雪見、月見、花見。

ぼーっと考えたことを書いています。

書評:ちきりんさん著「未来の働き方を考えよう」

ちきりんさんの新刊「未来の働き方を考えよう」。

早速、読みました。

未来の働き方を考えよう 人生は二回、生きられる

未来の働き方を考えよう 人生は二回、生きられる

 

思えば、ちきりんさんの前作「世界を歩いて考えよう」から早くも一年経ったんですね。

その時は書評コンクールが開催されていて、良い機会ということで、私も書評を投稿しました(その時の記事)。それが運良く、入賞させていただいたのも良い思い出です。もらった賞品の図書カードは家宝にしています(笑)

 

でも、今回は特にコンクールが無くとも、たちまち、書評を書くことにしました。

それは、ただ純粋にこの本を読んで良かったと感じたからです。

そして、皆さんにも是非読んで欲しいと感じたからです。

 

みんなで未来の働き方を考えよう

前書評にも書いた通り、前作でもかなり私は感動していましたけれど、今回もまた違った意味の感動で泣きそうになってしまいました。

 

レビューなのに私事で恐縮ですが、実は私は今、ひょんなご縁から転職を誘われていて、自分の今後の働き方について悩んでいるところなんです。

転職してしまえば、私の仕事における、いわゆる一般的なキャリアを積む「順路」からは逸脱します。将来的に自分がどうなっていくのかもなかなか分かからない道ですし、しかも収入も激減してしまいます。周りの同期たちは粛々と「順路」を歩んでいる中で、非常に珍しい変わった進路と言えるでしょう。

実際のところ多少マンネリ化してきたことは否めませんが、今の仕事は楽しいし、好きですし、やりがいも感じているので、普通に考えれば「順路」をたどるのが賢いようにも思えます。

でも、その転職先の仕事内容には確かに私自身、非常に興味があり、さらに周りからも「確かに・・・雪見はすごく向いてそう」と言われるので、とても心が誘われます。

 

そう、とても悩んでいたのです。

 

そんな中、ちきりんさんが新刊を出されると聞いて、しかもそのタイトルが「未来の働き方を考えよう」というのです。

期待せざるを得ませんでした。

発売日を見て、「よし――じゃあ、ちきりんさんの本を読んでから進退を決めよう」、そう心に思うようになりました。

人の本に自分の命運をかけるなんて、ふざけているように思われるかもしれませんが、私はそれだけ悩んでいましたし、最終的に決めるのは本を読んだ後の「自分」ですから、選択の責任はやっぱり私にある状態です。ちきりんさんに全てを委ねたわけではありません。

 

そして、読了。

果たして・・・決心がついたのです。

期待していてよかった――ただ、そう思います。

 

本書のサブタイトルには「人生は二回生きられる」とあることにも表れている通り、この本は一般的な仕事観である「20代そこそこで就職してずっとそのまま定年(未来には70歳以上になるかもしてない)まで半世紀近く同じ仕事を勤めあげること」に疑問を呈するのがメインテーマになります。

いつもに増して説得力のある考察を経て、ちきりんさんは私たちの「仕事観」がいかに縛られているかを明らかにしていきます。

この本を読んでいけば、誰しもがきっと、自然に「自分にとって仕事って何だろう」とか「自分はどう生きたいのだろう」と考えさせられるはずです。

自分の仕事についても何も疑問を感じていなかった方でも、考えさせられる、そんな力がこの本にはあります。私のようにまさに自分の働き方の岐路に立っている者には、なおさら力強いものでした。

 

こう書くと、きっと批判をする方も出そうなので、ちゃんと明記しておきたいのは、あくまでちきりんさんは「20代そこそこで就職してずっとそのまま定年(未来には70歳以上になるかもしてない)まで半世紀近く同じ仕事を勤めあげること」に疑問を呈しているだけであって、否定しているわけではない点です。

十分に考えた上で、「一生この仕事一本で行く」と言う人をちきりんさんはけなすどころか、むしろ応援するはずです。

 

この本が提唱しているのは、今までのちきりんさんの著作のテーマに漏れず、「自分で考えよう」ということです。タイトルもだから「未来の働き方を考えよう」なのであって、「未来の働き方はコレだ!」ではないのですよ。

 

「人がそうしているから」・「それが常識だから」・「これが無難な道だから」――そうではなくて、「自分がこうしたいから働く」そんな視点で「働くということ」を見つめなおそう、そう、ちきりんさんは述べているのです。

 

超高齢化、グローバル化、IT化やら何やらで、社会構造が激変している昨今です。

社会の形が変われば、労働の形が変わることは否めないでしょう。

だから、今、私たちは「働き方」を考える時に来ているんです。

 

自分の「働き方」に悩んでいる人も、そうでない人も、一つのきっかけとして、是非一読をオススメいたします。

 

人の寿命、仕事の寿命

さて、ここまでで一応、本のレビュー本筋は終了なのですが、コレだけでは落ち着かないのが私のタチでございます(笑)

本を読むと、自分の頭の中で、色々考察が膨らんでいくので、書きたくてウズウズするんです(だって、考えるの好きなんだもん・・)。

ですので、こっから書いてあることはちきりんさんの本に書いてる内容ではなく、勝手に私が発展させて書いたものになります、あしからず。。。(レビューだけ読みたかった方はとばして下さい!)

 

 

さて。

ちきりんさんは本書で「一生のうちに一つの職場を勤めあげるだけでなくいろんな仕事を経験したり、間欠的に働いたりというのが普通の選択肢になってくる」そう述べられています。

これは、ちきりんさんだけが言っているのではなく、ちきりんさんも本書を書かれる上で参考にされていたという「ワーク・シフト」という本でも、「カリヨンツリー型キャリア」として細かく間欠的に働く生き方が提唱されています。

 

ワーク・シフト (孤独と貧困から自由になる働き方の未来図<2025>)

ワーク・シフト (孤独と貧困から自由になる働き方の未来図<2025>)

 

この仕事観の変化は、両著者とも「産業革命レベルの革命的な変化」として、非常に大きな変化として認識されています。

 

私自身も、確かに「これは大きな革命的な変化」と思う一方で、最近になって、実はこれは人類史上着々とすすんできた「非常に順当な」変化なのかもしれないと思うようになったんです。

 

その根拠は、「人の寿命」と「仕事の寿命」の変化の歴史です。

 

まず「人の寿命」。

「人の寿命」が歴史上どうなってきたかと言えば――そう、長くなってきましたよね。

 

織田信長が「人間50年」と詠っていた時代から幾星霜。

先日惜しくも亡くなられた世界最長寿であった木村次郎右衛門さんは、なんと享年116歳という大往生でした。

衛生環境の整備と医療の発達で驚くほどに人の寿命は長くなりました。

織田信長以前の原始時代なんかも考えれば、その差はもっともっと大きいことでしょう。

 

 

では、一方の「仕事の寿命」はいかがでしょうか。

「仕事の寿命って一体何のこと」という声が聞こえてきますけれど、例えばこういう話です。

 

人類は誕生以来、農業発明まで、長らく狩猟採集の生活を送って来ました。

そういう時代では、自分や両親、祖父母はみんな同じ仕事です。それどころか、そのまたお父さん、おじいさん、ひいおじいさん、と飽きるまで延々と辿っても、ずっとずっとみんな狩猟採集のお仕事であったことでしょう。

何しろ、狩猟生活の時代は何万年単位であるのに対し、人の世代交代は20,30年毎なのですから。

 

そのようにずっと引き継がれていく「仕事」、これがここでいう「寿命が長い仕事」という定義になります。

 

さて、その後「仕事の寿命」はどうなっていったでしょうか。

狩猟採集社会以後、農耕が始まっても産業革命時代以前までの身分制社会では、まだ代々で仕事を引き継いでいました。江戸時代の「士農工商」が私たちには親しみやすいと思います。代々、一家で、仕事を受け継いでいきましたよね。「家を継ぐ」という概念もこの頃は当たり前でした。

だから、きっと仕事の寿命は何世代分もあったことでしょう。

 

それが、産業革命などを経て、自由な市民社会が形成されるようになると、状況が変わってきます。

現代でも時折、ぶつかってますよね、「家業を継ぐ、継がない」って。

なぜ、こういう衝突が起きるかといえば、「自分の一生の仕事は自分で決める」という時代に入ったからです。

子どもからすれば「自分のやりたい仕事」に就きたいのに、親が「自分の仕事を継がせたい」と言うから、ケンカになるのです。

これを読んでる皆様や私のような現代っ子としては、「親御さんのお気持ちも分かるけど、子どもにとっても自分の人生なんだから、そりゃそう思うよね」と、どちらにも一定の理解を示すのが一般的でしょうか。

でも、そうは言いつつも、実際には結局のところ自分で選んだ仕事についている人がほとんどではないでしょうか?

 

これが、どういうことを意味しているかと言えば。

 

「仕事の寿命が縮んでいる」んですよ。

 

昔は、何千年、何万年もあったはずの「仕事の寿命」。

この「仕事の寿命」がたったの「1世代分」。つまり、「個人がそれぞれ自分の一生の仕事に就く」、そんな「仕事」の短命時代に入ってしまっているということなんです。

 

冷静に周りを見渡してみれば、それもそのはずです。

今を謳歌するIT系のお仕事の数々。

きっと数十年前には存在してなかったですよね。

あるいは過去には一世を風靡していたはずの、お仕事の数々。地元の代々続いていたはずの八百屋さんや魚屋さんや酒屋さんが消えて、コンビニやファストフード店に様変わり。

そんな風に、伝統のお仕事がどんどん撤退していく姿を私たちは見ています。

 

もちろん、根強く生き残っている方々もいますけれど、全体としてみれば、仕事の変遷が非常に早くなっていることは否めないでしょう。

そう、「仕事の寿命」は短くなっているのです。

 

 

さて、一方で、前述の通り、「人の寿命」は伸びています。

で、「仕事の寿命」は短くなっています。

その結果、何百世代分もあった「仕事の寿命」が1世代分まで短くなりました。

 

・・・さあ、この先に起こることは何でしょう?

 

簡単な話です。

「仕事の寿命」が「人の寿命」より短くなる――すなわち「1世代のうちに仕事が何回転かする」んです。

 

だから、そう。

 

ちきりんさんが言うように、

「一生のうちに一つの職場を勤めあげるだけでなくいろんな仕事を経験したり、間欠的に働いたりというのが普通の選択肢になってくる」

と聞くと、一見「激動の波」が来たように思えるかもしれませんが、実は、すごーく自然な成り行きなんですよ。

ただ、人類史上ずっと「人の寿命」が伸び続け、「仕事の寿命」が縮み続けた。その自然な経過なんです。

 

そう考えると、本書のような「人生のうちにいくつか仕事を変える選択肢も当たり前」という提言に対して、「一生を一つの仕事に打ち込むべきだ」と反論するのは、おそらくきっと「自分の仕事は自分で決めたい」と言う私たち世代に対して、「家の仕事を継ぎなさい」と私たちの親や祖父母の世代が言うようなものなのでしょう。

 

もちろん、「一生を一つの仕事に打ち込むべきだ」――そんな親御さんたちのお気持ちも分かります。

でも、多分、それがだんだん当たり前じゃなくなってきてしまった。

そういうことなんですよ、きっと。

 

そう、これは、誰が決めたわけでもなく、ただ、歴史の潮流というもの。

 

私にはそう思えるんです。

 

 

10年後に食える仕事、食えない仕事

10年後に食える仕事、食えない仕事

 

 

P.S.

ということでレビューでした(え、レビューだったの?)。

でも、まだまだおまけで一言。

 

ちきりんさんは本書をすごく難産だったと書かれていました。

読むまでは、どうしたんだろう、と思っていましたが、読んで納得しました。

ちきりんさんの前三作よりも、本書はすごく実例や具体例の記載が多いんですね。

後ろの参考文献リストを比べてみれば一目瞭然で、前三作より圧倒的にリストが増えているんです。

 

何故、これだけ力を入れられたか、想像してみたのですが、この本は前三作と違って、「アフターちきりん」さんの本だからではないでしょうか。

前三作はよくも悪くも多分、仕事をされていた時代の「ビフォアーちきりん」さんの要素から構成されていたように思います。

第一作「ゆるく考えよう」は「生き方」、第二作「自分の頭で考えよう」は「考え方」、第三作「世界を歩いて考えよう」は「世界的視点」。いずれも確かに「ちきりんさん」ではあるのですが、でも、おそらく退職以前にある程度「ちきりんさん」の中で確立されていた内容だったのでしょう。

 

一方で、本書「未来の働き方を考えよう」は、ちきりんさん主催の「ワーク・シフト」のオンラインリーディングに端を発した、仕事を離れた以後の「ちきりんさん」がブロガーとして色んな人と会い、色んな話を聞いて、考えたこと。そんな、仕事をしていた当時の「リアルちきりんさん」の要素の薄い、ブロガーとしての「ちきりんさん」の集大成なんだろうと思うんです。つまり、それまでの「ちきりんさん」の中ではまだ確立されていなかった考え方だったはず。

 

ちきりんさん自身、本書の中で第二の人生を始めようと決断して仕事を辞められたエピソードを書かれています。そこでまさに、「ちきりんさん」は「ビフォアーちきりん」さんから「アフターちきりん」さんに変わったのだと思います。

そして、ビフォアーとはまるで違う、産声を上げたばかりの第二の自分の人生を改めてまとめあげるのは、確かに難産にもなりましょう。

 

でも、それだけにブロガーとしてのちきりんさんの純粋な想いが詰まった力作です。

本書は「第二の人生」を提唱する本ではありますが、多分、この本自体が「第二の人生」で形作られています。

だから、この本がこうして存在している、ただそれだけでその主張が説得力を持つのです。

 

では、皆様も是非とも、どうぞ~。

 

 

統計学は最強の学問ではない

この間、「統計学が最強の学問である」という本を読了しました。

 

統計学が最強の学問である

統計学が最強の学問である

 

統計の話は私も興味がちょうどあったところ。ちらほらと話題にも上がっていてけっこう売れているようだったので、私も読んでみました。

そしたら、これがなかなかの当たりでして!

 

おおまかには、統計学の社会における有用性と重要性を統計学に馴染みのない一般人にも分かるように平易に解説している本ということになるのですが、非常に話が面白いんです。あまりにも楽しいので、あっという間に読み終えてしまいました。

あくまで学識ばらない一般向けの本ということで、よくも悪くも煽り文句が目立つのも本書の特徴です。

売り文句の冒頭からして、

 

あえて断言しよう。あらゆる学問のなかで統計学が最強の学問であると。

 

と、タイトル通りの、一見傲慢な主張さえ声高に述べる鼻息の荒さです。

 

そんなわけで、せっかく興味深い本に巡り合いましたので、今回は本書のレビューをしつつ、私なりの意見もはさんでいきたいと思います(レビューはちきりんさんの本で書いて以来、久々ですね・・・)。

 

 

さて、レビュー開始にあたり、私もあえて断言させていただくと、

 

統計学は最強の学問ではありません!

 

わー、身も蓋もない。(笑)

 

はい、というわけで、今日も一緒にボーッと考えていきましょう。

 

 

 

統計リテラシーは超大事

のっけからタイトルを否定するような主張を掲げておいてなんなのですが、冒頭から褒めちぎっていることからお分かりの通り、私も筆者の統計学の重要性を訴えたいという思いには、とってもとっても共感するものです。基本的に本書の内容は同意・賛成なんです!

 

ではまず、統計学がなぜ重要かといえば、本書でも再三言われている通り、この社会には統計学の素養(統計リテラシーなどと言われます)が無いと、色々な判断を誤ってしまって、利益のチャンスを失ったり、不利益を被ったりすることが、少なくないからです。

 

 

「ゲーム脳」の恐怖

統計リテラシーを欠いた誤判断として有名なのが、本書内にも挙げられていた「ゲーム脳」の恐怖のお話です。

 

犯罪行為をはたらいた少年たちは暴力的なゲームを好んでいることが多い。

⇨だから、少年犯罪を防ぐために暴力的なゲームを禁止しよう!

 

こんな言説、きっとみなさんも聞いたことありますよね。

一見、もっともらしいようにも思ってしまうかもしれませんが、この主張にはとっても論理の飛躍があるのです。少なくとも「犯罪行為をはたらいた少年たちは暴力的なゲームを好んでいることが多い」という前提だけでは、とても暴力的なゲームを禁止する根拠にはつながりません。

 

 

問題点①:対抗馬の不在

ツッコミどころは多々あるのですが、大きなポイントを挙げておきますと、まず「犯罪行為をはたらかなかった少年たちが暴力的なゲームを好んでないかどうか」が確認されていないという点があります。

もし「犯罪行為をはたらかなかった少年たち」の方がより暴力的なゲームが好きだったとしたら、まずその時点で、「暴力的なゲームを禁止する」主張は無理が出てきますよね。だから、その結論を強く主張するためには、少なくとも「犯罪行為をはたらかなかった少年たち」はどうなのかという対抗馬の情報も挙げる必要があります。

対抗馬の情報を挙げなくてもいいのなら、

 

犯罪行為をはたらいた少年たちは毎日パンを食べていることが多い。

⇨だから、少年犯罪を防ぐためにパンを禁止しよう!

 

なんて、トンデモビックリな結論だって導き出すことができるからです。

パンなんて犯罪をしてない少年たちだって、そしてもちろん私たちだって、かなりの頻度で食べてますよね(笑)

ええ、当たり前の話のように聞こえるかもしれませんが、案外、この「対抗馬はどうなのか」という点を抜きにした議論というのは実は少なくないのです。

 

 

問題点②:因果関係は不明

あともう一つの大きなツッコミどころは、ちゃんと対抗馬のデータも持ってきて、ちゃんと「犯罪行為をはたらいた少年たちの方が犯罪をしてない少年たちより暴力的なゲームを好んでいた」としても、「暴力的なゲームが少年犯罪の原因」とは言えない点です。

これも一見するとひっかかりそうなポイントなのですが、例えばこんな主張を考えてみて下さい。

 

普段日本語を話す人たちは正月に初詣に行くことが多い。

⇨だから、正月の初詣を禁止すれば、日本語を話さなくなる!

 

だって、調査の結果、普段日本語を話す人たちは、普段英語を話す人たちより、確かに正月に初詣に行くことが多いんです!だから、理屈から言えば、やっぱり正月の初詣を禁止すれば日本語の会話を防ぐことができるんですよ!!

 

・・・なんて言われたら、いやいや、ちょっと待ってよ、と思いますよね(笑)

そうなんです、こんなの、ただ日本の文化だからですよね。確かに日本語を話す人のほうが初詣に行く傾向はあるでしょうけれど、初詣に行くから日本語を話すわけじゃないですよね。

そう、たとえ相関関係があっても因果関係があるとは限らないんです。

 

でも、暴力的なゲームの廃止を叫ぶ人は、実は同じ理屈を言っています。

例えば、少年犯罪の原因は暴力を推奨するような家庭環境にあるのかもしれません。その家庭環境が原因で暴力的なゲームを好んだり、犯罪をしでかしたりしているだけかもしれません。なら、元の家庭環境を改善しないでゲームだけ禁止しても、犯罪は減らないのは明らかですよね。

こう考えると、当たり前の話なのですが、案外、この「因果関係はどうなのか」という点を抜きにした議論というのはこれまた少なくないのです。

 

 

人は都合よく考える

結局、こういった誤判断(少なくとも早計な判断)が何故起こるかと言えば、人はついつい、いわゆる「結論ありきの理屈」を述べたくなるものだからです。

意識的にせよ無意識的にせよ、私たちは、ついつい自分の好む結論に持って行きたいがために、都合の良い解釈をしたり、論理の飛躍をしたりしてしまうものなのです。

 

統計学というのは、実はこういった「主観的な判断」「恣意的な判断」「都合のいい判断」を防止するための学問と言ってもいいぐらい、「主観」「故意」「恣意」を嫌います。だからこそ、凄まじく「客観的」な学問です。

このように統計学は「客観的」な立場であるからこそ、先ほどのような詭弁を防ぐことができます。誤判断を避け、正しい道を照らす道標と言ってもいいでしょう。

玉石混交の様々な情報や主張があふれている現代で、情報を客観的に吟味できる統計リテラシーが非常に強力かつ重要な能力だという筆者の主張は、非常に共感できるところと思います。

私も一緒に声を大にして「統計学大事だよ!」って叫んであげたいぐらいです。

 

 

統計学の弱点

さて、一般に学問というのはかなりシビアに「客観的」であることを求められる領域です。

どんな素晴らしい主張であっても、「客観的な根拠は全くないのですが、私はそう信じています」と最後に付け加えるだけで、誰も聞いてくれなくなります(笑)

だから、非常に「客観的」である統計学というのが「最強の学問」なんだという筆者の主張ももっともかもしれません。

にも関わらず、私が「統計学は最強の学問じゃない」と言うのはなぜかといえば、やっぱり統計学にも弱点があるからです。

 

おそらく実は筆者もその弱点が分かった上で本書を書かれていると思うんですよね。

例えば冒頭に挙げた売り文句も、

 

あえて断言しよう。あらゆる学問のなかで統計学が最強の学問であると。

 

分かります?「あえて」なんですよ。

本当は弱点もあると思ってるけれど、とにかく今は統計リテラシーの重要性を周知させたいという想いから筆者は「あえて」最強の称号を掲げたんだと思うんです。

 

 

統計の目指すゴール

さて、そんな統計学の弱点の切れ端は実は本書の中にもちらりと登場しています。

ちょっと長めの引用をしますと。

 

統計学をある程度マスターすれば「どのようにデータを解析するか」ということはわかる。だが、実際に研究や調査をしようとすれば、「どのようなデータを収集し解析するか」という点のほうが重要になる。

(中略)

では、私たちはいったいどのようなデータを比較し、その違いを生み出しうる要因を探し当てればよいのだろうか?

その答えを一言で言えば、ごく簡単だ。「目指すゴールを達成したもの」と「そうでないもの」の違いを比較しさえすればいい。あるいはゴールを達成するという表現は「自分にとってより理想的」とか「より好都合」と言い換えてもいい。

こういう風に説明すると、「それでは目指すゴールとは何なのか?」という質問をいただくこともあるが、その質問に対して私が返せる最も正確な答えは「知らんがな」である。あるいはもう少し紳士的に言うと、「それは人それぞれですね」ということになる。

 

つまり、統計学では「ゴール設定」が課題となってくるんですね。

この点については本書の中でも面白いエピソードが紹介されていて

 

「我が社(もしくはクライアント企業)には何テラバイトにも及ぶ膨大なデータが溜まっている。Exadataほどではないがサーバも導入した。で、ここから何かわからないだろうか?」

こうした相談を持ちかけてくる企業のことが、私はいつも不思議でならない。

「何がわかるかもわからずに、なんでそんな投資したんですか?」と正直聞きたい。

 

「ゴール」についてのイメージが定まらないまま、多分何かできるはずと思って統計用の高い買い物をしてしまった企業の話。

例えて言うなら、この話は高級なゴルフクラブを買っておいて、「で、これは何に使う棒なのかな」と言っているようなものですよね(笑)

何事もそうですけれど、ちゃんとゴールも決めないまま、せっせと高級な道具だけ揃えるなんて、そりゃおかしい話なわけです。

 

 

ゴールを決めるという主観的な作業

しかし、先ほどのゴール設定についての引用文章をよく見てみてください。

 

「自分にとってより理想的」「より好都合」ですよ?

 

えっと・・・めっちゃ「主観的」ですよね。

 

そう、他でもない、この「統計のゴール設定は主観的に行われる」という点こそが、私の考える統計学の最大の弱点なのです。

 

考えてもみて下さい。

本書の中でも統計学の歴史の節で触れられている通り、IT技術が発展して、昔に比べたら統計は簡単に大規模に行えるようになったとはいえ、それなりにお金や労力がかかる行為です。

だから、みんなどうしても「役に立つであろうテーマ」や「利益のでそうなテーマ」について統計を取ろうとします。大規模な統計であればあるほど、大規模な予算や人員が必要になりますから、よりその傾向は強くなります。

 

例えば、博打かなんかで使うサイコロを振った時の出目についての統計や分析は行われても、サイコロの飛距離や回転数を調査する人はまあ稀でしょう。あるいは、競馬の勝ち馬の特徴を分析する人はいても、投げ捨てられた外れ馬券の滞空時間を調査する人はいませんよね。

だって、サイコロの飛距離や外れ馬券の滞空時間なんて調査したところで、特に役に立ちそうもありませんからね。

 

そうするとどうなるでしょう。

あえて根拠レスなことを言いますが、そう、統計のゴールの分布の統計をもし取ったとすれば、きっとめちゃくちゃ偏るんですよ。

 

先ほどのゴルフの例で言えば、ゴルフクラブを使って打ったボールの目指す先って、あたりまえですけどホールだったり、せいぜい途中のフェアウェイですよね。バンカーやOBや池ポチャを狙う人なんて、まあ、いないわけです。

 

つまり、「主観」「故意」「恣意」を嫌う「客観的」な統計学も、それが仕えるべき「統計のゴール」という主人は、まさしく「主観」「故意」「恣意」でできているという弱点があるのです。

その「ゴール」という自分勝手な主人は統計学の手の届かないところに居るために、統計学ではどうにもできない「目の上のたんこぶ」なのです。

 

 

学問が客観的であるために

最強の「客観的」な刺客だったはずの統計学が手出しできない「ゴール設定」という弱点に対して、学問がその理想とする「客観性」を実現するためにできることは一つしかありません。

それは「ゴールをとにかく各自で自由に考えること」です。

つまり「出来る限り何でも別け隔てなく調べること」です。

なるべく、一見「どうでもいいようなこと」さえ調べるべきです。「役にたちそうにないこと」だって気をつけるべきです。

多くの人がやっていることから、あえて離れたテーマを研究してみる人も必要なんです。

 

そうしてなるべくテーマが分散してランダムになるようにしないと、統計学が私たちに教えてくれた、学問の肝である「客観性」が発揮できないのです。

本書の中でもページを大きく割いて触れられていたように「ランダム性」という要素が統計学の「客観性」を担保する最大の特徴です。

しかし、「ゴール設定」についてはその「統計学」が闘えない領域である以上、私たちが私たち自身で出来る限りランダムになるようにするしかないのです。

つまり、各研究者の多様性こそが学問が客観的になるために最も必要な要素なのです。

 

 

実用的なのが学問ではない

以前、私が「ニセ科学」の記事でも主張した通り、学問に対する社会からの「実用的であれ」という圧力は凄まじいものがあります(代表的なセリフが「二位じゃだめなんですか?」でしたね)。

しかし、改めて主張しますけれど、学問というのは「探求する」のが本質であって、「役に立つかどうか」は二の次なのです。

そして「探求する」ことを第一にしているからこそ、「役に立つ」とも言えるのです。

 

例えば「役に立つ」という一つのゴールに全ての学問が追従した時点で、学問は多様性を失い「客観性」を失ってしまいます。

「客観性」を失えばどうなるかといえば、結局統計のゴールが「主観的」になってしまい、それこそ最初の「ゲーム脳の恐怖」の例で挙げたような危険な誤判断や早計な判断につながりかねません。

つまり、ややこしいのですが、統計学が私たちに教えてくれたことを踏まえれば、「役に立つ」ことを追求し「客観性」を失った結果、「主観的」になり、かえって「役に立つ」ことが阻害されるパラドックスさえ生じうるのです。

 

 

統計原理主義者の矛盾

「統計学が最強の学問である」と私が言いたくない理由はココにあります。

統計リテラシーが無いことも問題ですが、統計学などの「客観性」が強い学問を最強と信じるあまり、客観的でない意見をすぐに排除する、いわば統計原理主義者というような人も見受けられるからです。統計リテラシーが強すぎる人と言ってもいいでしょう。

 

例えば、「◯◯が△△だから、□□なんじゃないかなー」という主張を誰かがした途端、「その根拠は?」「◯◯の定義は?」「どこにそんなデータがあるの?」と問い詰め始め、ちょっと言いよどむと、「ほーら、客観性を欠いた、主観的な意見だね、デタラメ言うな」などと彼らは断じます。

 

しかし、先ほどから述べています通り、私たちが神ならぬ人である以上、「統計のゴール」は主観的なものにしかなりません。そしてそのゴールを目指すためには、まず「◯◯が△△だから、□□なんじゃないかなー」という主観的な仮説を立てないと話は進みません。

 

ですが、統計原理主義者は客観性を重んじるあまり、この仮説の段階で「根拠となるデータ」を求め、客観的でないとして、それを否定することがしばしばあります。

それが論文や学会発表などの「客観性の祭典」ならいいでしょう。そこでは「客観的であること」が至上のルールだからです。ただ、その客観性のリング外でさえ、暴力的に「客観性」の物差しを振るう人はやはり居るのです。

 

そう、逆説的ですが、客観的でないとして主観的な意見を排除すればするほど、テーマの多様性が失われて、学問全体としては主観的になってしまうのです。

これこそが統計原理主義者の矛盾です。

 

ゴルフの例えで言えば、すごく上質のゴルフクラブを持っていてそれを振っていい球を飛ばすけれど、ホールの位置を全然違う場所と思い込んいる可能性があるという感じです。

なぜって、世界は本当はゴルフのように「ホールの位置」は事前に決まっていないので、下手をするとグリーンの中にホールが無くて、バンカーの中にあってもおかしくないからです。グリーンの方にだけ打ち込んでも実は全然ホールに入っていないということも起こりえます。

だからこそ、バンカーでもOBでも池でも色んなところに打ち込むしかないのです。

でも、一人一人はどうしても主観的、つまり一打ずつぐらいしか打てないのですから、みんなでなるべく色んな所にボールが飛ぶように色んな向きに打ってみるしか無いのです。

 

 

統計学は最強の・・・

本書の筆者も「ミシンを2台買ったら一割引きで、売上が上がるのか?」という節で、一見馬鹿げたような仮説をすぐに「誤り」と決めつけてしまうことの愚かさを説いています。

 

ですから、きっと、筆者も、優れた統計家ほど「根拠は?」「データは?」などと問い詰めるばかりのような統計原理主義にならず「ゴールの設定は人それぞれ」と「多様な主観的な見地」も大事にする、と潜在的に主張したいのではないかなぁと、私は本書を読んで感じました。

 

その上でまず統計リテラシーの普及のため、「あえて」「統計学が最強の学問である」と掲げた筆者。

 

だからこそ、私はその「あえて」の気持ちを組んで、「あえて」「統計学は最強の学問ではない」と主張したいのです。

 

もちろん、統計学は非常に重要で有用な学問です。

客観性を担保したい時には、非常に大切な存在です。

学問にとってはとてもとても欠かせない全ての学問に共通した基盤であり、武器なんです。

 

ですから、統計学は「最強の学問」ではなくて、言うならば、

 

「統計学は最共の学問である」

 

そして

 

「統計は学問にとって最強の武器である」

 

のです。

 

 

 

 

 

P.S.

相変わらずのぶっとんだ主張を、相変わらずの長文でお送りいたしました(/ω\)

ちなみに、どんな仮説も誤りと即断してはいけないからこそ、実は「ゲーム脳の恐怖」仮説も、本当は上の理屈では否定されたわけではありません。便宜上、「誤判断」扱いさせていただきましたが、本当は本文中カッコの中にも示したとおり、「まだ結論を断定するには早い早計な仮説」でしかありません。

だから、「ゲーム脳の恐怖」を主張してはいけないとは言えないのです。

しかし、あまりにも真実であったり、証明されたものであるかのように強く主張しすぎれば、やはりそれは客観性を損ないますから、そこまでいくと、批判されても仕方がないというのはあるのですけれど。

なので、もし読まれた方の中に「ゲーム脳」関係者の方がいらっしゃっても、怒らないでくださいね(;・∀・)

 

統計リテラシーの解説については、ブログである都合上、ちょっと理屈を端折っているとこもありますが、そこはご容赦下さい。「結局統計学ってどんなんなの?」と興味がわいた方は是非本書を手にお取りいただければ!