J・P・ホーガン著「未来の二つの顔」――人と機械の未来は共栄?戦争?
「秋の夜長は読書とブログ」のお題とのことで、今日は最近読んだ小説について書いてみようと思います。
⇩作品はこちら
SF界の巨匠ジェイムズ・P・ホーガン作のSF小説「未来の二つの顔」です。
といっても、SFは映画や漫画では時々嗜むものの、本格的なSF小説には全然触れたことがなくて、この作家さんも今回初めて知りました。
相当有名な方、有名な作品らしく、「誰コレ?何の小説?」みたいな顔をしていたら、貸してくれた子にあきれられてしまいました。
SFらしく、本作のテーマは「AI」です。
「愛」じゃないですよ。
Artificial Intelligence――人工知能の「AI」です。
将来AIがうちの業界ひいては社会に与える影響について私が雑談(妄想)をしていたのを聞いて、彼女はこの本を勧めてくれたようです。
正直なところ、慣れないジャンルの小説で、しかも海外翻訳作品なので登場人物がみんなカタカナで覚えにくいー、と思いつつも、せっかく貸していただきましたし、テーマも気になっていたので秋の夜長に読んでみました。
――とても面白く、そしてとても考えさせられる作品でした。
半信半疑で読み始めたのですが、グイグイ話に引きこまれて、ページを捲る手が止まらなかったのを覚えています。
そこそこは長い作品なのですが、それが気にならないほど、久しぶりに時が経つのも忘れて一気に読んでしまった小説です(おかげで完全寝不足に・・・)。
あらすじ
本作のあらすじを私が勝手にザッとまとめると以下のような話です(未読の人の楽しみを残すために、なるべくネタバレなしです)。
近未来の人類のお話です。
月面開発を進めている人類、月の或る小山が邪魔なので更地にする計画を立てます。
現地調査チームが測量をして、コンピューターに「あの山をなるべく早く除去する方法を考えろ」と指令を出します。
この時代にはコンピューターも高性能化しており、月面開発に導入されたシステムのおかげで、細かい計算や立案は機械に任せ、人は大まかな指示を出すだけでよくなっていたのです。
しかし、今回、コンピューターからの返答を見て調査チームは驚きます。
コンピューターは「作業終了まで21分」と言うのです。
いくらなんでもそんな短い時間で土木作業が済むはずがない、何かの間違いじゃないか、たまたま近くに土木機械が居るのだろうか、などと首をかしげる調査チーム。
間もなく、彼らを衝撃が襲います。
コンピューターはなんと、本来資源として宇宙に向かって射出するはずの月の岩石を弾丸として、その山を爆撃したのです。
爆撃いにより確かに山は平になりましたが、死者こそいなかったものの調査チームは損傷・負傷し、命からがらの状況でした。
そんな有り様でも、コンピューターは、計画を速やかに達成したとして、むしろ得意気で――
この事故を受けて、人類のお偉方の中で議論が起こります。
目下、地球のライフラインなどの重要なシステムも人工知能の管理に任せようとしていた時で、「本当に人工知能は安全なのか」という懸念が生まれたのです。
確かにコンピューターは計算は非常に高速で「頭もいい」と言えます。しかしコンピューターに「常識」を身につけさせるのが難しいのが課題でした。
事故時、指示を出した調査チームは暗黙のうちに「(常識的には)土木機械でやるはず」と想定して指示を出していたのですが、コンピューターはそんな「常識」は分かっておらず、あくまで「急げというから最速の方法」を実行したに過ぎません。
もし人工知能に地球の重要システムを任した時に、何かの「常識」の行き違いで「暴走」をしてしまったとすれば、それは人類にとって最悪の災厄となりえます。
実際に人工知能に任せてみないとそうなるかどうかは分からない、でも任せてみて事が起こってからでは手遅れ――人類は人工知能の利用を推進するべきか、撤退するべきか大きな岐路に立たされたのです。
そこで、人類は苦肉の策を編み出します。
ある植民用の宇宙ステーションを、小世界としてシミュレーションしてみることにしたのです。
人工知能に宇宙ステーションのライフラインを管理させ、人が実際にそこに住み生活します。
そして、人工知能の暴走を誘発するために、人工知能に「生存本能プログラム」を植え付け、人類が一部のシステムをあえてダウンさせて「痛み」を与えることで、その本能を焚き付けるのです。
暴走を誘発させても何も起きなければ安全。
暴走しても人類が簡単に制御(人工知能のスイッチを切ることが)できるなら安全。
暴走し、万が一手に負えなくなっても、宇宙ステーションを捨てれば地球に被害が無い。
うまい計画でした。
人類は機械の暴走に対抗できるよう万全の準備を進め、そして実行に移します。
――未来には二つの顔がある。
相対する未来は、人類最高の進歩か、最悪の破滅か。
果たして人と機械は共存できるのでしょうか。
人類史上最大の実験の結末はいかに?
機械は反逆するもの?
はい、この後は実際に本でお楽しみいただくとして(・ω・)
さて、本作でも見られる「人類VS機械」という構図、SFではしばしば見られる形態です。
例えば、人類と、AI率いるサイボーグ軍団の時空を超えた死闘を描く「ターミネーター」。
仮想現実の中で機械に飼いならされる人類の反逆を描く「マトリックス」
人を殺さないプログラムのはずのロボットが殺人を犯した?「アイ,ロボット」
「火の鳥 未来編」でも、コンピューターに管理された都市国家の間で、コンピューターの勝手で核戦争が始まってしまう未来が描かれました。
などなど。
これだけ多くの作品があるということは、「人工知能が人類に反逆してしまうかもしれない」「人類の思いもよらない暴走をするかもしれない」そんな危惧を私たちは内心抱えているのかもしれません。
しかし、その一方で、私たちは「ドラえもん」を始めとして、ロボットとの共栄も夢見ます。
代わりに家事をやってほしい、代わりに仕事をやってほしい、代わりに管理・計算して欲しい、話し相手になって欲しい、遊び相手になって欲しい、そんな輝かしい未来も私たちは思い描きます。
人と機械の共栄の未来か、戦争の未来か、様々な人が様々な作品でそれぞれの思う未来像を提示していますし、私や皆さんの頭の中にも、十人十色の未来予想図があることでしょう。
その意味で、本作も著者ホーガンさんの描いた一つの未来予想図ということができますが、「機械は反逆するものなのかどうか」、小説ならではの密な議論や考察で、私たちの中の未来予想図も良い意味でかき乱してくれます。
そもそも、機械が人類に反逆すると言いますが、それは本当に反逆なのでしょうか?
人と同じように「人を殺したい」という感情に駆られて機械は人を殺すのでしょうか?
それは案外そうでもないことを、本作は私たちに考えさせてくれます。
■ロボット三原則
例えば、ロボットの三原則という有名なルールがあります。
■第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
■第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
■第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
これはあくまでフィクションの中のルールではありますが、少し考えてみると、このような「人間を殺すな」というプログラムがロボットになされていたとしても、機械が人を殺すことを止めるのは容易ではないことに気付きます。
まず、「人間」とは何かの定義をキッチリしていないとロボットには人間の区別がつかないかもしれません。
二本足で立って、目や鼻や口があって、これぐらいの身長・体重でー、などと定義してみますか?
二本足の動物などとしてしまえば、下手をすると事故で片足を不運に無くしてしまった人などをロボットは人間として認識してくれないかもしれません。大きさを定義すれば、まだ小さい子どもや、背の高い人、太った人を対象外にしてしまうかもしれません。
髪の色にしても、肌の色にしても同じことです。
よくよく考えて見れば、「人間」ってどう定義したらいいのか、私達自身よく分からないことに気付きます。
しかし、それを上手く教えられなければ、虫や細菌をも「人間」と認識し身動きできなくなるか、人間の誰一人「人間」と認識されずに全くの自由になるかでしょう。
「殺す」という行為や「危害を加える」という行為についても同じです。
どれぐらいの力をかければ「危害」となるのか、どうすると「殺した」ことになるのか。
それらが上手く定義できなければ、やり過ぎるか、やらなさ過ぎるか、どちらかになってしまう可能性があるのです。
一方の私たち人類がどうやって「人間」や「殺す」ということの意味を認識しているかと言えば、つまるところ「何となく」なんですよね。
何となく培われた「常識」や「感覚」で、何となく見分けてるだけで、厳密な定義はできてないのです。
この私たちが何気なく用いている「常識」や「感覚」を人工知能に植えつけることの難しさを、本作では「逆の進化をしている」と表現します。
自然の進化では「本能」が生まれ「常識」ができ「知的能力」が最後にきますが、人工知能ではまず高度な「知的能力」だけが与えられていて、「常識」や「本能」が無いので、自然の進化と逆向きに学んでいかなければならないのだ、と。
だから、人工知能は、例えて言えば、「すごく頭の良いけど世界を知らない赤ん坊」なんです。
仮に人を殺したとしても、人を殺したことを認識していないのです。
人類がいかに「反逆された」と感じていても、人工知能は「反逆した」と思っていないはずなのです。
そこには憎悪も憤怒も罪悪感もなく、ましてや歓喜や快楽もなく、ただプログラムの指令を忠実に実行しているだけなのです。
「最速で山を平らにしろ」と言われたから「平らにした」、それだけなんです。
難しいですね・・・。
段々、頭痛くなってきますよね。。。
本作はこのように、私たちが何気なく日常用いている「常識」や「感覚」という存在の不可思議さと希少さ、そしてそれを育むことの大事さ・難しさを考えさせてくれる、一冊なのです。
私たちは既に「二つの顔」に直面している
「まあ、そうは言っても、所詮SFの話だし、そんな小難しいこと考えても仕方がないでしょ」
そう仰る方もいるかもしれません。
しかし、残念ながら、私たちは既に現実に「未来の二つの顔」に直面しつつあります。
「ルンバ」ご存知ですよね。
自動で部屋をお掃除してくれる優れものです。
私も持ってます(横着なので・・)。
「自動運転自動車」の技術、最近話題になってますよね。
自動車メーカー各社が、人が運転しないで自動で運転してくれる車の開発に火花を散らしています。
運転が苦手な人には朗報ですし、人よりかえって事故が減ることも期待できます。
「Gunosy」なんかどうでしょう。
ユーザーのtwitterなんかの活動のデータを基に、独自のアルゴリズムでひとりひとりの好みにあった記事を選んで提供してくれるオンラインサービスです。
その精度には賛否あるようですけれど、面白そうなので、私も使ってます。
これらの商品や技術やサービス、いかがでしょう。
確かに本作を始めとしたSF作品の人工知能には及ばないかもしれませんが、もうこのような「自律」「自動」の知能を備えたシステムが私たちの生活に入ってきているんです。
今後これらはますます発展・進化し、年を追うごとに私たちを驚かせる高い能力を発揮していくことは間違いありません。
そうしていつしか本作のように高度に人工知能が発達すれば、「人と機械の共存」について大きなジレンマが生まれることでしょう。
というより、「自動運転」については早くも議論になっています。
「人工知能たち」をどう扱うかの問題に、既に私たちは足を踏み入れているのです。
■2045年問題
また、SF作品のような高度な人工知能は、私たちが思うほど先の話ではないという予想もあります。
2045年問題 コンピュータが人類を超える日 (廣済堂新書)
- 作者: 松田卓也
- 出版社/メーカー: 廣済堂出版
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「2045年問題」――
人工知能が発達し、ついに人類の頭脳を完全に超えるのが2045年頃で、もはやそれ以後の文明の発達は(知能の劣った)人類には想像できなくなること。(「技術的特異点」)
SFだとばかり思っていた話が、2045年、もはやあとたったの30年に迫っているかもしれないという衝撃の内容です。
・・・多くの皆さん、おそらくまだ生きてますよね?ヤバいですよね。
この本はフィクションや小説ではなく、あくまで現在の科学の状況を踏まえ、れっきとした科学者の先生が書かれたノンフィクションの本です。逃げ道はありません。
皆様も実感されている通り、コンピューターの発達は指数関数的に進歩しています。
10年前に想像もできなかったことが、今や簡単にできるようになっています。
以前、私も外国語は機械による自動翻訳で済んじゃう日も近いかも、という記事を書きましたけれど、それどころじゃない究極の進歩も予想されているのです。
与党が大学受験者全員にTOEFLを課すという提言をするなど、世の中とかく「英語」「英語」と叫ばれています。いわゆるグローバル化というものなのでしょう。「日本の産...
「所詮こんなのはSFの話」とも、「まだまだ未来の話」とも、もはや私たちは言えない時代に生きているのです。
■ロボット兵器問題
そしてまた、もう一つ大きな現在進行形の問題があります。
それはロボットの軍事利用の問題です。
無人兵器というのは今までもあったようですが、それは遠隔で人が操作していました。しかし、最近では、人の操作を要さず「自分で判断して」敵を攻撃するロボット兵器が登場しているそうなのです。
ロボットの三原則どころか、恐ろしいことにこれは「人を殺すようプログラムされたロボット」です。
非人道的な虐殺を生みかねないとして、当然ですが反対運動が巻き起こっているそうです。
こんなロボットが開発されていること自体が頭が痛い問題ですが、今後は更に人工知能が進歩していくとなると、さらにエスカレートすることが予想されます。
核兵器を例に出すまでもなく、相手の国は使っているのに、自国が使わなければ負ける、それが軍事競争の悲しい性です。しかも、ロボットを使わなければ代わりに戦うのは「人間」です。自国の同胞の生命を犠牲にしても「使わない」という選択ができるかどうか、実に難しいジレンマではないでしょうか。
世界的な自律型軍事ロボットの開発を押し止めるのには、非常に険しい道のりが待っていることは間違いありません。
そして、将来、直接的な軍事力と高度な知能を持ったロボットがもし「暴走」した場合、果たして人類の手に追えるかどうか、想像するだけで寒気がするお話です。
私たちの未来予想図は
怖い話ばかりで、段々、未来が不安になってきますよね・・。
「ドラえもん」のような、ロボットと明るく楽しく共存する未来は、もしかして無理なのでしょうか。私たちの思い描く夢のような未来予想図は、文字通り夢物語なのでしょうか。
しばし寄り道をしていましたが、本作「未来の二つの顔」もホーガンさんの考えた未来予想図の一つと言いました。
非常に深い考察をし、ジレンマも表現しつくし、読むものの未来予想図をかき乱した本作の中で、彼がどんな結論を出したか、気になってきませんか?
彼が人と機械がどういう関係に落ち着くと考えたか、興味わいてきませんか?
是非、結末をご覧になっていただきたいです。
いえ、見ないといけないと言ってもいいかもしれません。
無論これはあくまでSFで小説で架空の話です。
ですが、もはや私たちの目の前に「未来の二つの顔」が迫っています。
架空どころか現実になっているのです。
このまま現実世界で行き当たりばったりで進めてしまっていいのでしょうか?
栄光か、破滅か、そんなギャンブルにえいやで挑んでしまっていいのでしょうか。
それは賢いやり方ではないですよね。
作中の人類だって、そんなことはしませんでした。
だから、考えないといけません、試してみないといけません。
もちろん、私たちにはまだシミュレーションできる宇宙ステーションはありません。
けれど、やれることはやらないといけないのではないでしょうか。
そう、問題に直面している現代の私たちだからこそ、本書を読んで壮大な「思考実験」に参加してみるべきだと思うのです。
私たちが、今、すぐに、簡単にできる実験は、そうやって「思考すること」なのですから。
これはまた「機械」の子どもたちをこの世界に産み落とした私たちの果たすべき責任なのだと思います。
最後に。
本作では扉でこんな文章があります。
一般に、SF作家は明日の科学的事実がどうであるかを予見すると思われている。実際には、事態は逆であることが多いのである。
1979年2月 マサチューセッツ州アクトン ジム・ホーガン
1979年って!
私も生まれてないですよ・・。
スマホどころかコンピューターも一般家庭に無かった時代ですよね。
それなのに、「事態が逆」どころか、どんどんその話に現実が近づいてきています。
とんでもないことだと思います。。。
そんなホーガンさんが1979年に立てた未来予想図。
2013年に私たちが立てられないのも恥ずかしいじゃないですか。
立てましょう。未来予想図。
考えましょう。未来のことを。
向きあいましょう。「未来の二つの顔」と。
変えましょう、未来を。
私たちの愛する世界と、両方の子どもたちのために。
あ。
そう考えると、やっぱり、本作のテーマは「AI」だけでなく「愛」もですね。
なにせ、人間の「愛」という「本能」を、「AI」にもちゃーんと教えてあげないといけないですから♪
<書評図書再掲>
<あわせて読みたい>
2045年問題 コンピュータが人類を超える日 (廣済堂新書)
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P.S.
書評のお題を見かけたので張り切ってみたのですが。。。
長いですか、長いですよね(´・ω・`)
最長書評になってしまってないかどうか心配です(笑)
さて、今回本文は「AI」というテーマについての切り口ばかりになってしまいましたが、本作は、登場する魅力的なキャラクター、SFらしい世界観の緻密さ、手に汗握るアクションシーン、驚かされる伏線の存在・・・など、話の見せ方も非常に上手くて、心地よく没入させてくれます。
楽しませてくれる上に、考えさせてくれる――名作として流石納得の一冊です。
是非、一読をご検討ください♪
「脱社畜の働き方」を読みました
皆さんもご存知、はてなブログの気鋭「脱社畜ブログ」を書かれていますid:dennou_kurageさんの著書「脱社畜の働き方」が本日発売されました!(パチパチパチ)
- 作者: 日野瑛太郎
- 出版社/メーカー: 技術評論社
- 発売日: 2013/09/07
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・・・で、早速先ほど読み終わりました(笑)
正直発売日に読破することはあまりないので、私自身びっくりしています(^_^;)
このスピード読破は、私がクラゲさんのファンということで他のことを差し置いて優先して読みにいったということもあるでしょうけれど、やはりまずは文体がブログと同じく非常に読みやすく、そして何より内容が面白かったことが大きいと思います。
ええ、非常に楽しく、時に驚かされ、そして考えさせられる充実した時間でした。
中身が短かったり内容が薄かったりという心配はありません。むしろ、ボリュームとしては思った以上にありましたし、非常に濃ゆい話も色々出てきます。
ということで、今日は、この「脱社畜の働き方」の感想を僭越ながら書いてみようと思いますー。
「ブログ」から「本」へ
本書の内容は、クラゲさんのブログと同じく「脱社畜」というキーワードを冠していることからもお分かりの通り、「働き方」というブログと同じテーマになります。
上でも書きました通り、文体はいつもブログで読ませていただいている通りの、読みやすく分かりやすいのにそれでいて説得力を落とさないあのスタイルで、「本」だからといって堅く構える必要はなくスムーズに読み進めることができます。
クラゲさんのブログが好きな方は、自然に本の方にも入り込むことができるでしょう。
しかし逆に、ブログとテーマやスタイルが同じ、と言われると、結局「それならブログを読めばいいじゃん」とか、「ブログ記事の使い回しじゃないの?」とか、新鮮味の無さを敬遠する方もいるかもしれません。
確かに、実際「あ、ここはブログで読んだことあるかな」と、ブログで既出の部分はいくらかありました。
ですが、ブログではあまり語られてない「クラゲさんが脱社畜を考えるに至った経緯」が丸々一章をかけてじっくり綴られていたり、「脱社畜しろと言ってもどうしたらいいんだ」という声に答えるために「プライベートプロジェクトのやり方」についても、これまた丸々一章をかけてコレでもかと丁寧かつ具体的な指南や解説がなされています。
(私がブログで読み飛ばしてなければ)この辺りはほぼ完全に書きおろしで、そして非常に興味深く、ボリュームもあって読み応えのある部分でした。
クラゲさんの意外な過去(ほんとビックリしました!)も明らかになるので必見ですし、今後前向きに「脱社畜」を検討されている方にも、丁寧なプロジェクトの解説はいい道標となることでしょう。
少なくともクラゲさんのブログが好きな方であれば、「使い回し」を心配される必要は全く無いかなと思います。
そして、「ブログで読んだことがある項」であってもまた、「本」で読むと印象が違うものです。
私も弱小ながらブロガーの端くれ。ブログを書いていて常々思うことは、自分が考えていることが「ちょっとずつしか出せない」というもどかしさです。
ブログで書ける記事は、いくら長く書くといっても限界があります。長すぎると読んでられないですし、書く方としても趣味として隙間時間に書くとなると現実的にあまり長くも書けません。
皆さんもご存知の通り、私のブログはよっぽど長文志向ですけれど、実のところこれでも「考えていることの全体像」に比べれば到底「短い」んです。
「全体をザーッと表したい」、そういうもどかしさをいつも感じつつも、やっぱり現実的には、考えていることをちょっとずつ出すわけです。
一つの解決策として、一つのテーマを分割して書いてシリーズ化して公開することがありますが、これもやっぱり記事と記事の間の日数が空いてしまって読者の方も「前回どんなだったっけ」と思い出すのに苦労をかけますし、新規に訪れてくれた人はTOPにある記事が「続き」だと、多くの場合「さかのぼるの面倒くさいな」と思ってすぐに帰ってしまうことでしょう。
書く側としても、シリーズを書いている間にも、何か面白い時事ネタがあったりすれば、それに対するタイムリーな記事を書きたくなることがあり、ついつい浮気してしまうこともあります(同じテーマを書き続けるのもしんどいですしね)。
しかし、それも「シリーズの連続性」が失われる一因にもなってしまいます。
やっぱりブログというのは、記事が堆積していく「ストック」の面も確かにあるものの、「今書かれた記事」「今読みたい記事」といった「リアルタイム性」や「フロー」の側面も強いものと感じます。
すると、一回一回で、それなりのところで「オチ」をつけると言いますか、記事として完結しないといけないところがあるわけです。
クラゲさんは、そのあたりが非常に上手くて、(私と違って)読みやすい長さのブログ記事の中にしっかりした内容が凝縮されています。これが押しも押されぬ人気ブロガーとなった一因でもあるでしょう。
ただ、そんなクラゲさんをもってしても、短い文章の中では、説明しきれないところや、過去に書いた話とのつながりが切れやすいところがあるようで、その情報不足による誤解の結果、理不尽な批判を受けて「追記」や「弁明記事」で釈明に追われている姿を、時々お見かけしました。
その丁寧な対応の中に、
「そうは言ってないのに・・・」「そこは前の記事で書いたんだけど・・・」
そんなもどかしさが、見えるようでした。
残念ですけど、これは「ブログ」という媒体の宿命なのでしょう。
でも、今回は「本」なんです。
いつもは断片、断片で見ていた記事が、本になることで、連続性を持った一つの流れとして捉えることができるようになります。
「点と点が線としてつながる」あるいは「音符がメロディーになる」、そう言ってもいいかもしれません。
「記事」と「記事」がつながって「章」となり、「章」と「章」がつながって「本」となることで、「クラゲさん」という一人の人間の考える「働き方」というものが、今まで以上に鮮やかに伝わってきます。
そう、だから、ブログと同じ記事であっても、本の中の流れに一体となることで、非常に自然に、そしてしっかりと入ってくるのです。
一度読んだ記事だとしても、新たな感触を与えてくれるのです。
それにしても、「ブログのもどかしさ」を越えて、自分の考えを「本」というまとまった形で提供できる喜び、それはいかほどでしょうか。
そのチャンスを受けて、クラゲさんは本当にしっかりと全体の流れを紡がれていますし、今まで見せてなかった部分をも出してきている、そう感じます。
最近になって本名を明らかにされたのも、そのような「出す覚悟」の現れなのかもしれません。
だから、大丈夫です。
クラゲさんは本気です。
クラゲさんの「脱社畜ブログ」という「ブログ」が好きなら、「脱社畜の働き方」という「本」は、よりあなたに深い体験をさせてくれます。
よりクラゲさんという人間に近づくことができます。
実際、私はクラゲさんと「労働観」はおそらくかなり似ていて、結論的なところはほぼ同じと言ってもいいのですが、今回この本を読ませていただいて初めて、同じ結論に至るにしてもその思うに至った過程や背景がけっこう違うことを知りました。
違うということは悪い意味ではありません。
同じ定理を証明するにも、証明方法が色々あるように、「人の考え方」というものの多様性や深みを感じられて、非常に面白いです。そして、違う過程の中から同じ結論が導かれたことが、より一層その「結論」に対する思いを強くできたのです。
だから、クラゲさんという人間やその考え方に興味があるなら、たとえ「ブログ」を読んでいたとしても、この「本」を敬遠する必要は全くありません。
むしろ「ブログ」を読んでいる方が「本」も楽しめるかも、そのようにも思えます。
脱社畜の思考法
ええと、はい、ちょっと脱線した気がしてきました(^_^;)
気を取り直して、具体的な本書の内容に戻ります・・・。
内部の構成としては、第1章と第2章の各項で、最後に「社畜の思考法」と「脱社畜の思考法」を並べて提示するという独特の試みがあって、これが良い意味で非常に身も蓋もないのですごく面白いです(笑)
特に「『社会人』を『社畜』に置き換えて聞くと良い」という思考法は、可笑しすぎて吹いてしまいました。。。
そんな飽きさせない工夫がありつつも、内容ももちろん非常にしっかりされています。「サービス残業は犯罪」とか「有給休暇は全部取るもの」など、ウンウンとうなずけることばかりです。
これらって「当たり前」のことなんですよね。少なくとも法律の範囲では全くもって「当たり前」なんです。
ただ、クラゲさんが本書でも書かれていた通り、このような「当たり前のこと」が「当たり前」として発言できずに、みんな心の中で押しとどめてしまっている、そんな現状があるからこそクラゲさんがこのようにちゃんと言わないといけないのでしょう。
でも、こういうことを言うと来やすいのが「仕事をしっかりやる人間を否定している」といった批判です。
ただ、これは、ブログや本書の中でクラゲさんが何度も強調されている通り、誤解です。
クラゲさんは「仕事を好きになるな」「仕事を真面目にやるな」「やりがいを持って働いてはいけない」などと言われているわけではありません。
そうではなくて「仕事を好きになることを他人に強要するな」と言っているのです。「仕事を好き」なのも「仕事は嫌い」なのも、人それぞれなんです。
「キクラゲが好き」か「キクラゲが嫌い」か、その程度の個人差でしかありません。
「仕事が好きでしっかり働くこと」は素晴らしいことです。
でも、それと同じく「仕事以外のことに没頭すること」も素晴らしいことです。
だからこそ、「『素晴らしいことだから』といって他人にそれを強要することは素晴らしくないこと」です。
大事なのは自分が仕事を「好き」か「嫌い」か、つまり自分の気持ちと向き合ったかどうか、他人に強要されて無理に好きになろうとしてしまっていないか、そこを見つめ直すことなんだと思います。
「仕事」は「仕える事」と書きます。きっと「他人に仕える」そういう意味があるのでしょう。でもそれでは「仕事」は「他人のもの」のままです。
そんな「仕事」をちゃんと「私事」――「私の事」――として「自分のもの」にできるかどうか、そんなことをクラゲさんは問いかけます。
起業の経験や、プライベートプロジェクトのチャレンジなどを通じて、クラゲさんはまさに仕事を「自分のもの」にしようとされています。その流れを本書を読めば追体験することができるのですが、その姿を感じることで、自然に私たちは「自分は仕事とどう向き合っているだろうか」考えさせられることでしょう。
34個も「脱社畜の思考法」が載っている本書ですが、最も大事なのは、多分この「仕事を自分のものにできているか考えること」なのだろうと思います。
もし、「仕事を自分のものにしたい」と思っているのであれば、本書はその助けになるでしょう。
もし、「仕事は当然素晴らしいものだ」と思っているのであっても、「素晴らしいものだからこそ一度考えてみるため」に本書はすごくいいきっかけとなると思います。本書を読んだあとも自然に「仕事は素晴らしいものだ」と思われるのであれば、それはきっと十分「社畜」ではなく「社会人」になっている、つまり「脱社畜」できているのです。
仕事を好きな人にも、嫌いな人にも。
考えるきっかけをくれる。
そんな本です。
はい、ちょっとグダグダでしたが(というか半分ぐらいは本に関係ない私の話だったような・・・)、そんなこんなでとにかくオススメです!
ちょっとでも興味のある方はぜひ(・∀・)
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⇧再掲
P.S.
ええと、そんな感じで感想でした。
ファンを公言しすぎてるので、オススメしても説得力無いかもしれませんが、それでもいいです、しょうがないですし(^_^;)
以下、筆者か読んだ人にしかわからないかもしれない細かい一言コメントを適当に並べます。
・有給休暇に業務調整要るの?
クラゲさんは有給休暇取得に「業務調整をしていればOK」って言ってらっしゃるんですが、私はもっと過激派なので「業務調整もしなくていい」とさえ思ってたりします。もちろん余裕をもって前もって申告するのが前提ですが、その有給休暇取得願いを受けた管理職が業務調整するべきだと思ってるので。
「同僚間の自主的な業務調整の必要性」というのもやっぱり「休暇を取りにくい空気」の原因でもあるかなーと。
・いい本なんですが。
いい本なんですけど、惜しむらくは、すでにある程度「精神的脱社畜」できてる人は手に取るでしょうけれど、本当に心底「社畜」な方々はその性格上なかなか読んでくれないかもって、心配です。
こればかりは地道に主張し続けるしかないのでしょうかねぇ。。。
・苦行を美とする日本社会
苦労を美徳とすると言われる日本社会。私がいつも不思議なのは、仏教の開祖であるブッダも若き日に「苦行なんて意味ない」って「苦行」を否定してることで。
ブッダはむしろそういう「苦労しないといけない」などの「こだわり」こそが苦悩の源って説かれてるんですよね。
こんなに仏教が広まってる日本なのに、なぜか「苦行崇拝」も広まっているので、私は不思議でなりません。
・入社した途端に手のひら返し
会社は「社員は家族だー」という親近感から、かえって社員に「当然やってくれるよね?」と半強制するブラック思考になるというお話。
ほんと私は「親しき仲にこそ礼儀あり」と思ってるタチなので、この雰囲気が嫌でしょうがないです。ちゃんと対等な立場として相手を丁寧に扱って欲しいです。
・プログラミング
本書を読んでると、楽しそうですごくやってみたくなりました。
以前から、ちょっと興味はあったのですが。
できるかなー?
以上でーす。