雪見、月見、花見。

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認められたい、選ばれたい私たち

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photo credit: John Biehler via photo pin cc

 

 

悟りの境地に近いような高名なお坊さんなんかでも、「認められたい」という承認欲求を乗り越えるのはとても大変なんだそうです。

確かに、普段から私たちはついつい「認められたい」「選ばれたい」という欲求に振り回されています。

テストでいい点を取るとか、スポーツで優勝するとか、仕事で昇進するとか、いい成績を挙げて人に認められたり、褒められたりするのはやっぱりうれしいものです。

恋愛でもそうでしょう。相手に浮気されて嬉しい人というのはいません。それには「自分こそが一番」と相手に思ってもらいたいという欲求が少なからずあるんだと思います。

ブログでも訪問者の数や☆の数なんかも、気にしないようにと思いつつも、ついつい気になっちゃいますよね。

多分、こういう「認められたい」「選ばれたい」気持ちというのは本能的なもので、これに思い悩むことが人間らしいと言えると思います。

 

 

 

ただ、自分が「認められる」ためには、どうしても必要なことがあります。

それは他の誰かが「認められない」ことです。

勝者を決めるためには、敗者が必要と言ってもいいでしょう。

何かの競技があったとして、全員が1位になってしまったり、みんなにトロフィーが配られたりしては、その勝利(?)に本心から喜ぶ人はいないはずです。

「俺は全ての女性みんな平等に好きだよ」なんて言われて、「ってことは私のことも好きなのね、やった♪」なんて素直に喜べることはないはずです。

 

私たちは「特別」になりたいんです。

仕方がないんです。

本能なんです。

 

 

 

その「認められたい」欲望はほんとに底がなくて強大で、一度「認められた」時の快感・幸福感は非常に強烈です。

何度だって欲しくなります。

もはや麻薬のようなものです。

 

だからこそ、逆に「認められなかった」時の苦しみ・悲しみも、また強烈です。

受験に失敗したり、就活で全然内定が出なかったり、好きな人にふられてしまったり。

その喪失感・無常感・寂寥感は誰しも味わったことがあるはずで、そして誰しも2度と味わいたくないものだと思います。

この苦悩はあまりにも強く、時に自殺や他殺など最悪の結果に繋がってしまうことも少なくありません。

 

内定が全く出ず、自分が世界に必要ないような気がして・・・

好きな人に振り向いてもらえなくて逆上して・・・

 

彼らは普通の人達だったんだと思います。

彼らはでも、「認められたくて」でも「認められなかった」。

きっと、ただ「幸せになりたかった」だけなんです。

まかり間違えば、私たちが彼らのようにならない保証はないのかもしれません。

 

 

 

このように「認められない」ということがあまりにも苦しいために、個人個人、あるいは社会で、そのショックを和らげるため様々な防衛反応が出てしまうことがあります。

 

個人の場合では、「最初から認められようとしない」という反応です。

「努力しない」と言い換えてもいいでしょう。

「認められたくて」「認められない」から「苦しい」。それなら「認められたくなければ」「苦しくない」。

こういう理屈です。

自分から競争の場から降りてしまえば、負ける苦しみも味あわなくて済むのです。

 

社会の場合では、「なるべく競争させない」という反応です。

大事なわが子が、もし負けてしまったら・・・ああ、あんな苦しみは味あわせたくない、それなら最初から「認められたり」「認められなかったり」する機会を無くしてしまえばいい。

こういう理屈です。

テストの点数は非公開、かけっこも順位はつけない。

みんな仲良く仲良く。

なるべく争わないように競い合わないように、傷つかないように、大事に大事に子どもたちを守ります。

 

気持ちは分かるんです。

本当に「認められない」のって苦しいから。

でも、こんな風に、「承認欲求」という強大なモンスターから逃げて逃げて逃げても、やっぱりどこかで捕まる、そんな気がするんです。

だって、その怪物は私たちの心のなかにちゃんとこっそり住んでるんですから。

 逃げられるわけがないんです。

 

 

 

私は思うんです。

「承認欲求」の苦しいところだけじゃなくて、うれしいところももっと見なきゃいけないんじゃないかなって。

個人の防衛反応――つまり、ある人が「努力しない」ようになってしまうのは、「認められた」時の快感をあまり味わったことがないからじゃないでしょうか。

勝利の美酒を飲んだことがなくて、敗北の煮え湯ばかり飲まされていて、「頑張れ」と言われたって、それは限度があるでしょう。

だから、大事なのは勝利の記憶なんだと思うんです。

 

本気で戦って、勝ったことがある。

 

これは個人にとって、非常に大きな精神的柱になります。

もう一度あの栄光を味わうために、再び立ち上がることもできるんです。

 

そして、その勝利の記憶を作るためにこそ必要なのが競争の場なんです。

 

 

 

「今まで挫折を味わったことが無い人が、初めての挫折を味わい――」

よく聞くセリフです。

なぜそんなにも挫折を味あわなくて済むのでしょうか?

そうなんです。

競争の場が足りないんです。

本気で戦って、勝ったり負けたりする、そんな機会がただ少ないんです。

社会の防衛反応――「なるべく競争させない」、これが裏目に出てるんです。

社会が競争させないから、個人が勝利や敗北を味わうことがなくて、そして進学や就職、恋愛市場、結婚市場などのほぼ強制参加の大競争大会の敗北でいきなり致命傷を負ってしまうんです。

 

競争の場が少ないということは、評価の軸が少ないということでもあります。

人にランクを付ける機会が進学や就職、恋愛、結婚ぐらいしかないから、偏差値や企業の名前や、恋人の有無や既婚かどうかなどで人の価値が全て決まってしまうかのように思い込んでしまうんです。

あまりにも重くなってしまって、みんな負けないように必死になります。

進学に失敗しないように、就職に失敗しないように、順調に恋愛・結婚できるように。

そのレールから外れることはとても恐怖なのです。(ちなみに、いじめ問題の背景には、こんな進学レールの「絶対さ」も影響しているような気がしています。子どもの生活において、学校の存在が強すぎるのではないでしょうか)

でも、競争だから、全員が勝てることはありません。誰かが負けるんです。

そして、それだけしか競争の場が無いから、全部に負けてしまう人だって生まれてしまうんです。

その時覚える無力感、考えるだけでも悲しくなります。恐ろしくなります。

しかし、これは、現実に起きていることのような気がするんです。

 

 

 

私は思うんです。

「承認欲求」の苦しいところだけじゃなくて、うれしいところももっと見なきゃいけないって。

「承認欲求」から逃げても逃げ切れません。

どうしたって、私たちは「認められたい」動物なんです。

 

 

もっと多様な価値観が必要なんだと思います。

もっと色んな軸で競争しあうべきなんだと思います。

もっと、本気で色々なことにぶつかって、泣いたり笑ったりしないといけないんだと思います。

 

あの子はこういうとこで優れてる、あいつはこういうところがすごい、でも自分はコレでは負けない――

 

本気で競い合えば、きっと隣の人も自分のことも、色んなことが見えてくる、そう思うんです。

 

 

 

私たちが「承認欲求」というモンスターに勝つために、

まず必要なのは「承認欲求」との闘いの場なんです。

逃げてちゃ勝てません。

 

だから、闘いませんか?

 

この勝負なら私たち全員が勝つことだって可能です。

 

だって、きっと、負けるのはモンスターの方なんだから。

 

そうでしょう?

 

 

 

 

 

 

 

P.S.

もうすぐオリンピックですね。

きっと色々な名勝負があって、いっぱい勝つ人、負ける人が出ると思います。

これも間違いなく競争なんですけど、でも、みんないがみ合ってるわけじゃない。

競争っていうと、ついつい殺伐としたように思ってしまいますけれど、こういう競争ならいっぱいあってもいいんじゃないかなって思います。