Art of Life
――人生は彫刻みたいなもの
どこかで聞いたのかもしれないし、どこかで読んだのかもしれません。
ただ、いつ私の中に生まれたのか分からないこの言葉ですが、きまって悩んだ時に私の前に現れます。
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芸術に明るくない私でも美術館に行ったことはあります。
絵画も、キレイだなとか、迫力あるなとか、おおよそ素人らしい平凡な感想ばかりですけれど、やっぱり魅力的と思います。
でも、圧倒されるのはいつも彫刻でした。
繊細なタッチ、大胆な構図。
これだけなら絵画とも違わないのかもしれない。
色彩が少ない分、絵画よりは地味なのかもしれない。
ただ、私にとって決定的に違う点は、その生み出され方なんです。
絵画は、絵の具を重ねて描かれるのに対して、彫刻は、素材を削って縁取られます。
絵画は足していくもの、彫刻は引いていくもの。
それゆえ、絵画は失敗しても上書きができるけれど、彫刻は失敗したら後戻りはできないはずなのです。
それなのに、こんな生きているようなキレイな彫刻が目の前にあって。
失敗が許されないような「引いていく」作業だけのはずなのに。
どれだけ集中力を要したことでしょう。
どれだけ想像力を要したことでしょう。
そして何より、どれだけ勇気を要したことでしょう。
このように、結果としての作品の形というより、その過程の過酷さが伝わってくることで、彫刻は私に畏敬の念を与えてくれます。
ここが私にとって絵画と一線を画している点で、そして、この性質こそが人生と似ている点なのです。
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生まれたときは私たちは無限の可能性を持っていました。まだ何をすることもできましたし、何者にもなっていませんでした。
でも、歳を重ねて、ようやく気付きます。
多分もう金メダルを狙うようなオリンピック選手になることはないでしょうし、テレビで活躍するアイドルになることもないでしょう。そして、その代わりに、今の仕事を持っていたり、資格を持っていたり、学歴を持っていたりしています。
そう、生まれて以来、私たちはずっと可能性を減らしながら生きています。もちろん自分で捨てた可能性もあれば、仕方がない事情であきらめざるを得なかった可能性もあるでしょう。でも、みんな消えてしまった可能性であることには違いありません。
もうあれもできないし、これもできません。
今したいことも、ぜんぶできるということはきっとないでしょう。
生きることは、可能性を削っていく事なのです。ずっとずーっと、私たちは削って削って生きているのです。
歳は重ねるものでなく、取るもので、
月日は経るものではなく、減るものなのです。
そして、失敗したとしても、何となく気に入らない形になってきたとしても、もう後戻りはできないのです。もう進むしか無いのです。
私たちの人生は「引き算」です。
そう、まるで彫刻と同じように。
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私たちの人生はいつか終わりがきます。
生前削って削って削ってきた最期の時、つまり可能性を消していって残った可能性は、みんなが生きてきて削りだした、洗練させた「可能性の塊」です。
どんな彫像が残っているのか、人それぞれ違うはずです。
その人自身の思い通りに削り出すことができて、すごくキレイな作品。
全然思い通りにならなくて、すごく醜い作品。
自分がどう削りたいかよく分からない内に、「無題」と題名のついた不思議な作品。
削り半ばで強制的に作業が終了してしまって、「途中」という題名の作品。
あえて自分で削りを入れずに、滴る水や吹く風に任せて削ってみた、「自然」という題名の作品。
全部削りきってしまって空間だけが残った「無」という作品。
色んな形があって、色んな作者の思いがあるでしょう。
でも多分どれが優れていたとか、どれが劣っているということは無いのです。
これらの作品は結果としての完成形がどうかというより、その過程があった、その過程を誰かが生きたということにこそ、この本質があるのですから。
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昔、ある偉い彫刻家に誰かが尋ねたそうです。
「どうやったらこんな上手い彫刻を作ることができるのですか?」
彫刻家は答えます。
「簡単なことだよ。最初から素材の中に像が入っていて、私はそれを掘り出しただけなのだから」
この彫刻家がどのような意図でこのような回答をしたかは分かりませんが、この話は私たちの人生にとってすごく示唆に富んだ話だと思います。
彼の話は、つまり「結果としてできた完成像は、作者の手柄ではない」としているのです。これはとても意義深い話だと思います。
だって、私たちは往々にして、結果で作品を見がちです。最後にどんなキレイな形になっていたかどうかばかり見がちです。人生だってそうです。
最期どんな形で死んだか、何を遺したか、そこばかり見がちです。
でも、違うのです。
大事なのは、結果に至ろうとする意志なんです。作品を削り出そうとする意志なんです。結果に至るその過程が、ちゃんと自分のものであったか、そこが大事なんです。
自分の人生が、自分のものであったかが大事なんです。
最後に残った形は何でもいいんです。その形は、多分最初から中に入っていたのですから、私たちのせいじゃない。でも、そんな未だ見ぬ完成形がキレイなものと信じて削り始めるところが大事なんです。
自分のやりたいように、好きなように、自分の思う形を目指して削りだすのが大事なんです。
例えば、失敗するのが怖くて、何となく削り出せずにいたとします。最期の形が汚くなるのを恐れて、無難にまとめようとしたとします。
それでも、そうこうしているうちに、水が滴ってきたり、風が吹いたり、たまに他人が勝手に削ったりして、素材は少しずつ勝手に削れていってしまいます。
この時、果たして、この作品は、この人のものでしょうか?
私は違うと思うんです。
先ほど、あえて自分で削りを入れずに滴る水や吹く風に任せて削ってみたという「自然」と称した作品を例えで挙げました。でも、この「自然」という作品と、削り出せずにいたこの人の作品には大きな違いがあります。「あえて削りださずにいたか」「何となく削りださずにいたか」の違いです。前者は意志がありますけれど、後者は意志がないのです。
だから、前者の作品は彼の作品ですけれど、後者の作品は彼の作品ではないのです。自分の人生なのに。
例の偉い彫刻家の先生は最初から完成形が埋まっていると言いました。
でも、彼は言うでしょう、「それでも、これは私の作品である」と。
だって、それを削りだしたのは彼の意志があってこそなのですから。
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artには芸術という意味の他に、人為という意味もあります。
だから、人生という彫刻、そんな芸術作品をartとして完成させるには、やっぱり人の意志が必要なのです。
私たちは人生の中で、選択に悩むことが無数にあります。
その中でも特に大きな選択は、人生を左右するような選択は、本当に困ります。
そんな時に私はいつも自分に問いかけます。
無難にまとめようとしてない?周りに流されてない?
どんなに怖くても自分で選んでる?自分が本当にやりたいのはどっち?
と。
自分が本当に望んでいる選択を、自分の意志を確認しようとします。
さきほど、生きることは可能性を捨てていくことと言いました。
そして、選択するという行為は、その可能性を自ら捨てていくことにほかなりません。
選択する時、その結果がどうなるか誰にもわからないです。
その上、やり直しも、後戻りもできません。
そもそも、私という素材の中に、目指すキレイな形が最初からちゃんと入っていてくれいているか、それも分からないんです。
本当に怖くて、本当に心細い、だから選択から逃げたくなる気持ちは分かります。
でも、自分で選択しないと、自分で削っていかないと、それは自分の人生じゃない。
自分で選択しておかないと、その人生の最期がどんなにキレイな形で終わったとしても、それは自分の作品じゃないんです。
だから、ほんと、そんなの手柄じゃないんです。何にも美しくなんかないんですよ。
最期が汚くなってもいいんです、下手でもいいんです。
自分でノミとツチを持って削る勇気が生きるということなんです。
そこがほんとに美しいんです。私たちの心を打つところなんです。
キレイな彫刻に感動するのも、その彫刻がキレイだから感動してるんじゃなくて、作者が間違いなく自分の意志で彫り進めて、しかも結果もキレイだから感動するんです。
ただキレイだからじゃないんですよ、背景にたくさんの人の願いが、みんなが生きて生きて生きているときの意志の理想像が現れた、そんな奇跡の象徴だからなんです。
そう、だから、
――人生は彫刻みたいなもの
でも、その完成形のところが人生なんじゃなくて。
その削りかすとか、ノミとかツチなんかの道具とか、そこが人生なんですよ。
P.S.
ちょっとポエミーですけれど。。。
これからのキャリア進路で、すごく悩んでいまして・・・。
ああ。