wikipediaを参考文献にして良いかどうか問題
以前、ある大学教授先生のレクチャーを聴く機会がありました。
聴くこと全てが新鮮で大変勉強になったのですが、そのレクチャーの中で、教授先生が少し脱線して「最近の学生はレポートの参考文献にwikipediaなんかを引いてきて大変嘆かわしい。ちゃんと論文か本を引いてくれないと」と話される一幕があったんです。
その時は私も一緒に笑い飛ばしていたのですが、何となく違和感を覚えました。
「そういえば何で論文や書籍は良くてwikipediaはダメなんだろう?」
って。
実際、「wikipediaの引用はダメ」という価値観は、この教授先生だけでなく、アカデミアでは割りと一般的なもののようです。
学生のレポートで、チャチャっと検索してお茶を濁せるwikipediaの参照というのは、色々文献を引くというプロセスの勉強としてよろしくない、というのは確かに一理あるのでしょうけれど、最近では正式な査読付き学術論文においてもwikipedia引用をするものが増えているのだとか。
こうなると、wikipediaを引いても良いのかどうかというのは、学生に「手抜きするな!」と活を入れる単純な話ではなく、参考文献の意義――ひいては学問体系の在り方そのものを問いかける非常に根源的な問題なのではないかと感じます。
今日はこの問題について私なりに考えてみました。
wikipediaを引いてはダメな理由
wikipediaを引いてはダメとされる主な理由としては大きく分けて5つあるようです。
①匿名の不特定多数が編集するので信頼がおけない
「匿名の人が書いたものなんて、無責任でデタラメが書けるし、信頼できない!」というもの。
ブログでも匿名か実名かで議論になることがありますよね。
②情報が正確でないことがある
「wikipediaの記述ってけっこう間違ってるから」と、その教授先生もおっしゃってましたし、私自身も「うーん」と思うものを見かけたことがあります。
③公開される前に編集者や査読者などの他人のチェックを受けていない
書籍なら出版社の編集担当の方、学術論文なら査読者・編集者のチェックが入りますが、wikipediaではチェックなしに公開できるので、本人だけの主観的な思い込みや間違いが出てしまいやすいというもの。
④いつでも編集できるので筆者が見た時と読者が見た時に内容が異なる可能性がある
書籍や論文などと違って「固定された版」というものがないので、見る時が違えば内容が様変わりしている可能性があります。すると、「参考文献」と言ってもどう参考にしたのか分からなくなってしまうというもの。
⑤直接調べたデータや情報ではなく、誰かがやったものを勝手にまとめた間接的な情報である。
wikipediaも所詮は百科事典なので、誰かが調べたことをまとめた二次的な情報の集まりでしかありません。なので、wikipedia記事内で更に参照されてるような数値データや論文・記事・書籍などの一次情報を引用するべきというもの。
ダメじゃない理由?
以上の問題点はいずれもごもっともではあるのですが、議論のためあえて反論してみます。
①匿名の不特定多数が編集するので信頼がおけない
②情報が正確でないことがある
③公開される前に編集者や査読者などの他人のチェックを受けていない
残念ながら、実名であってもお金儲けや承認欲求のために有ること無いことを書く方は少なくありません。逆に匿名不特定多数編集者なら私欲無く動くので信頼できるという考え方も可能でしょう。
また、たとえ論文や書籍であっても正確でないものは山のようにありますし、例のSTAP騒動でもそうでしたが、編集者・査読者も完璧ではないので公開前チェックもすり抜けてしまう恐れがあります。
結局、情報の信頼性というのはその出自だけでなく公開後の多数の読者の批判の目に耐えてこそ得られるもので、だからこそ読者も常に「これは誤りかもしれない」という目で情報に当たらないといけません。
ですから、これらの点をもってwikipediaを責めると、かえって「実名だから、査読論文だから、大丈夫」という危険な思考を誘発しかねない気がします。
④いつでも編集できるので筆者が見た時と読者が見た時に内容が異なる可能性がある
これは確かに問題ですので、修正履歴を保守し、参照時にはいつの履歴かを明示するなどの対策が必要と思います。
ただ、版が固定される書籍や論文は、内容が古くなりやすい弱点があるので、この対策がなされれば逆にwikipediaの方が優位性があると言えるのではないでしょうか。
⑤直接調べたデータや情報ではなく、誰かがやったものを勝手にまとめた間接的な情報である。
学術界では既に総説という色んな研究・知見をまとめた論文というのがあり、実際、(実は推奨されてないですが)引用されることは少なくないようです。
なので、「まとめだからダメ」と言ってしまうと、「じゃあ、総説引用も禁止にしないと」とそっちの問題に飛び火してしまい説得力が弱くなってしまいます。
wikipediaは学問の営みの縮図
色々言いましたが、私は別にwikipedia引用を勧めているわけではありません。
ここでこの議論を取り上げたのは、私にはwikipediaが学問の営みの縮図のように思えたからです。
学問も有名無名の多数の研究者が、時には対立し、時には間違いながら作り上げてきた偉大な知の集合です。
wikipediaを始めとしたネット上の知だって、同じ構造で立派な学問となりえる可能性はあるのではないでしょうか。ただし、今度は研究者だけでなく皆が参加するものとして。
だから、
もし、ある時wikipediaの記述が間違っていると思ったなら――
その時はあなたが直す番が来ただけのこと、
そう思うんです。
P.S.
字数厳しくて、説明不足かも。。。
(2500字)
「正しい科学知識を伝えれば理解してくれるはず」という誤解
老舗グルメ漫画の「美味しんぼ」が、作中で福島原発からの被曝による鼻血の描写をしたとして議論を呼んでいます。
「科学的根拠の無い描写で、風評被害につながる。けしからん!」と美味しんぼ側に抗議する声もあれば、「国や学者はこんな被害の真実を隠蔽してる。けしからん!」と称賛する声もあるようです。
一応立場を表明しておきますと、私はどちらかと言えば前者寄りで、被曝による鼻血という因果関係には懐疑的なのですが、今日は放射線で鼻血が出るかどうかについて、深く掘り下げるつもりはありません。
今日のテーマにしたいのは、たまたま見かけたこちらのまとめです。
「そもそも鼻血が出るメカニズムは」という基本的なところから「放射線による鼻血というものが医学的見地から言えば考えにくい」という結論まで丁寧に解説している一連のツイートがまとめられています。
この解説の内容についても厳密に真偽を確証するのは難しいですが、一般的な科学的立場としては確かにそんなところかなーと納得させられる内容となっています。
ただ、筆者が言われるように「科学的立場からこのように正確な知識を啓蒙すれば騒動が落ち着くか」といえば、私にはそうは思えません。
なぜかというと――こう言ってしまうと月並みですが――「人の気持ちは理屈のみで動くものではないから」です。
◆
実際、リスクコミュニケーションやサイエンスコミュニケーションなどと言われる分野において、知識豊富で教える立場である科学者が初めに陥りやすいのが「正しい知識を伝えれば理解してくれるはず」という誤解なんだそうです。
「理論的であることを旨とする科学を教えるのであるから、論理的に一切紛れのない正確な知識を提供しないといけない」「科学的に合理的な正しい知識なんだから聞けば理解してもらえるはず」と思う気持ちは確かに分からなくもありません。
なにせ科学界では合理的であることが鉄の掟です。
例えばSTAP細胞の小保方博士は科学者でありながら科学の合理性の掟を犯した疑いで今糾弾されているわけです。
しかし、これが罠なんです。
考えても見てください。今回のケースのように科学を非専門家の人たちに伝えようとする場合、そこはどこでしょうか。
そう、相手が科学者で無い以上、そこはもう科学界ではないのですよ。
合理性の掟の司る科学界の外に出ているのです。
それなのに、あくまで科学を伝えるにあたって、科学界の掟である合理性にのみ頼ることが果たして有効な策でしょうか。
例えば、私たちが日本文化を外国の方に伝えようと思ったとして、ひたすら日本語で話しかけますか?
日本の行事や礼儀作法を延々と見せつければ、日本文化を解ってもらえるでしょうか?
絶対に不可能とは言いませんが、これは非常に大変な道であるはずです。
相手が特に日本に興味が無い場合は尚更そうでしょう。
そうではなく、そういう時、私たちはむしろ、まず相手の国の言葉や文化を学ぶはずです。
相手の考え方や言葉を学び、自分たちの世界との違いを知った上で、相手の言語を用いたり、相手の礼儀作法になるべく則りながら、日本のことを伝えていくはずです。
これは、科学であってもそうでしょう。
科学を伝えるにあたって、科学界の掟である合理性のみを追求していくことはあまり良い手とは思えません。
科学者側も、理屈だけでは納得できない人の存在をまず認め、時に非合理的かもしれない人の感情というものの掟を学び、それに寄り添っていかなければならないはずなんです。
すなわち科学を非科学者に伝える時には――もちろん正確な知識や道筋だった論理も必須ではありますが――直感や感情といったいわば非合理的な存在も尊重する必要があるんです。
感情を大事にする、気持ちに訴えかける、などと言うと科学者の立場からすると嫌がる方も多いかもしれません。普段はきっとそんなことは非科学的だとして、やらないようなことでしょうから。
しかし、科学者にとって日常、理屈だけで話が通じるのは、相手も同じ科学界にいる科学者だからに過ぎません。
科学者でない方に本当に科学を伝えたいというのであれば、科学を押し付けるのではなく、非科学的な信念というものをもある程度は尊重しないといけないのです。
相手に何かを伝えようとする時、相手に変わってもらおうとする場合、最初に変わらないといけないのは案外自分達の方で、そして、コミュニケーションとはまさにそういうものなのでしょう。
◆
さてここで、例の解説を振り返ってみますと、なるほど確かに論理的ではあるのです。
ただ、「正しい知識を伝えているのだから正しい」という立場に依ったと見受けられる、「ナンセンス」「馬鹿馬鹿しい」「爆笑した」「下らない」など、若干強い態度が目につきます。
いくら正しい知識、紛れのないロジックに基いていたとしても、これを受け取った相手側にとって、これは到底感情的に納得できないものではないでしょうか。
そして、それでいいのかといえば、それで良くないはずだからこそ、科学知識を伝えようとしていたはずで、これでは本末転倒に思うのです。
以前、私は「科学も宗教である」という旨の記事を書きましたけれど、私たち科学信者も科学に対して理屈ではない何かしらの信念を抱いているように、それを科学界でない方に伝えるためには、その方々も心の底から科学に惚れ込ませないといけないのではないでしょうか。
私たちが理性だけでなく感情も備え、完全な科学的な存在になれない生身の人間だからこそ、やはり理屈だけではないのです。
<参考記事>
ニセ科学をバカにする前に ~科学という名の宗教~ - 雪見、月見、花見。
専門家の話が分からない、一般人の気持ちが分からない - 雪見、月見、花見。
P.S.
とはいえ、感情や直感も行動科学や心理学として、科学の範疇にはなるんですよねー。
この対応の柔軟性も科学の魅力の一つじゃないかなと思います。
(2500字)