

 

 

 

 

P.S.

無用な誤解を避けるために、それぞれの具体的な例は控えていますが、なんとなーくイメージできるんじゃないかなぁと思っています。どうでしょか・・・(^_^;)

 

あと、⑤~⑦の策で恐ろしいところは、その苦境で働く者に「自分でやりたいと決めた仕事」と思わせるパワーもあるところにあります。いわゆる「酸っぱいブドウ」の理論ですね。

もちろん、きっかけはどうあれ「本当にやりたい」のなら、それはそれで素晴らしいことだと思います。でも、彼らのそんな「本当にやりたい」気持ちを利用して、買い叩いていたりしないか、その都度私たちは自分の胸に手を置いて考えないといけないと思うのです。

 

とはいえ、少し考えていただいたらお分かりになると思いますが、実際のところ、私たちはただ日本に普通に住んで生きているという時点で、この業から逃れられません。

私たちは常に誰かに「誰もがやりたがらない仕事」をさせています。

この罪を償うことは容易ではありませんが、でも、多分この罪に気づかないことよりは、マシなのかなとも思うのです。