何でもソリューション社会
前から思っていたんですけれど、「何とか ソリューション」って名前の会社って多いですよね。
前の職場に一番よく出入りしていた業者の方々も「○○ソリューション」でしたし、私の義理の兄も「△△ソリューション」にお勤めです。
何をもって彼らの会社名に「ソリューション」が入ったのかどうかは本当のところは分からないです。
でも、「ソリューション」っていう言葉は日本語で言うと「解決」なのだそうで、それを考えると納得です。
確かに世のビジネスは基本的に「問題解決」を商売にしていますから。
野菜が欲しいけど手元にない人に野菜を売って問題解決するのが八百屋さんですし、電化製品が欲しいけど手元にない人に電化製品を売って問題解決するのが電気屋さんですし、法律のトラブルを抱えて困ってる人に法律上のサポートをして問題解決するのが弁護士さんです。
他にも色々あると思いますけど、大体が、顧客の抱えてる問題を解決してその代わりにお金をもらうというビジネスモデルにあてはまります。
さて、ほとんどのビジネスが「問題解決」であるということは、何を意味しているでしょう。
ビジネスというものは、基本的にやり方は自由で「商売するなら問題解決タイプにしろ」という法律も無いわけです。
ですから、ビジネスが「問題解決タイプ」ばかりであるということには何か理由があるはずです。
至って単純な結論なのですが、それは「みんなが問題解決を求めているから」と私は考えます。
ビジネスというのは弱肉強食の世界です。市場のニーズに合致してないビジネスは生き残れません。
つまり、ビジネスをする側が「問題解決タイプにしよう」と決めたわけではなく、「市場のニーズ」すなわち「みんなが求めているもの」が「問題解決」だったから「問題解決タイプ」のビジネスばかりになったというわけです。
何でもソリューション社会
問題解決タイプのビジネスが多いのはみんなが問題解決を求めているから(しかも、それでソリューションとかの会社名がついちゃったりする)。
こう聞いても、「何その当たり前の結論」と思われるかもしれません。
ですが、これは案外問題だと私は感じています。
「みんなが問題解決を求めている」ということは裏を返せば「みんな、解決できてない問題を求めていない」ということになります。
例えば、私はこうしてブログをやっていますけれど、「○○はこういう問題があると思う」と問題提起をした時に、時折「具体的な解決策無しに文句を言うな、無責任だ」というコメントをいただくことがあります。
確かに私が 具体的な解決策を提示できていなかったのは事実です。
意見に対する反論や、内容の誤りの指摘であれば当然受け入れなければいけないとも思います。
しかし、「解決策を提示しなかったこと」に対して「無責任」と責められることについては私はどうにも納得がいかないのです。
特に私は「ソリューション」の旗を掲げているわけでもなく、もちろんお金を取っているわけでもないのですから。
同様のことは私のブログに限らず社会の他の場面でも起きているように思います。
問題点を指摘したら、「じゃあどうしろと?」とすぐさま解決策を求められたことありませんか?(ただ、老婆心で問題点を指摘しただけの時、困りますよね)
また、「対案無しに批判するな」と言うフレーズもよく耳にしませんか?(「解決」を仕事にしているはずの政治家の皆さんはもちろんただ批判するだけでなく対案を用意するべきでしょうけれど)
これらの様子を見ていると、とにかくどこでもなんでも「解決策」を求められる、言わば「何でもソリューション社会」のように感じられます。
問題提起は必要無い?
このような「解決策を提示しなかったこと」が「無責任」とされる社会の空気の背景に、「みんながとにかく問題解決ばかりを求めていること」があると私は考えます。
つまり、先ほど書いたように「みんな、解決できてない問題は大嫌い」ということですね。
しかし、解決できていない問題を提示することは本当にそこまで排除されるべきことでしょうか。
確かに、解決策の無い問題を提示されるのは、とてもモヤモヤしますよね。
「あなたは不治の病です」と告知される時のように、マズイ状況であることだけ認識させられてどうにもならないというのは人にとって大変なストレスです。
ですが、痛覚が存在するのは危険を察知し回避するために必要であるように、問題を提示されて不快な思いをするというのも、危険を察知し回避するために必要不可欠なプロセスなのではないでしょうか。
そもそも、問題を解決するには、問題を明らかにするステップが必要です。まず病気であることに気付かないと病気を治せないのと同じです。
そして、問題が無いと思われていたところに問題を見つけるステップと、問題を前にして解決策を編み出すステップは別種の作業であって、それぞれに要求される能力が異なります。
しかし、もし社会が問題提起に常にセットで解決策を要求する「何でもソリューション社会」であったらどうでしょう。
社会が「問題提起も問題解決も得意な方」ばかりなら良いですが、当然そんなはずはありません。
社会に少なからず居るであろう「問題提起は得意だけど解決策を編み出すのが苦手な方」が、毎度の「解決の要求」に疲れ果てて口を閉ざすようになります。
すると、「問題提起が得意な人」が問題を明らかにしてくれれば、問題解決に動けたであろう「問題提起は苦手だけど問題解決は得意な人たち」の問題解決能力も上手く活用できないままになってしまいます。
なぜなら、「問題提起のみ得意な方」から「解決すべき問題」が提起されにくくなっていますから。
社会の単位でみれば解決できたはずの問題が個人単位にこだわった結果解決できないわけですから、このような「問題提起」と「問題解決」のミスマッチは社会にとって大変な不利益です。
こうなってしまうのは社会に「まず解決ありき」という姿勢があるという仮定があればこそです。
しかし、現実に「解決策」をすぐ求める社会の空気が否定出来ない以上、「何でもソリューション社会」になっていないかどうか、社会にとっての「問題提起」というステップの必要性について再確認した方が良いのではないかと私は思います。
自分で問題と向き合う勇気
上は社会にとっての不利益の話でしたが、「何でもソリューション社会」は個人にとっても、良くない影響があると思います。
世の中が「解決」ばかりに比重を置いていると、当然、個人も問題探求能力よりも問題解決能力ばかりを鍛えるようになります。
問題探求しても問題解決しないと、お金になりませんしね。
すると、次第に「問題」は「見出すもの」ではなくて、「与えられるもの」になってきます。
結果、何が起こるかと言えば、「与えられた問題」が本当に「問題」なのかどうかを考えること無く、「とりあえず解決」を目指しやすくなるのです。
つまり、別に「問題」じゃないのに「問題」ってことにして解決しちゃうんです。
例えば、特に欲しくも無かった物なのに「○○に便利ですよ!」と言われついつい買っちゃうとか、「あなたは不幸の星の下にある」などと言われそれを鵜呑みにして「幸運の壺」を買ってしまうとか、「問題」を「問題」としてじっくり反芻することなく、反射的に自分の中から「問題」を追い出してしまう行為です。
これは、痛みを感じても、痛みへの過度の拒否反応からその原因を追求せずに反射的に痛み止めを飲むようなものです。
でも実は横であなたの身体をチクチク突いているのが痛み止めを作っている会社だったりするわけです。
よく見れば彼らが隣でチクチクしてるのはバレバレなはずなのに、恐ろしいことにそれに気付かないのですよね。
ビジネスと言っても「真の問題」を見つけ出した上で解決してくれてるならいいのですが、個人の問題探求能力が不足していれば、このように「偽の問題」を創作して提示してきているビジネスと見分けが付かなくなってしまいます。
すると、(既に用意できる解決策から逆算して問題を作ればいいので)「真の問題」を見出すより「偽の問題」を創る方がビジネスする側にとって楽ですから、当然「偽の問題」ビジネスが増加します。
こんなマッチポンプに巻き込まれるのは本来個人にとって不利益以外の何物でもないでしょう。
この状況を回避するには、結局のところ、問題と自分自身で向き合うしかありません。
上でも書いた通り、解決策が不明あるいは不在なまま、「問題」と向き合うのは不快なことです。
それでも、「問題」に向き合う勇気を持たなければ、「自分で何が問題か分からない」というもっと大きな問題を抱えることになります。
自分の問題をちゃんと見つめることができるのは、自分しかいないのですから、やはり自身で問題を探求することを避けては通れないのです。
まとめます。
所々の人々の反応を見ていると、この社会では「問題解決」にかなり比重が置かれている印象があります。
「問題解決」が大事なのはもちろん間違いないのですが、その一方で「問題提起」や「問題探求」が疎かになってしまうのは、個人にとっても社会にとっても「偽の問題」に惑わされたり「真の問題」の解決が結果的に遅れたりで、大変不利益なことと私は考えます。
こうならないために、私たちは今一度「問題提起」のステップや、問題に自分で向き合う勇気の大切さを再確認する必要があるのではないでしょうか。
・・・というわけで、以上、私からの「問題提起」でした!
そして、これが「真の問題」かどうかは皆さんの判断に委ねます。
申し訳ないですけれど、そういうものなんです。
P.S.
そういえば、「解決できない問題を考えても仕方ない」というようなセリフも時々耳にしますね。
実際に「解決できない問題」なら確かにそういう面はあると思うのですが、難しいのは解決できないことを証明しないと「解決できない問題」かどうか分からないことでして。
なので、残念ながら、それが「解決できない問題」かどうか証明されない限り、誰かがやっぱりその問題を考え続けないといけないんじゃないでしょうか。
ほんとややこしいですが!
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