「民主主義=多数決」じゃないよという話
特定秘密保護法案が衆院を通過したということで大きなニュースになっています。
国民の知る権利を侵害しかねないということで、反対の声も強い法案ですが、どうやらこのまま通ってしまうようです。
個人的には、国家機密の保護というものの必要性も分からなくもないので、法制定そのものは仕方ないのかなぁと思う反面、濫用を予防するためにもう少し細則はキッチリしておいた方がいいような、という非常に曖昧な立ち位置にいます。
(⇓このまとめが考える上で参考になりました。)
さて、そんな悪名高い秘密保護法案ですから考えることはいっぱいあるでしょうけれど、今回の私のお話はこの法案についてではありません。
これは、衆院特別委員会での採決に対して、野党議員が「これが民主主義か」と抗議の声を上げたという昨日の記事です。
センセーショナルな見出しでもあり、アクセス数は多かったようですね。
私が気になったのは、この記事に対して「多数決で決めたんだから民主主義じゃん」というコメントが非常に多く見られることです。
しかし、あえて声を大にして言いますけれど、「民主主義=多数決」というのは、すごくよくある誤解です。
もちろん、今回の採決は運営上明らかな問題はなく、心情的にはどうあれ、強行採決とまでは言えないと私も思います。
でも、だからこそ「これが民主主義か」という問いかけは実に含蓄深い問いなのです。
以前から、「民主主義=多数決」という誤解がかなり広範囲に拡がっていることには気づいていましたが、今回この記事への反応を見かけて、ちょうど良い機会なので書いてみようかなと思います。
ということで、今日は「民主主義と多数決の関係」について、ボーっと考えていきましょう。
民主主義に多数決は必須ではない
民主主義というのは、御存知の通り、王様や貴族など一部の人たちによる政治ではなく、その国を構成している国民全員が主権者として政治に参加することを目指す思想ないし政体を指しています(wiki)。
一部の者の暴政に耐えかねた民衆が、歴史上様々な戦争や革命を伴いながら勝ち取っていき、今や数多くの国家に採用されています。
私たちの住む日本も、もちろん民主主義の理念の下成立している国家です。
一方、多数決というのは集団としての意思決定をする際に、投票を行い多数派の意見を採用するという、意思決定の手段です(wiki)。
多数決は、世界中の民主主義国家が採用している意思決定システムで、民主主義と多数決の関係性は非常に深いものと言えます。
しかし、だからといって、「民主主義=多数決」ではないのです。
民主主義の求める「全員参加の意思決定」をするためには、多数決以外の意思決定システムも採用できるからです。
例えば、分かりやすいのが、映画「十二人の怒れる男」のように、意思決定のため満場一致を目指すシステムです。
この映画では、陪審員12人のうち11人が被告の有罪を掲げている中、主人公がただ1人無罪を主張する、そんなお話でした。
これが多数決であったなら、11人が有罪を主張した時点で終わりです。あっさり有罪の「意思決定」がなされたはずです。
しかし、作中で採用されている満場一致システムでは、1人でも無罪主張者がいれば、まだまだ「意思決定」はできないのです。
それでいて、満場一致システムはとっても民主主義的です。
全員が一つの意見に一致してから初めて意思決定をするのですから、「全員参加の意思決定」という理念に非常に合致しています。
多数決だけでなく、満場一致だって十分に民主主義のシステムとして採用しうるのです。
従って、「民主主義ならば多数決である」という命題は成り立たないことが分かります。
多数決は民主主義に必須のものではありません。
ただ、非常に多くの民主主義国家に採用されているシステムであるだけなのです。
多数決は多くの人の声を反映する?
多数決は民主主義に必須のものではないことを押さえたら、次に考えるのは、先ほどと逆向きに「多数決ならば民主主義と言えるか」という命題です。
今回のニュースの「これが民主主義か」という抗議の声にも沿った命題ですね。
こう聞くと、「多数決なら多くの人の声が入ってるんだから、やっぱり民主主義的なんじゃないの」と一見思えてしまうかもしれません。
そう、そうだったらいいんですが、この「多くの人の声が入っているはず」という感覚が曲者なんです。
確かに、多数決によって狙い通り多くの人の声が意思決定に反映されることはあります。しかし、多数決というのは多くの人の声が意思決定から漏れる抜け穴を作ることもできるシステムなのです。(下手をすると、現実にはこの抜け穴の方がよっぽど使われてしまっている可能性が高いぐらいです)
分かりやすい例としては、実際に今の日本でも行われているような小選挙区制でのモデルがあります。
ここでは、10区の小選挙区があって、1区あたり10人有権者がいる架空のモデル国家を考えてみましょう。
この国にはA党、B党、C党、D党という有力な政党があります。
そして、1区~6区では「A党候補に4票、B党候補に3票、C党候補に2票、D党候補に1票」入り、7区~10区では「A党候補に0票、B党候補に10票、C党候補に0票、D党候補に0票」入ったとします。
多数決システムでは、1~6区ではA党候補が当選、7~10区ではB党候補が当選します。
つまり国会にはA党議員が6人、B党議員が4人になり、これまた多数決で決める国会ではA党の意思がそのまま「国の意思決定」になる可能性が高いことになります。
しかし、100人の有権者の票の行方を振り返ってみると恐ろしいことが分かります。
A党は国全体としてみたら4票×6区の24票しか獲得していません。100人の国民の1/4にも見たない支持です。
一方で、B党は3票×6区+10票×4区でなんと58票です。100人の国民の過半数の支持を集めているのです。
でも、今や「国の意思」は「A党の意思」です。「24%の意思」です。残りの「76%の意思」はちっとも反映されないかもしれません。
「多数決なら多くの人の声が入るはず」ではなかったのでしょうか?
多数決は民主主義を阻害しうる
多数決は「多くの人の意見を採用する」というと聞こえがいいのですが、裏を返せば「少数の人の意見を切り捨てる」ということと同義です。
「A vs 反A」のような2項対立ですと、51対49などで、100票中49票を切り捨てることが可能ですし、「A vs B vs C vs D」のような並立型ですと、最低100票中26票でも当選できて、74票を切り捨てることもありえます。
候補がさらに乱立した場合には、もっと低い得票数で当選し、もっと多くの票が切り捨てられることも生じうるでしょう。
そして、この多数決による票の切り捨て傾向をさらに助長するのが、「間接選挙」です。
「多段多数決」といった方がいいかもしれません。
先ほどのモデル国家を見てみてください。
A党は24票で支配者になりましたが、つい先程私は「A vs B vs C vs Dのような並立型ですと、最低100票中26票」と言ったばかり。
でも、A党の得票数は「最低得票数」のはずの26票よりも低いですよね?
なぜこんなことが可能かと言えば、多数決を複数回重ねているからです。
つまり、小選挙区で国民による多数決を行った後、国会でその多数決で選ばれた議員によってまた多数決をしているからです。
しかし、これはいわゆるただの「間接選挙制」です。
そう、50%を超えた過半数であるはずの0.6(60%)という数字が、0.6を2度掛ければ0.6×0.6=0.36(36%)と、0.5(50%)を下回ってしまうように、多数決は多段にすればその少数切り捨て効果が高まってしまうのです。
民主主義はあくまで国民100%の意思の反映を目指すものでしたが、多数決を重ねると、その民主主義の理念から程遠いところに容易に国の意思を運んでしまうことが可能なのです。
もちろん、上のモデルなどはわざと極端な例を挙げているところはあります。適切に動いているならば毎度こんな風に少数者の勝利に終わるわけではありません。
しかし、実際の政治においても、経済的・社会的な圧力(暴力)を背景にした大企業や業界団体あるいは宗教団体などによる組織票としての「少数の意思」が「多数の意思の代表」として立ってしまっているケースは少なくないでしょう。
最近も徳洲会グループによる選挙違反の問題がありましたが、あれも「徳洲会グループ幹部」という少数者によって選挙区の多数の民意を奪いとることを目指していたと言ってもいい内容です。
こうして理論的にも現実的にも抜け穴がある以上、「多数決ならば民主主義的である」と無邪気には言えないことには違いありません。
残念ですけれど、多数決は民主主義を阻害しうる存在なのです。
民主主義の理想と現実
これまで見てきた通り、「民主主義ならば多数決」とも言えませんし、「多数決ならば民主主義」とも言えないことが分かりました。
すなわち「民主主義=多数決」ではないのです。
しかし、それなのにこれだけ多くの民主主義国家が多数決を採用し、そして多くの人が「民主主義=多数決」と誤解してしまうのはなぜでしょうか。
それは結局のところ「多数決があまりにも便利」という点が大きいのでしょう。
先ほどの例にも挙げました満場一致システムですけれど、「十二人の怒れる男」の12人でさえ揉めに揉めるのです。
これが1億2千万人の国民では、現実的には採用は無理ですよね。全く何も「意思決定」できなくなってしまいます。
そう、「全員の意思反映」を目指す民主主義の最大の弱点は、意思決定にかかる労力が大きく、時間がやたらかかり、しかも意思の漏れを無くすのは非常に困難で、そして結局決まらない可能性すらある、という点です。
民主主義の理想の前には「全員の意思反映というものは実際には難しい」という非常に大きな現実の壁が立ちふさがっているのです。
全く意思決定できない政治では、無政府状態と変わりませんから、民主主義と言いながら国が無いようなもので、それでは困ります。
そこで、多数決が採用されることになります。
多数決を採用すれば、投票によってとりあえず決めることはできます。
簡便で、集計すればすぐに結果を確定でき、そこそこ多くの人の意見を反映し(反映する可能性があり)、とりあえず決まります。
そうして民主主義の弱点を補いつつも、あくまで独裁者や貴族による少数の政治ではないという体裁が保たれます。
非常に便利なんですよね。
だから、世界津々浦々で、採用されています(とはいえ、大きな国では一段だけでは大変なので、間接選挙制二段構えにしてようやく使いやすくなります)。
・・・なので、本当のことを言えば「民主主義=多数決」と思う人が多いのも、気持ちは分かるのです。
これだけ多くの民主主義を謳う国家で採用されていたら、「民主主義といえば多数決」と思っても仕方が無いことでしょう。
しかし、忘れてはならないのは、あくまで「民主主義を運営する際の現実な選択肢として多数決が選ばれたにすぎない」ということです。
民主主義の目指す理想としては、多数決は必須でもないですし、場合によっては邪魔者でもあるんです。
でも、現実的観点から「仕方なく使っている」、そういう感覚のものなのです。
それを理想のシステムと信じきってしまうのは、「電力が欲しいので仕方なく使っていたはずの原発を絶対安全と盲信する」のと同じぐらい危険な行為ではないでしょうか。
民主主義議論のややこしさ
まとめますと、「民主主義=多数決」と言う人と、「民主主義≠多数決」と言う人の間では、このような理想論と現実論の間での行き違いがあるのだと思います。
・「民主主義=多数決」派
(現実には)民主主義国家には多数決は不可欠だから「民主主義=多数決」
・「民主主義≠多数決」派
(理論上は)多数決は一部の人の意見を切り捨てるものでしかないから「民主主義≠多数決」
つまり、「民主主義=多数決」と言う人は「民主主義」というよりいわば「民主制」的に「実際の制度」を念頭に置いていて、「民主主義≠多数決」と言う人は「民主主義」という「民を主にする主義」的に「概念的な思想」を念頭に置いているのです。
実は、その意味では、現実の制度的な話をしている時において「民主主義=多数決」というのも必ずしも間違いではありません。
でも誤解を解くために、今回私はあえて「民主主義≠多数決」と主張しています。
思想上のものとごっちゃになってることも多く、それが必ずしもいつも正しいわけでもないこともまた事実なのですから。
そして、ややこしいのは、この「民主主義」という言葉が、人によって思想を指していたり、体制を指していたりしちゃうことですね。
この話のややこしさが分かる一例が少し前に話題になったこのまとめです。
民主主義についての東浩紀さんの考察(2013.09.24) - Togetter
これは思想家の東浩紀さんが、民主主義について熱く語られたtweetをまとめたものですけれど、冒頭から
しかし、深夜の勢いでいうけど、民主主義(大衆の多数決による政策決定)は本当にいいものなのかどうか、そろそろ人々は真剣に考えるべきではないだろうか。
— 東浩紀 (@hazuma) 2013, 9月 23
と、「民主主義」を「大衆の多数決による政策決定」と定義されており、私の話で言う現実の制度として「民主主義」を扱われています。
民主主義の問題はスピードではなく、暴力性ですよ。
— 東浩紀 (@hazuma) 2013, 9月 23
人類全体がひとつの社会を作るような世紀に生きているぼくたちは、多数決の暴力を回避する有効なシステムを編み出さないとまじでやばいことになる。
— 東浩紀 (@hazuma) 2013, 9月 23
そして、この辺りで、多数決に基づく民主制の怖さを述べられています。
私が上で書いた、多数決の切り捨ての恐怖のお話と重なる部分です。
一方で、私の話で言う概念上の「民主主義」は、東さんの言葉ではおそらく「一般意志」に当たるようです。
ルソーの言葉でいえば、ぼくは「一般意志」の発明は絶対的に革命的だったと思うんだけど、あれは別に民主主義の思想じゃないんだよ。社会契約論でも、一般意志論と政治体制論は別になっていて、一般意志実現には王制でも貴族制でもいいと書いてあるしね。
— 東浩紀 (@hazuma) 2013, 9月 23
一般意志は合理的な社会運営のための理念、民主主義は正統性調達装置のひとつ。合理性の基準を一般意志に置くべきなのは確か。他方、正統性調達装置はすぐに暴走し非合理で暴力的な社会運営を産み出すもので、王制も貴族制もそうなのだけど、民主制にも同じ問題がある。そこをどう回避するか。
— 東浩紀 (@hazuma) 2013, 9月 24
一般意志(私の言う民主主義という思想)は理念、民主主義(私の言う民主制的な制度)は正当性調達装置と言われていて、矛盾がないことがわかります。
そして、この「民主主義」の定義付けの違いで、すれ違いもあり。
多数決ですよ。RT @nyanmage_x “@hazuma: 人類全体がひとつの社会を作るような世紀に生きているぼくたちは、多数決の暴力を回避する有効なシステムを編み出さないとまじでやばいことになる。” ええっ? 民主主義の基本原理が多数決だけだと思ってたなんて事は…
— 東浩紀 (@hazuma) 2013, 9月 23
多数決の暴力とかいう議論があるけど、民主主義の本質はそもそも多数決なのであって、民主主義社会で多数決の暴力を回避するのは本質的にえらくアクロバットなのです。現在のインテリが、一方で「弱者の権利を」とかいいながら他方で「これは世論が許さない」とかいう滑稽なことになるのはそのせい。
— 東浩紀 (@hazuma) 2013, 9月 23
こんな感じで、東さんの最初に言われている「民主主義(大衆の多数決による政策決定)」という定義を確認していないとすごくややこしいです。
よくよく読んでみれば、東さんは現状の多数決に基づく社会体制(民主制)がその多数決の暴力性にさらされていることについて、繰り返し警鐘を鳴らされていることが分かります(全く同意です!)。
では、冒頭の特定秘密保護法案のニュースにおける野党の「これが民主主義か」という抗議の話ではどうでしょうか。
これも定義次第では話が変わってしまうかもしれませんよね。
しかし、同時に「数の横暴か」などの発言もあったようですから、多数決というシステムの存在自体は共通認識にある文脈上、やはり野党議員は「これが多数決という制度か」と怒っているというよりは「これが民主主義という思想の目指すものか」を問いかけているものと考えるのが妥当でしょう。
制度というよりは思想や理念を念頭に置いている発言です。
すなわち「(理念に反して)少数意見を切り捨てていないか」を問題にしているのですから、それに対して「(制度に沿って)多数決だから民主主義でしょ」という回答が適切ではないのはお分かりいただけるかと思います。
だから、答えるとすれば「十二分に時間をかけて審議し、(理念を尊重して)出来る限り少数意見にも耳を傾けた」という感じがいいのかな、と私は思います(実際どうかは知らないですけど)。
ほんっと、ややこしいですね。
民主主義のこれから
最後に、今後民主主義と多数決がどうなっていくべきかについて、ちょっとだけ考えてみましょう。
先ほどの東さんのtweetの続きにはこうあります。
東本と國分本を組み合わせると、来るべき民主主義は、代議制民主主義の改革などには取り組まず、行政への不断の介入を可能にする一般意志2.0システムの実装によってこそ可能になるという結論になるかと思います。行政への介入入こそが政治であって、選挙というお祭りはどうでもいい。
— 東浩紀 (@hazuma) 2013, 10月 15
東さんは「一般意志2.0」というものを提唱され、現行の「選挙というお祭り」などの多数決に基づく民主主義に代わるシステムを求められています。
これについては本も出されているようで、(大変申し訳ないことに私は未読なのですが)この中でtwitterなどの現代情報技術を用いることで、大衆の政治(立法ではなく行政)への持続的な介入が可能になり、現行の民主主義(という制度)を乗り越えることができると主張されているそうです。
私も、この辺りの意見は全く同感で、インターネットの発達による革命で、より民主主義(の理念)に近づけるのではないかなーと漠然と考えています。
(⇓あるいは、現行の多数決に代わるシステムを勝手に考えてみたりもしています)
※本日は打ち上げ後でベロンベロンの雪見がお送りしております。先週末には都議選がありましたね。結果はどうあれ、来月の参院選の前哨戦ということで各党総力戦となったこ...
ネットによって大衆がつながって――というのは、いわゆる「集合知」的な発想なのですが、これに対しては批判もあります。
本書の「現代性」は、一般意志をソーシャルメディアと重ね合わせて一種のデータベースと考え、そこに集合的無意識としての「一般意志2.0」が成立すると考えたところだ。これは『スマートモブズ』などでおなじみの「集合知」の話だが、政治的には無意味なユートピアニズムでしかない。
でも、ユートピアかどうかなんて、やってみないと分かんないと思うんですよね。
少なくとも、今までこの世界が本当に「集合知」を実行した経験はないわけですから。
それに。
「できるはずがない」
そう言われても進んじゃうのが、人類の強さなんじゃないかなー、と私は思うんです。
というわけで。
特定秘密保護法という、これまた国のあり方について考えさせられる法案が話題に上がってる今、私たちの生きている民主主義社会についても思いを馳せるいい機会じゃないでしょうか。
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選挙が近いですねー。私は当日は予定が詰まっていてバタバタなのですが、一応何とか投票には滑り込めそうです。投票といえば、民主主義の風物詩。私達が民主主義国家に住ん...
⇧まさしく集合知的なお話。
⇓あと、「民主主義 多数決」でググってみました(笑)
民主主義=多数決ではない!〜加藤良平『多数決とジャンケン』 - Youtaful Days!
世の中の不思議をHardThinkします:真の民主主義を考える①民主主義と「多数決」は違うことを理解しましょう!
P.S.
ややこしいですね、長いですね(´・ω・`)
まあ、いつものことですけど・・・。
結局、現行制度上は「多数決」のペアとして「少数意見の尊重」がどれだけできるかが大事なんですよね。
とはいえ、現実的には時間もかかるし労力もかかるということで尊重し続けるのは大変なので、ついついサボってすぐ「多数決」に行きたくなってしまう(特に多数派にとっては)・・・と。
でも、「多数決」という制度を利用する以上は、その弱点を忘れず意識して、怪我をしないように注意して使わないといけないんじゃないでしょうか。
そんな思いを込めました。