ハートの形
時々、独りがひどく痛む夜がある。
子連れの家族を見た時や、友人の結婚式の帰り道、やたら赤い服のヒゲ親父が多発するイルミネーションの中だとか。
そんな時は、暗闇はさらに黒く、灯りは突き刺すように眩しい。
自分はここにいるはずなのに、どこにもいないような。
独りは1人のはずなのに、それさえ定かでない感覚。
1に届かない1未満、下手をすると0なのかもしれない。自分なんて存在してないのかもしれない。
思考はどこまでも深く堕ちて行く。
逃げ場所は自分の部屋の中だけ。
誰もいない一人暮らしの部屋だけど、その部屋にとっては私しか居ない。私が居なければその部屋も意味を消すのだ。
1人でいい、1人で当たり前のその場所だけが、私の存在を保証してくれる。
孤独から逃げるのに、孤独になろうとするなんて何とも不思議な話。
――人は大自然の中で1人ぼっちでも寂しくはないが、大都会の人ごみの中では孤独を感じる。
とは、誰が言った言葉だっただろうか。
とにかくその日もそんな夜の1つで、つまり私はその日失恋していた。
◆
雪は降っていないまでも、冬を名乗るにふさわしい寒空だった。
もちろん感じる寒さは気温だけのせいではなかったけれど、それを冬のせいにできるのは救いだったかもしれない。
大通りを1人トボトボと、私は帰路についていた。
遅い時間だったけれど、人通りはそれなりに残っていた。
そんなはずもないのだけれど、すれ違う人たちが、みんな楽しそうに、これ以上なく幸せそうに見えて、その度、更に落ち込みはひどくなった。
まるで、みんなが見えないナイフで、通りすがりに私に切りつけているようだった。私の心は随分削れてしまって、そのブサイクな彫刻はもう人の形が保てなくなっていたかもしれない。
何でみんなが幸せで、私だけが不幸なのか。
みんなが恨めしくて恨めしくて、悔しくて悔しくて仕方がなかった。
自分が不幸だからといって、人の幸せを妬むような人間にはなりたくない――ずっとそう思っていたけれど、その時はもう抑えきれなくて、心の底から負の感情が沸騰してボコボコと泡を立てていた。
その音がまたやたら不快で、そして自分が自分が嫌いな人間になってしまったことで、さらに自分で自分にも切りつけていた。
気分はサイアクだった。
振り返ってみても、それはほんとにひどい心境で。
正直、そんな時に自分を制御できる自信は無い。
自殺しちゃう人や人を傷つける人の気分も分からないでもないような。
それぐらい堕ちて堕ちてしまう瞬間ってのはやっぱりあるのかもしれない。
寂しい時に死んでしまう動物は、ウサギではなくて人間なんだと思う。
◆
ふと前を見ると、二人の人影があった。
無差別怨念発生装置と化していた私は反射的に怨念を発射する用意をした。
もちろん発射しても誰も傷つかない――いや、自分だけが傷つく恐ろしい攻撃だけれど。
でも、それまで百発百中で何人も撃ち落としていたのに、何度も何度も傷ついていたのに、その時は撃てなかった。
歩いていたのは一組の老夫婦だった。
歳相応に身体も年齢を重ねたようで、トボトボと歩く私よりも更にその歩みは遅く、杖をつきながらゆっくりゆっくり大地を踏みしめるように歩いていた。
どこにでも居るような何の変哲もないおじいさんとおばあさん。
それだけなら、私の怨念の餌食になっていたかもしれない。
でも、お二人には、ちょっとした魔除けがあった。
彼らが杖の反対側の手で握りしめていたのは、相手の杖の反対側の手。
――二人は手をつないでいた。
あらまあ。
少し予想外の光景に呆気にとられながら二人を見つめていて、私は気づいた。
地面と二人の両手とそして両足で、描かれているのは――ハートの形。
こんなところにハートが隠れてたなんて。
思わず立ち止まった私に気づくこと無く、二人はハートを運びながらゆっくりゆっくり前へと進んでいた。
歩みのたびに少しずつ揺れるけど、それは確かに崩れずそこにあった。
手を離せばあっさりすぐに壊れてしまうはずのその形は、しかしとても頑丈そうで。
ああ、ハートの形ってこれから生まれたのかもしれない。
人と人が手をつないで歩いてる姿なんて、ハートの由来にうってつけ。
いやいや、ほんと前から心臓の形にしちゃおかしいと思ってたんだよね。
何となく長年の疑問に合点が行ったことで、フッと笑みとともに口から息がもれた。
はは、あなた達には勝てそうにないなぁ。
こちとらが簡単に割ったハートの形をそんなに長持ちさせられちゃあねえ。
でも、いいよ、そういうの。好きだよ。
その時、気づいたら笑っていて、そしてようやく涙が出始めた。
不思議と恨みの気持ちは薄れていて、何だかがんばろうかなって、そんな気持ちになっていた。
涙とともに私に取り憑いていた怨念が流れ出てしまったのかもしれない。
お2人さん、ありがとう。お似合いですよ。
心の中でそっとつぶやくと、若者らしく2人をサクッと追い抜いて、私は家路を急いだ。
感じる寒さは随分和らいでいたけれど、それは多分気温のせいじゃなかった。
◆
時々、独りがひどく痛む夜がある。
その日はそんな夜の1つだったけれど、そんな夜の1つでは終わらなかった。
自分が不幸だからといって、人の幸せを妬むような人間にはなりたくない。
幸せになって、人も幸せにするぐらいの人間になりたい。
言葉の1つも交わさなかったけど、あの夜、2人は私に教えてくれた。
ハートの形と、そのぬくもりを。
まだまだ残暑の薫る夏の日に、何となく思い出した、ある寒い寒い冬の日の随分とちっぽけな出来事。
でも、多分忘れらんない。
P.S.
その時見えたハートの形のイメージが分からない方は、「厚生労働省」のロゴをみていただけましたら。(ちょっと風情がないですが・・・)