ちきりんさんの科学教育論をめぐる議論がすれ違ってる気がする
ちきりんさんのこの記事が話題になってます。
学校で全員に画一的な科学教育をすることをいつものちきりん節でバッサリと批判したこの記事ですが、そこかしこで多くの批判を浴びています。
代表的なのがこちらの記事。ブコメにも多数の反ちきりんコメントが並んでいます。
あるいはクラゲさんも参戦しています。
で、私もほにょほにょと、この流れを拝見していたのですが、ちきりんさんの記事は相変わらずおちゃらけすぎてはいるけど主旨にはとても賛同できますし、一方のバッタもんさんやクラゲさんのスタンスも「ほんとそう」と等しく賛同できるものです。
批判者と被批判者に同時に賛同しているのは変と思われるかもしれません。
これは何もダブルスタンダードしているからではなく、みんな同じ背景から同じ流れで意見を言っているけれど議論が不幸にもすれ違ってるように私には思えるからです。
具体的に見ていきます。
まず、ちきりんさんの記事の主旨を私なりにまとめるとこんな感じです。
数学や理科に興味が無く才能も無い子に一律にどんどんレベルアップした内容を教えても途中で落ちこぼれるだけで結局役に立たないし無駄。
意欲や能力のある子にとっても授業のレベルが低くなり、もったいない。
画一的な教育は諦めて、意欲や能力のある子は早くから高度な教育を受けられるようにしつつ、意欲や能力の無い子は代わりに実生活にもつながる事例でリテラシー教育につなげるなどして、どこかの時点で(意欲や能力に応じて)教育内容を分離したらどう?
科学以外にも学ぶべきことはいっぱいあるんだし。
(雪見まとめです)
対して、バッタもんさんの記事を追ってみます。
いつどこで何が役に立つかわからないからこそ、子供の内から色々なことを学校で学ぶ必要があるのです。
(中略)
子供の適性など誰にもわかりません。「どうせ理解できないから理科教育は必要最低限でいい」などと称して子供の可能性を狭めることはあってはならないことです。向上心や努力の否定にもつながりかねません。
例えばこの批判の部分なんですけど、正直なところちきりんさんの主張と矛盾しないんですよね。
ちきりんさんは「科学も大事かもしれないけど科学以外にも大事なことがある」「科学が苦手な子に(科学以外の勉強や体験も可能なはずの)時間を費して無理に科学を教えるのは子どもの可能性を狭めること」のスタンスで、これはまさしくバッタもんさんの主張の裏返しです。
ちきりんさんは繰り返し本文中にも書いているように「科学の能力や意欲がある人の教育を抑えるべき」とは言っていないんですよね。
むしろ、意欲がある子の勉強をより進めようと主張しているので、子どもの向上心を重視している意味では、結局のところバッタもんさんと同じ意見のように思います。
また、バッタもんさんの
科学の基本は考えることです。考える訓練を受けずに上っ面の知識だけを身に付けることはいささか危険です。なぜならば、子供の内に科学的な思考法を身に付けていないと、知識が正しいのかどうか自分で判断することができないからです。
この部分ですが、ちきりんさんも
日本には血液型判定を始め、偽科学的が溢れているし、科学的な思考とは何か、ということはしっかりと教えた方がいいと思います。
(中略)
「全員に与えるべきは、技術者や研究者になるための専門教育ではなく、生活者として自己決定ができ、健全に安全に生きていけるようになるための科学リテラシー」
としていて、科学的思考に基づく自己決定ができるようになるのが重要という点でも実はお二人は同じことを言っているように思います。
「台形の計算方法はググればいいから理解しなくていい」と言ってしまうなど、「知識が大事で考え方が大事じゃない」というように記事が受け取られたのは確かにちきりんさんの失策と思います。
けれど、ちきりんさんも一応「科学的な知識」と「科学的な思考」と単語の使い分けをされているので、「必要なのは考え方」という点は多分ちゃんと押さえてるんじゃないかなと私は感じました。
まとめますと。
ちきりんさんにとってはこれは多分「馬の耳に念仏」という課題をどう解決するかという議論なんです。
「念仏(科学)が大事」ってのは前提で、しかし現実に馬(意欲や能力が無い子)にそれが伝わってないとすれば「念仏を与えるのを諦める」か「念仏を馬にも分かるように工夫する」かしかありません。
その中で「念仏以外にも色々学ぶべき大事なことはまだまだいっぱいあるから無理に念仏を押し付ける必要はない」とする「前向きな念仏諦め」、および「でもどうしても知ってもらいたい科学的思考の基礎は生活に則した具体事例を通して教えたらどうか」という「念仏を伝える工夫案」を主張したのが今回のちきりんさんの記事で、そこに「念仏は大事」「念仏を馬から取り上げるとはけしからん」と批判しちゃうのは申し訳ないですけれど議論がすれ違ってはいないでしょうか。
もちろん私はちきりんさんではないので、ちきりんさんの意図を正確に把握しているわけではないと思いますが、今回の一連の記事を読んで、こういう読み方する人も居るんだなーと参考になればと思います。
<参考記事>
ちなみに、私も以前にこのテーマに近い記事を書いています。
私自身の意見はこちらを読んでいただければ♪
あとこれもちょっと関係あるかな?
P.S.
ちなみに「下から7割」という表現も、子どもをバッサリ2分するように受け取ってる人が多いようですけれど、子どもの意欲に従えば誰が分けるでもなく「物理がやりたい子3割」「英語がやりたい子3割」のように自然と分かれていくはず、というイメージな気がします。
誤解を生みそうな表現で私もどうかなーと思いますけれど。
(2499字)
「細胞生物学の歴史を愚弄している」というコメントについて
皆様ご存知と思いますが、先日発表されたSTAP細胞凄いですね。
最近ようやくiPS細胞を覚えたと思ったらいきなりコレですから、「そんなんありなん!?」と私も開いた口が塞がりませんでした。
小保方博士の信念と熱意が掴んだ大成果です。
さて、そんな久々の明るいニュースではあったのですが、関連ニュース記事等を読んでいてどうにもモヤモヤっとするところがありまして。
昨年春、世界的に権威ある英科学誌ネイチャーに投稿した際は、「過去何百年の生物細胞学の歴史を愚弄していると酷評され、掲載を却下された」
「間違い」と言われ泣いた 新型万能細胞を開発した30歳女性研究者+(1/2ページ) - MSN産経ニュース
表題でお察しの通り、有名なこのエピソードの部分です。
この掲載却下の窮地を乗り越えて今回ついに論文を通した小保方博士の執念と底力を感じさせるエピソードで、博士のその頑張りについてはもちろん称賛以外の言葉がありません。
しかし、そんないい話の中で私がどうしても気になってしまうのは「細胞生物学の歴史を愚弄している」とした酷評のコメントです。
個人的には決して適切なコメントではないと思いますし、そしてあえてきつく言えばこのコメントの方こそ「科学の歴史を愚弄している」ものだと思うのです。
◆
Natureのような有名科学雑誌はもちろん、論文を投稿する対象となる多くの雑誌では投稿すれば何でもかんでも載るわけではなく、厳しい審査をくぐり抜けなくてはなりません。
例えば今回のNature誌の場合では、まず編集部の方々が送られてきた論文に目を通しふるいにかけるそうです。
就活でいう書類選考にあたるいわば第一関門ですが、この編集の方々もただものではなく科学に精通した非常に優秀な方々で、そのチェックは非常に厳しいことで知られています。
掲載するかどうか検討してみてもいいなと編集者が判断すれば(第一関門を通過すれば)、編集者はその分野における他の専門家に論文のチェック(査読)を依頼します。
この審査の仕組みはピアレビューと呼ばれ多くの雑誌で採用されている方式で、要するに論文の優劣を審査するにあたり、餅は餅屋ということで他の同業者にレフェリーとなってもらい吟味してもらうのがいいだろう、という考えに基いています。
しがらみなく公正に審査できるように、多くの雑誌では誰が自分の論文を査読しているのか秘密にする「匿名制」になっているのも特徴です。
レフェリーとなった方々は論文を読んで「いい論文だ。載せるべき」「ちょっと直せば大丈夫」「大分直せば何とかいけるかな」「こらあかん」などと評価しつつ修正すべき点・問題点を指摘します。その指摘に基いて投稿者は修正したり諦めたりするわけです。
そして、最後に修正の結果やレフェリーの判断を参考に編集者がOKを出せば、ようやく論文が掲載され世界に公開されることになります。
◆
さて、今回の件で問題の「愚弄」コメントがどこで出たかと言えば、どうやらレフェリーのコメントのようです。
レフェリーの評価や指摘は一般に非常に厳しいものになることが知られており、正直その流れの中では出てきても珍しくない批判の言葉かもしれません。
でも、やっぱり言っちゃダメな言葉だと思うんですよ。
これは何も、結果的にSTAP細胞という世紀の大発見となる投稿を却下したからだとか、小保方博士が傷ついてかわいそうだから、などという理由で言っているわけではありません。
しょっぼい研究であろうが、打たれ強い投稿者であろうが、関係ないんです。
例えば無理数を受け入れられなかったピタゴラスや、アーベルの五次方程式に関する論文を無視したガウスや、量子論に懐疑的だったアインシュタインなど、歴史に名を残す優秀な科学者達でさえ全ての新しい科学的成果を間違いなく拾い上げることは難しいのです。
毎日無数の論文が送られてくる環境にある科学誌編集者達に完璧な拾い上げを求めるのは無理な話と言うものでしょう。
また、どんなに意義深い大発見であっても、論文そのものの厳密さや独創性、明確さなどを担保するために出来る限り厳しい審査をするのが査読者たちの務めです。
博士の最初の論文に不備があったとすればきっちり却下するのが科学論文誌として当然の態度と言えます。
ですから、STAP細胞の論文を却下したことを今になってバカするのは結果論でしかありません。
そうではなく、ただ私は「過去何百年の生物細胞学の歴史を愚弄している」というコメントがまさしく「科学的でないコメント」だから許せないのです。
査読者だって人間です。多忙な中でお金にもならない査読の作業をしていて、それがどうも気に入らない論文だったとしたら、ついつい苦言を呈したくなるのも分かります。
匿名・非公開のやり取りであること、審査する側という優越感・自尊心から自ずと気も大きくなってしまうかもしれません。
でも、査読はやっぱり科学の場なのです。
厳しい批判をするにしても科学的な言葉で行うべきでしょう。
常識に囚われず主観を排し、厳密さと客観性を追い求め、そして時々歴史をひっくり返しながら進歩してきたのが科学です。
その科学を科学たらしめている現代における最高峰の審査の場で「歴史を愚弄している」などという感情的な言葉で応答することは、科学に対する敬意や謙虚さを見失った、それこそ科学の歴史を愚弄した態度ではないでしょうか。
実際、主観的・感情的なコメントは科学の厳密さ・客観性・公正さに対する信頼や理解を損なう恐れもあります。
昔、記事にも書いたように、それは「ニセ科学」が蔓延する隙を作ることにもなりかねません。
科学的議論の場においてはイラッとしてもムカついても冷静に科学的態度を通すのが科学者の矜持というものではないでしょうか。
私は一人の科学教徒として、Natureの査読者というおそらく高いレベルの科学者の口からそのような言葉が出たことを、(事実であれば)ただただ残念に思います。
P.S.
以上、愚痴でした!
なお、この査読システムにも色々と課題があるようで、今後また変わってくるかもです。
(2499字)