雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

rolling stonesに苔のむすまで

 

人間って、120歳ぐらいまで生きられるんだそうです。

実際にそんな記録の方がいらしたとかで、定年してもまだ人生半分なんて、なんとも恐ろしいものです。

長生きはしたい気はするけど、そこまで長いのもどうなんでしょうかと思わざるをえません。

 

 

それにしても、生き物の身体って丈夫です。

生き物の身体は柔らかいので瞬間的なダメージには弱くって、その辺は硬い金属の塊でできた機械の皆様には全く太刀打ちができません。

でも、どんなに良い車でも家電製品であっても120年そのままで機能が持つものは無いでしょう。勝手に部品の節々が摩耗して、どこかで動かなくなってしまいます。

一方、各種臓器や手足なんかの「私の部品」は、度重なる不摂生にもかかわらず、幸い産まれてきてからこの方それなりに普通に動き続けています。

長持ち度という点では機械の皆様は私なんかの生き物の身体よりよっぽどヤワなんです。

 

 

さて、この生き物の「長持ち」の秘訣はなんでしょうか。

生き物と機械の寿命の差を分けているものはなんでしょうか?

 

 

 

それは、機械を長持ちさせようとしたい時、私たちがどうしているかを想像していただければ分かるかと思います。

 

――そう、メンテナンスです。

 

機械も定期的にメンテナンスをして、壊れた部品を新しい部品に交換すれば、10年、20年、下手をすれば100年以上持つこともあるはずです。

こういう部品交換が長持ちの秘訣なんです。

 

生き物の身体も実は同じです。

手や足、身体などずっと使ってきたように見えますけれど、冷静に考えてみれば生まれたての頃の自分の手足のはずはないんです(肌のみずみずしさもなくなってきたし・・・)。

もう間違いなくあの頃と違う手足で、気づかないうちに既に交換されてしまっているんです。それは機械のように大きな部品交換ではなく、小さな小さな細胞レベルで行われています。歳をとった細胞が死んで、新しい細胞に日々置き換わっているんです。

機械のように大きな部品交換というメンテナンススタイルに対して、生き物は小さな細胞交代を毎日毎日やるというスタイルで、身体を維持しているわけです。

今日の私は、1年前の私とはほとんどそっくり違うし、昨日の私とさえも違っているとも言えます。

 

いつ見てもほとんど同じように見える「私の身体」というものが、そんな小さな小さな「変化」があることで維持されてると思うと、しみじみ不思議に思います。

 

 

       ◆

 

 

さて、私たちは「今の状態を維持したいから」といって「変化」を恐れ避けることがあります。

いわゆる保守的と言われる行動です。

確かに気持ちはわかるんです、だって「せっかく慣れたいい状態だし、下手にいじって、壊れちゃうのは嫌」ですよね。

でも、それはせいぜい短期的な安定でしかないんです。残念ながら長持ちはしないんです。

 

 

言葉の印象とは逆に「安定」は「変化」で支えられています。

先程の生き物の身体や機械のメンテナンスのお話の通り、何かを長持ちさせようとすれば、どうしても不要なところを削って新しい良いものを取り入れるという変化が起きなくてはなりません。毎日でないにしても、時々は必要です。

 

 

自然のもので長持ちしているものを見ても分かります。

同じに見える森や林だって、常に新しい草木に置き換わっているんです。

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」といったのは鴨長明でした。

「転がっている石に苔は生えない」といったのはThe Rolling Stones・・・ではなく、確かことわざでしたでしょうか。

 

水が澱めば腐ります。

石が止まれば腐食します。

 

 

動き続けているからこそ、不変に見える、安定しているんです。長く保てるんです。

止まると、その瞬間は、動きがないという点で、ある意味「安定」して見えます。でも、止まれば途端に確実に沈んでいく、傷んでいくんです。気づいたら溜まっている棚のホコリのように、1日や2日では変わってないように見えても、それは着実に汚れていくんです。

 

 

このように「安定」には「静的な安定」と「動的な安定」があって、そして全然性格が違います。

一時的でいいなら、まあ「静的な安定」でもいいのですけど、長期的に継続しないといけない場面でまで「静的な安定」の方針がとられてしまっている時が少なくないような気がします。

「安定」という言葉を使う時、聞いた時、どちらの意味なのか、どちらを目指すべきなのか、考えてみることが大事なんじゃないかなと思います。

 

 

       ◆

 

 

「長持ち」させたいなら、「長期的に安定」させたいなら、常により良い方向を目指して「変化」を続けなければいけないんです。仕方ないんです。

それが社会であっても、自分の人生であっても、そうだと思います。

自分がどう生きたいか、社会がどうあるべきかとか、私たちが考えるのをやめて、「このままでいいんじゃない?」って思った時から、何かが溶けていって、いつしか腐ってしまうんです。

私はそんなの嫌なんです。

命も人生も社会も何だって長持ちさせたい。より良い方向を目指したい。

 

だから、考え続けたいって、そう思っています。

そして、必要とあれば変えていきたい、いけたらな、そう願っています。

簡単ではないですけれど。。。

 

 

マグロが泳ぐのをやめたら死ぬように、

人も考えるのをやめたら、進むことをやめたら、何かが死んじゃう、

多分そういうものなんだと思います。